按語・事例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/09/12 09:47 UTC 版)
戦国時代の中国で、当時強盛を誇った覇権国家・魏が趙と戦った際に、趙は次第に追い詰められ、ついに魏軍に都の邯鄲を包囲されてしまった。趙は同盟国の斉に援軍を求め、斉の威王はすぐさま田忌(中国語版)を孫臏と共に派遣して趙を救援させた。だが、孫臏は邯鄲に向かおうとする田忌を途中で留めてこう言った。 「絡まった糸を解くときには無理に引っ張らないほうが良い。闘いから救おうとするなら直接加わってはいけない。要所を突き、虚を突いて、形勢を崩してやれば、糸はおのずから解けていくものだ」 孫臏は魏本国を攻め都の大梁を包囲することで、魏軍を趙から撤退させ、引き返して来た魏軍を桂陵の戦い(中国語版)で大破して趙を救った。 このように、敵を一箇所に集中させず、奔走させて疲れさせてから撃破する戦術を囲魏救趙の計と呼ぶ。 出典は『史記』「孫子呉起列伝」。 表・話・編・歴 兵法三十六計 勝戦計 01. 瞞天過海 | 02. 囲魏救趙 | 03. 借刀殺人 | 04. 以逸待労 | 05. 趁火打劫 | 06. 声東撃西 敵戦計 07. 無中生有 | 08. 暗渡陳倉 | 09. 隔岸観火 | 10. 笑裏蔵刀 | 11. 李代桃僵 | 12. 順手牽羊 攻戦計 13. 打草驚蛇 | 14. 借屍還魂 | 15. 調虎離山 | 16. 欲擒姑縦 | 17. 抛磚引玉 | 18. 擒賊擒王 混戦計 19. 釜底抽薪 | 20. 混水摸魚 | 21. 金蝉脱殻 | 22. 関門捉賊 | 23. 遠交近攻 | 24. 仮道伐虢 併戦計 25. 偸梁換柱 | 26. 指桑罵槐 | 27. 仮痴不癲 | 28. 上屋抽梯 | 29. 樹上開花 | 30. 反客為主 敗戦計 31. 美人計□ | 32. 空城計□ | 33. 反間計□ | 34. 苦肉計□ | 35. 連環計□ | 36. 走為上□ 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:三十六計
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按語・事例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/02 06:19 UTC 版)
我が動かないときに敵が動かねばならぬように仕向け、我が少し動くときに敵は大きく動かねばならぬように仕向け、我が主導権を握り敵を振り回すようにして敵の兵員の疲弊と物資の浪費を誘う。奇襲急襲が功を奏するときもあるが、すぐに戦闘そのものに入らず、我が方の軍の動きで敵を撹乱して、あらかじめ敵の勢いを削ぎ、我が攻めやすいような弱点を生じさせることを心がけるべきである。 中国の劉秀(後の後漢の光武帝)は新朝の皇帝と成った王莽によって簒奪された漢王朝を復興しようと兵を挙げたが、戦乱により大陸全土は荒れ果て、大軍を維持・運用する為の補給線を確立するのは困難であった。 そこで劉秀は軍団の規律を厳しくし、少数精鋭の兵力を引き連れて敵の領地の中に陣地を築き、ひたすら守りを固めて相手の大軍が兵糧不足で退却を始めるのを待ってから攻撃に移る戦法を多用した。 少数精鋭の劉秀軍は補給も容易く、常勝無敗で略奪もしないというので各地の人々は次々に劉秀に従った。劉秀が後漢の光武帝として即位した後も彼の休民政策は維持され、明帝の時代に後漢の最盛期を築く基礎となった。 以逸待労が劉秀の由来とされるのは袁宏撰『後漢紀』に拠る。 AD26年9月、赤眉は再び長安に入り、劉秀の将鄧禹は赤眉と連戦するも敗れ、三輔と呼ばれる長安の周囲は饑えて、人が人を食う状態であった。この時の劉秀の詔勅からである。すなわち袁宏撰『後漢紀』の建武2年9月に「上(光武帝=劉秀)、また鄧禹に詔して命ず『兵を整え堅く守り、困窮した寇賊と鋒を交えるを慎め。老賊は疲弊し、必ず手を束ねる事に成らん。飽を以て饑を待ち、逸を以て労を撃つ。鞭が折れるほど、これにむち打たんのみ』」とある。 同じく袁宏撰『後漢紀』の建武5年(AD29年)冬には、徐州の張歩を攻めていた耿弇が光武帝に上書した内容が記載されている。すなわち『臣(耿弇)、臨淄に拠って塹塁深く、張歩は必ず自ら来たりて臣(耿弇)を攻む。以逸待労、実を持って撃たば、十日ほど間に張歩の首を獲るべし。」と言い、果たして耿弇は攻めてきた張歩を待ち構えて破った。
