米・英に留学とは? わかりやすく解説

米・英に留学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 00:38 UTC 版)

南方熊楠」の記事における「米・英に留学」の解説

1886年明治19年1月、『佳人之奇遇』4冊を購入2月和歌山帰郷4月羽山太郎誘いを受け日高郡旅行する心機一転し自由な学問ができる新天地求め留学決意当時外国留学するには莫大な費用がかかったが、その頃南方家の財力頂点達しており問題はなかった。父親当初留学反対していたもの徐々に熱意理解示し最終的に留学後押ししたという。10月20日より4日間『和歌山新聞』に送別会広告掲載される26日和歌山市内の松寿亭で送別会開かれる参加者は熊入れて16人。このときの熊演説に関して草稿残されている。12月22日横浜港出航して渡米船内中国人乗客筆談する。 1887年明治20年1月8日米国サンフランシスコ着。パシフィック・ビジネス・カレッジに入学8月ミシガン州農業大学ミシガン州ランシング市、現・ミシガン州立大学入学当初商業を学ぶ予定だったが次第に「商買の事」から離れていった。ミシガン州立大学一流大学であったが、熊大学入らず例によって自分書籍を買い標本集めもっぱら図書館にゆき、曠野林中遊びて自然を観察す(履歴書)」という生活を送る。 熊邦文のものは当時東京にいた弟の常から送ってもらい、英文のものは自ら購入して多く書物雑誌読破していった。 1888年明治21年)、寄宿舎での飲酒禁ずる校則違反して自主退学ミシガン州アナーバー市に移り動植物観察読書いそしむこの間シカゴ地衣類学者ウィリアム・ワート・カルキンズ(wikidata)(英: William Wirt Calkins)に師事して標本作製を学ぶ。 この採集整理記載標本作りという生活スタイル子供の頃昆虫などを空の弁当箱詰めたことに始まって学生時代アメリカ放浪記経て帰国後の那智隠遁棲期、田辺定住、そして晩年まで変わることはなかった。これは自分の病(癇癪など)を自覚したが自らに施した対症療法であろう指摘されている。 1889年4月てんかん発作がおきる。日記によれば1886年10月以来のこと。8月19日アナーバーにいるミシガン大学日本人留学生回覧するため、熊手書き発行した一部だけの個人新聞珍事評論第1号発行第3号まで発行1890年3月プリニウス博物誌』(ラテン語)を購入する5月タイラー原始文化』、ハーバート・スペンサー社会学原理』などを購入5月から11月にかけてヒューロン川の川辺付近森林高等植物菌類中心に盛んに採集を行う。12月シカゴアマチュア植物学者カルキンスから菌類標本送られ連日分類目録作成する1891年明治24年1月、カルキンスから地衣類60一箱標本送られる同年5月フロリダ州ジャクソンヴィル市に移り生物調査中国人の江聖聡経営する食品店で住み込みで働く。新発見緑藻科学雑誌ネイチャー』に発表ワシントンD.C.国立博物館から譲渡してほしい旨の連絡が入る。 7月、ピトフォラ・オエドゴニアを採集する9月にはキューバ渡り採集旅行石灰岩生地衣を発見(ウィリアム・カルキンスから標本送られたウィリアム・ニランデルにより、新種として「Gyalecta cubana(ギアレクタ・クバーナ)」と命名されるが、正式に発表されず)。 1892年明治25年1月フロリダ戻り聖聡と再び同居9月渡英した。日本飛び出してから6年歳月流れ、熊25歳になっていた。9月28日イギリスで、8月8日死去した父・弥右衛門訃報を受ける。 1893年明治26年)、科学雑誌ネイチャー10月5日号に初め論文極東星座」を、同10月12日号に論文動物保護色に関する中国人先駆的観察」を寄稿オーガスタス・ウォラストン・フランクス知り合い大英博物館出入りするうになる考古学人類学宗教学などの蔵書読みふける日々が続く。 10月30日、自らの生涯かけがいのない存在となる人物土宜法龍巡り合う仏教中心とした宗教論哲学論で熱論を交わす。12月土宜法龍に対して「事の学」の構想に関する長文の手紙を送る。 1894年明治27年)、 『ネイチャー5月17日号に論文「コムソウダケに関する最古の記録」を、12月27日号に論文「『指紋』法の古さについて1」を寄稿。これらの論文はいずれも熊中に蓄積され和漢知識駆使して書かれたものである。いわば「東洋の知」をもって英国学会切り込んだのであるこうした一連の仕事によって熊の名は英国識者たちに知られるようになった1895年明治28年)、フレデリック・ヴィクター・ディキンズ知り合う大英博物館東洋図書目録編纂としての職を得る。『ネイチャー6月27日号に論文「網の発明」を寄稿。またこの年4月より「ロンドン抜書」を開始する1896年明治29年2月27日に母・すみが亡くなった。『ネイチャー2月6日号に論文驚くべき音響1」を寄稿1897年明治30年1月シュレーゲルに落斯馬(ロスマ)のことについて手紙を送る。このあといわゆる「ロスマ論争」に発展3月ロンドン亡命中の孫逸仙孫文)と知り合い親交始める(孫文32歳、熊31歳)。6月、熊日記中に孫文友情のしるしとして「海外知音」を書き付ける11月8日大英博物館日本人への人種差別を受け暴力事件起こす12月大英博物館より入館証返してもらい読書再開する1898年12月夕方大英博物館閲覧室女性高声制し監督官との口論の末、追い出される14日大英博物館から追放通知を受ける。 1899年1月31日、常よりの手紙を読み「此夜不眠」。仕送り当年限り打ち切るという内容前年12月21日付の常書簡残されており、このことかと思われる3月、南ケンジントン博物館での日本書の題号翻訳仕事始める。6月3日付の『N&Q』に同誌初めての投稿神童」が掲載される

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