ひ‐おうぎ〔‐あふぎ〕【×檜扇】
桧 扇
檜扇とは檜の薄片を末広がりに綴り合わせ、手もとに要をつけ、先を絹の撚糸で編み綴った板扇であり、表に金銀箔を散らし、彩絵して束帯など、平安宮中の公の儀式の際の持ち物でした。木簡から派生したと考えられ、東寺の千手観音像の腕の中から発見された元慶元年と記された物が、我が国最古の檜扇とされている。当初は男性が用い、女性は「はしば」という団扇の一種を持っていましたが、次第に女性も檜扇を用い初め、宮中の女人が常に手にするようになりました。初めから装飾的役割が与えられていたが、特に女性が用いるようになってさらに彩り華やかな物になりました。国風文化が花開く中に優雅さと繊細さを加え、平安時代中期には、三重、五重(みえ、いつえ)と呼ばれる数多い矯数(骨数)の扇ができ、草花、人物などが彩られ、美しい彩糸を長く垂らしていました。
桧扇(壬生家伝来)
主名称: | 桧扇(壬生家伝来) |
指定番号: | 41 |
枝番: | 0 |
指定年月日: | 1988.06.06(昭和63.06.06) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 歴史資料 |
ト書: | |
員数: | 2握 |
時代区分: | 鎌倉・室町 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 壬生家(本姓小槻氏)に伝来した中世の桧扇二握で、そのうち春日行幸次第を記した扇は薄い桧板を用い、三六・七センチの長さで、幅は上部が三・九センチ、下部が二・六センチである。親骨・中骨とも二十五橋(枚)を完存し、上部中央には白絹緘糸の残欠が認められ、要には穴があけられて現在は紙撚を通して結んでいる。墨書にて「春日行幸次第」と内題があり、続いて本文が両面にわたって記され、一橋に二行ずつ表裏七十七行に及んでいる。本文には一部頭注、傍注や首付が書き加えられ、その途中までは墨合点が加えられている。文中具体的人名は見出せないが、先例として挙げられている年紀は、長暦二年(一〇三八)、永長度、寛治度、治承であるので、この墨書の書入れは治承年間以降であることが判明し、書風よりみて鎌倉時代中後期のものと認められる。文永七年(一二七〇)三月十四日、弘安九年(一二八六)三月二十七日に春日行幸が催されたことが『続史愚抄』『勘仲記』等に明らかで、その頃に小槻氏が春日行幸の次第を手控としてこの扇に書き記し、実際に儀式の場で用いたものと考えられる。 内裏上棟の次第を記した桧扇は、長さ三六・〇センチ、幅は上部が三・二センチ、下部が二・〇センチで、現在十五橋を存している。上部中央には緘穴の跡が見られ、要には穴があけられて現在は紙撚を通して結んでいる。墨書は片面のみで、後欠ではあるが、一橋に一行ずつ計十四行を存している。内題はないが、本文は内裏の上棟次第を表わし、具体的人名は見出せないものの先例として応永八年(一四〇一)の年紀が見られる。そのため、この墨書の書入れは同年以降であることが判明するが、書風よりみて室町時代前中期と考えられる。この時期の内裏の上棟は、永享元年(一四二九)、文安三年(一四四六)、康正二年(一四五六)に行われ、この扇はその頃に使用されたものと考えられる。 このように、これらの桧扇は、朝廷の儀式に参画した実務官人小槻氏がその次第を前もって墨書にて書き付けて実用に供したもので、中世公家社会の儀式や制度のあり方を具体的に示す稀有な遺品である。 |
ヒオウギ
ひおうぎ (檜扇)
●わが国の本州から四国、九州それに台湾や中国に分布しています。日当たりのよい山地の草原に生え、高さは60~100センチになります。葉は剣状で、長さが30~50センチあります。8月から9月ごろ、上部で分枝して数個の花苞をつけ、橙色の花を咲かせます。花披の内外片は同じ大きさで、内側に赤い斑点があります。蒴果のなかには、真っ黒な種子があり、これが「烏玉(ぬばたま)」と呼ばれます。万葉集では「黒」や「夜」を導く枕詞として引用されました。たとえば柿本人麻呂の歌。「烏玉(ぬばたま)の黒髪山の山菅(やますげ)に、小雨降りしき、しくしく思ほゆ」
●アヤメ科ヒオウギ属の常緑多年草で、学名は Belamcanda chinensis。英名は Blackberry lily。
アヤメのほかの用語一覧
ニワゼキショウ: | シシリンキウム・ベルム 庭石菖 |
パルダンカンダ: | パルダンカンダ |
ヒオウギ: | 檜扇 |
ホザキアヤメ: | バビアナ バビアナ・アーリーブルー バビアナ・ケダルベルゲンシス |
檜扇
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