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按語・事例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/15 19:41 UTC 版)
敵の被害や混乱に乗じる、いわゆる火事場泥棒の計略。敵の国内に害があればその土地を奪い、国外に害(外患)があればその民を奪い、内外に害があれば国ごと奪え、と言う。謀って「火事」を自作自演で引き起こすことも含む。 春秋期、越王は、呉が凶作の年に、呉王が北方の黄池で諸侯会議に出席している留守を狙って呉を攻撃して大勝した、とされる。 戦国期、斉が、韓と同盟して燕を攻めようとしたが、趙と楚が妨害した。その時、秦と魏が韓を攻めた。斉王は韓に援軍を出そうとしたが、臣下の田忌が、趙や楚が韓を助けるので放置しておくよう諌めた。果たして、趙や楚は韓に援軍を出し、秦、魏、趙、楚、韓の間で戦争になった。その間に斉は一国単独で燕を攻めたが、他国の妨害がないので30日で攻略に成功した、とされる。 表 話 編 歴 兵法三十六計勝戦計 01. 瞞天過海 | 02. 囲魏救趙 | 03. 借刀殺人 | 04. 以逸待労 | 05. 趁火打劫 | 06. 声東撃西 敵戦計 07. 無中生有 | 08. 暗渡陳倉 | 09. 隔岸観火 | 10. 笑裏蔵刀 | 11. 李代桃僵 | 12. 順手牽羊 攻戦計 13. 打草驚蛇 | 14. 借屍還魂 | 15. 調虎離山 | 16. 欲擒姑縦 | 17. 抛磚引玉 | 18. 擒賊擒王 混戦計 19. 釜底抽薪 | 20. 混水摸魚 | 21. 金蝉脱殻 | 22. 関門捉賊 | 23. 遠交近攻 | 24. 仮道伐虢 併戦計 25. 偸梁換柱 | 26. 指桑罵槐 | 27. 仮痴不癲 | 28. 上屋抽梯 | 29. 樹上開花 | 30. 反客為主 敗戦計 31. 美人計□ | 32. 空城計□ | 33. 反間計□ | 34. 苦肉計□ | 35. 連環計□ | 36. 走為上□ 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:三十六計
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按語・事例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 07:15 UTC 版)
本来は「明修桟道、暗渡陳倉」(めいしゅうさんどう、あんとちんそう)という。大々的に「蜀の桟道」を修理しながら、その裏で密かに軍に陳倉を経由させて関中の章邯を奇襲した韓信の故事にちなみ、偽装工作と奇襲をあわせる戦術をいう。なお「蜀の桟道」は現存しており、全長は200kmを超える。 暗渡陳倉は、声東撃西と似ているようであるが、声東撃西では攻撃開始は敵にむしろ知られるべきであり、複数の目標への攻撃によって真の攻撃目標を敵に悟らせないことに主眼があるのに対して、暗渡陳倉では偽装工作にあたる「明修桟道」により、攻撃開始自体を敵に悟らせないことに主眼がある。 秦滅亡後の紀元前206年、劉邦は項羽から、蜀の漢中(現・陝西省)に封じられた。劉邦は、項羽の拠点関中へ進軍する意図がないことを誇示するために、秦嶺山脈の褒河に沿った断崖絶壁にある木造橋梁の街道、通称「蜀の桟道」を焼き払った。 劉邦の臣下となった武将の韓信は、項羽が反乱平定のため各地を転戦するようになったのを好機として、敵に知れるように「蜀の桟道」を目立つ大人数の人夫で修理するのとあわせ、密かに山脈を大きく迂回し、陳倉から旧道を利用して関中を奇襲するという作戦を献策し、実行に移した。