日本におけるノックダウン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 10:13 UTC 版)
「ノックダウン生産」の記事における「日本におけるノックダウン」の解説
日本でも自動車産業の黎明期に、欧米メーカーがノックダウン生産を行なっていた。戦前は米国のフォードおよびGMが自己資本で生産拠点を設立した。具体的には、1925年から日本フォード、1927年から日本GMが太平洋戦争勃発時まで操業し、CKD(コンプリート・ノックダウン生産)をおこなった。両社は日本だけでなく中国などのアジア市場を視野に入れて設立されたものだった。米国系では他にクライスラーが、安全自動車ら当時の日系輸入代理店数社が出資する合弁企業とする形で、1930年に共立自動車製作所を設立してCKD生産を行っているが、日本フォード、日本GM、共立自動車のいずれも日中戦争激化と欧州での第二次世界大戦勃発などに伴う日本政府からの生産縮小圧力(自動車製造事業法)により生産台数を減少させていき、最終的にはアジアでの大東亜戦争勃発により止めを刺される形で1939年から1941年までの間に日本から撤退を余儀なくされている。日本政府は日本フォードや日本GMの工場を接収したが、その製造ノウハウまで吸収する事は叶わず、日本陸軍と日本海軍間の資材や製造工場などの工業リソースの激しい奪い合いも災いし、軍用トラックや戦車などの製造能力の拡大には繋がらなかった。トヨタ自動車や日産自動車も日本GMや日本フォードの技術者の引き抜きや製造課程の見学などを行ったが、年間生産台数では日本GM、日本フォードの規模に比肩することなく、日本の敗戦と旧日本軍の解体により戦前の国産自動車産業は一旦死滅に近い状態に追い込まれる事になる。 戦後になると、戦後日本の産業復興のためには自動車産業の強化が必須であるとした当時の通産省の指導の下、日本の自動車メーカーの成長のために様々な保護貿易的政策が取られた。連合国軍最高司令官総司令部も連合国軍占領下の日本をアジアにおける反共の防壁とする為に通産省の政策を後押しした。具体的には1948年に日本の自動車産業の戦争責任を免責し、復興金融金庫法でも融資の第一号は自動車産業に振り向けられた他、戦前に日本政府により接収され、敗戦と共にGHQに移管された日本フォードや日本GMの敷地をなかなかフォード・GM両社に返還せず、両社の日本再進出を事実上拒否するに等しい姿勢を見せたのである。結局、日本フォードの敷地が返還されたのは1950年代の後半までずれ込み、両社の日本再進出は完成車 (CBU = Complete Build-up) 販売という形でしか実現しなかった。 通産省は様々な政策により日本の自動車産業の再興を図ったが、戦後混乱期の深刻な食糧不足と貧困なども影響し、国産自動車の研究開発はなかなか進まなかった。1940年代後半、国内各社は復員してきた工員や若手の技術者が力を結集させ、トヨペット・SA型小型乗用車やダットサン・DA型小型乗用車(英語版)、ダットサン・DS型小型乗用車(英語版)、オオタ・PA型小型乗用車のような先駆的な小型乗用車を世に送り出したが、肝心の日本国民側にオーナーカーとして乗用車を持つ余力は全くなく、庶民の足はどんなに良くても陸王やメグロなどのオートバイ止まりでほとんどは月賦で買った自転車が精々という状況で、事業者の需要も殆どはオートバイから発展したオート三輪に集中しており、乗用自動車の需要は戦前同様にタクシーやハイヤー事業者に細々とあるのみであり、いずれの車種も販売面では振るわず短命に終わっている。車を作っても買う顧客が満足におらず、新設計の性能を試すに足るまともな道路も無い状況では、いくら技術者に気概があっても大量生産体制の確立や開発の技術蓄積、信頼性の向上もままならない状況であった。 日本政府の戦後復興の姿勢自体も一枚岩ではなく、鉄道省(運輸通信省)を引き継ぐ形で発足した運輸省及びその傘下の日本国有鉄道は、戦時中連合軍の空襲から免れた事も幸いして敗戦の日まで辛うじて国内の流通網を維持しきった自負や、軍国主義復活阻止の観点から、戦前の軍部の強い保護を受けて発展し、敗戦により旧日本軍と共に一度死滅した日本の自動車産業の再興には強い反対の姿勢を見せ、日本国内の自動車需要は輸入関税の引き下げを伴う輸入車両の拡販で賄うのが望ましいとの立場に立ち、通産省の国内自動車産業育成の路線と激しく対立した。インフラ投資の面でも高速道路網の整備を主張する建設省と、既存の鉄道網の拡大発展を主張する運輸省の間で厳しい予算の取り合いが行われる状況であり、1950年代後半に建設省がワトキンス・レポートをバネに東名高速道路の建設に着手するまでは、鉄道網整備が予算上でも優勢な状況であった。このような背景の中、当面の期間欧米メーカーの比較的信頼性が高い事が欧米市場で実証済みの普及車種を国内各社にノックダウン生産させ、その製造ノウハウを国内メーカーに再び吸収させる事により、運輸省を始めとする鉄道推進派の糾弾の矛先を逸らす方策が採られたのである。 こうして、1950年代初頭には日本において多数のノックダウン生産が開始された。具体的には、1951年に東日本重工業(のち三菱日本重工業)が米国・カイザー=フレーザー社のカイザー・ヘンリーJを生産開始した。1953年には複数の企業がノックダウン生産を開始した。いすゞ自動車が英国・ルーツ自動車のヒルマン・ミンクスを生産し、日野自動車がフランス・ルノーのルノー・4CVを生産し、日産自動車が英国・オースチン自動車のオースチンA40を生産し、さらに、三菱自動車工業が中日本重工業、新三菱重工業の時期にカイザー=フレーザーの子会社となっていたウィリス=オーバーランド(英語版)社のジープのノックダウン生産を開始している。オースチンとジープは後にライセンス生産に切替えられ、とくにオースチンはA40からA50になった時点で部品を含めすべて国内生産され「完全国産化」と賞賛された。カイザー・ヘンリーJ、ヒルマン・ミンクス、ルノー・4CV、オースチンA40、A50はそれぞれ本国の会社では「最低価格帯におけるエントリー車」と位置づけられたものだったが、日本ではいずれも最高級車であった。このことからも当時の日本の乗用車産業のおかれた状況を推し量ることができる。なお、日産自動車が80年代に生産したフォルクスワーゲン・サンタナは日産自動車の社長であった石原俊がフォルクスワーゲンとの提携の為に行ったものでかつてのノックダウン生産の意図とは異なっている。 日本の自動車産業は成長するにつれ世界中に部品を輸出する側に回ることになった。日本車のノックダウン生産は現在発展途上国を中心に世界中でおこなわれている。
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