敵将章邯は、長大な「蜀の桟道」を修理しているはずの劉邦軍は、来るにしてもかなり先だろうと油断していたが、突然の攻勢に次々と城を破られた。その勢いのまま韓信は、章邯軍のみならず他の項羽側の武将も滅ぼし、関中を掌握して劉邦の天下統一、漢の建国のさきがけとなった。 また韓信は、魏を攻めるにあたり、敵軍が船着場の対岸を徹底的に防衛しているのを見て、船を多数並べて敵を引きつけた。その隙に主力を密かに上流側に回らせ、木の桶と棒や槍で作った即席の筏で河を渡り、魏の都を攻めた。韓信の見立て通り、魏軍のほとんどが河で防衛にあたっていたため、魏の都はあっさり落ち、魏王を捕らえて降伏させた。 失敗例として、三国時代の蜀の姜維が、魏の鄧艾に陽動を見破られて撃退された例が挙げられる。鄧艾軍と交戦していったん退却したはずの姜維軍がまたすぐ進軍してきて、河をはさんで布陣したまま動かないで待っていた。それがまるで攻めてくれと言わんがばかりの不自然さであったため、怪しんだ鄧艾がすかさず拠点の洮城に取って返したところ、姜維の本隊がのこのこ攻めて来たのでこれを迎撃した、とされている。
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按語・事例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 07:24 UTC 版)
東で声を発してそちらにいると見せかけ、実際は西を撃つ戦術。陽動作戦の一種。敵に対しては弱小のように見せかけて誘い出し、堅強な兵で迎え撃つ。西に領土を広げようとするなら、まず東に進むのが良い。 後漢末、朱儁が南陽郡の宛で黄巾軍を包囲した際、城の西南で鼓を鳴らさせて黄巾軍を誘い出す一方、朱儁は精兵5千を率いて城の東北を襲い虚に乗じて入城した。 このように、こちらの動きによって敵を翻弄し、相手の防備を崩したところを攻めるのを声東撃西の計と呼ぶ。 ただし、この戦術は統率の取れた相手には通用しない。呉楚七国の乱のとき、漢の周亜夫は城に篭って決して打って出ようとはしなかった。呉兵が東南を攻める動きを見せたときも、周亜夫は西北を守らせた。果たして呉兵は西北より攻めかかってきたが、待ち構えていた漢兵によって撃退された。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 07:27 UTC 版)
まず無=虚を示して敵を欺き、その後に有=実を用いて攻める戦術。 最初に、敵が本気にするような、はったり、偽装を敵に示して欺く。次に、それがはったり、偽装であることを敵に気づかせる。仕上げに、再び同じ手段を敵に示しても、敵は油断して反応しない。ここで一気に攻撃して敵を破る。童話「オオカミ少年」の心理を策略としたものと言える。 孔融が黄巾賊の残党に包囲された際、孔融の将太史慈は自らは馬にまたがり弓を持ち、従者には的を持たせて城の外に出た。そして的を射ると戻る、ということを行った。最初は警戒していた黄巾賊も、これが何度も行われるに及び、大して興味を持たないようになった。そうして油断しきった中、太史慈は突如馬を駆って包囲を突破。劉備に救援要請を行い、援軍を引き連れて戻った。この軍を見た黄巾賊は撤退し、孔融は窮地を脱することができた。 孫堅が劉表の江夏城を攻めたとき、その守りが硬いので一計を案じ、城の軍の矢を消費させることも狙って、夜毎にかがり火をかかげた小船の大群で城に接近してみせる策を取った。城主黄祖は毎晩、火矢を使って反撃し孫堅の軍を撃退したつもりになっていたが、7日目にして、小船は兵が乗っていない空の船であることに気がついた。その次の夜も、城に接近してくる小船の大群があったが黄祖の軍は反撃せず眺めていた。ところが今回は多数の兵がひそかに乗船しており、一気に城を襲撃。江夏城は落城した。[要出典] 表 話 編 歴 兵法三十六計 勝戦計01. 瞞天過海 02. 囲魏救趙 03. 借刀殺人 04. 以逸待労 05. 趁火打劫 06. 声東撃西 敵戦計07. 無中生有 08. 暗渡陳倉 09. 隔岸観火 10. 笑裏蔵刀 11. 李代桃僵 12. 順手牽羊 攻戦計13. 打草驚蛇 14. 借屍還魂 15. 調虎離山 16. 欲擒姑縦 17. 抛磚引玉 18. 擒賊擒王 混戦計19. 釜底抽薪 20. 混水摸魚 21. 金蝉脱殻 22. 関門捉賊 23. 遠交近攻 24. 仮道伐虢 併戦計25. 偸梁換柱 26. 指桑罵槐 27. 仮痴不癲 28. 上屋抽梯 29. 樹上開花 30. 反客為主 敗戦計31. 美人計□ 32. 空城計□ 33. 反間計□ 34. 苦肉計□ 35. 連環計□ 36. 走為上□ 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:三十六計
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按語・事例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 07:16 UTC 版)
敵の秩序に乱れがあれば我は放置して敵の自滅自壊を待つ。こちらが攻めずに放置すれば、敵は団結する理由を失い、内紛の火種は大きな火事となる。また、隔岸観火の語は、火攻めの極意を示しており、孫子の「火攻篇」の趣旨と同じだとも言う。 袁尚、袁煕は曹操に敗れて東の公孫康の下に敗走したが、臣下が攻めるように勧めたにもかかわらず曹操はそのまましばらく放置した。すると公孫康は袁尚、袁煕を斬って、首を曹操に送ってきた。曹操がこれを予言していたので、将軍たちが曹操に理由を尋ねたところ、「こちらが攻め立てれば彼らは同盟協力しあっただろうが、追いつめずに放っておけば、互いに疑心暗鬼となる。その結果、こうなるのは明らかだ」と答えた(三国志)。 中国春秋時代に晋の宰相趙盾は宋、衛、陳とともに晋から離反した鄭を攻めた。楚の大臣鬬椒は鄭へ救援に向かい、「楚王はこれから諸侯を帰服させるのに、配下の私が諸侯の難儀を見捨てることが出来ようか」と言って、陣を構えて決戦を挑んだ。鬬椒の豪勇を知る趙盾は「彼の一族は楚で盛んであるのでやがて滅びる。しばらく驕らせておこう」と言って兵を退いた。果たして後年、鬬椒は荘王の謀臣蔿賈を幽閉して殺し、叛乱軍を起こして荘王に鎮圧された。鬬椒・蔿賈という優れた武将を二人も一挙に失ってしまった荘王は、以降の重要な戦いでは常に自らが先頭に立って軍を率いねばならなかった。 後年、荘王が臣下に国事を諮ったところ、誰一人自分よりも優れた意見を出す人物が居なかった。荘王は嘆息して、「どのような時代にも聖人はおり、どのような国にも賢者は乏しくない。真の師を見いだして臣下にすることが出来た者は王となり、友となる資格のある者を臣下に出来れば覇者となれる、と聞いている。私は特別優れているわけでもないのに、その自分に及ぶ者がいないとなれば、楚の国の将来はどうなるのか」と言った。居並ぶ群臣は、返す言葉もなかったという。結局荘王の死後、楚は天下の覇権を晋に奪われることになる。 出典は『呉子』。 このように、敵が内側に火種を抱えている場合に、それが燃え盛って敵が自滅するのを待つ戦術を隔岸観火の計と呼ぶ。 表 話 編 歴 兵法三十六計 勝戦計01. 瞞天過海 02. 囲魏救趙 03. 借刀殺人 04. 以逸待労 05. 趁火打劫 06. 声東撃西 敵戦計07. 無中生有 08. 暗渡陳倉 09. 隔岸観火 10. 笑裏蔵刀 11. 李代桃僵 12. 順手牽羊 攻戦計13. 打草驚蛇 14. 借屍還魂 15. 調虎離山 16. 欲擒姑縦 17. 抛磚引玉 18. 擒賊擒王 混戦計19. 釜底抽薪 20. 混水摸魚 21. 金蝉脱殻 22. 関門捉賊 23. 遠交近攻 24. 仮道伐虢 併戦計25. 偸梁換柱 26. 指桑罵槐 27. 仮痴不癲 28. 上屋抽梯 29. 樹上開花 30. 反客為主 敗戦計31. 美人計□ 32. 空城計□ 33. 反間計□ 34. 苦肉計□ 35. 連環計□ 36. 走為上□ 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:三十六計
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