大阪時代
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「ニコライ・ネフスキー」の記事における「大阪時代」の解説
1922年4月、大阪外国語学校(現・大阪大学外国語学部)でロシア語教師として教鞭を執ることとなり、転居する。 1922年夏、26年夏、28年の3度宮古群島へ出かけ、民俗、民謡(アーグ、アヤゴ)などの調査を行い、雑誌『民族』などに発表。方言辞典編纂のためにカードやノートをまとめたりした。1回目の調査旅行では、上運天も同行した。東恩納寛惇や伊波普猷とも親しく手紙をやり取りしていた。 1925年、中国調査旅行、中国学者アレクセイ・イワノヴィチ・イワノフとの出会いを機に、カラ・ホトの西夏語のテキストの研究と西夏文字の解読に着手し始める。 1927年6月、マレー語教授浅井恵倫と台湾へ調査に行く。浅井はセデック語、ネフスキーはツォウ語を対象に、原住民から直接神話や伝説を聞きながら音声や文法を導出するという方法で調査した。タナンギ在住中はウォンギ・ヤタユンガナ(日本語名矢田一生)とその兄パスヤ(同次郎)からツォウ語の話を聞き取った。同年7月、大阪外国語学校で結成した大阪東洋学会を、石浜純太郎、高橋盛孝、浅井恵倫、笹谷良造らとともに発展させ「静安学社」改名、幹事の一人に就任(静安学社の名は、結成直近に亡くなった西夏学者王国維の字の静安からとったものであった)。 更に、石浜純太郎との交友から、西夏語や西夏文字への研究関心が向けられ、西夏語文書を理解し、文法を再構、西夏語・英語・ロシア語による西夏語辞典を編纂。この学術的功績は没後、1960年刊行された西夏語の近代辞書で、千ページにわたる西夏語の辞書の草稿として「タングーツカヤ・フィロローギヤ」(西夏語文献学/Tangut Philology )の題で出版、新世代の学者に西夏語テキスト研究の門戸を開いた。1962年、レーニン賞が与えられた。 京都帝国大学(現・京都大学)文学部でもロシア語を教え、弟子の中には石田英一郎、高橋盛孝、田村実造がいた。
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大阪時代
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1877年からアメリカに留学し、帰国後牧師になった同郷の沢山保羅の感化を受けて山口を離れ、1878年(明治11年)に大阪の浪花教会で入信する。組合教会の運動で同年に設立された梅花女学校で主任教師を務め、翌1879年(明治12年)には浪花教会に属し、旧福井藩士の娘で女学校生徒であった服部満寿枝と結婚。私財を投じて学校経営の維持を図るなど教職には熱心であったが、伝道活動への意思が強く、1882年(明治15年)に卒業生を送ると教職を辞し、牧師としての活動をはじめる。沢山保羅の浪花教会を拠点に、翌1883年(明治16年)には奈良県生駒郡郡山町(現大和郡山市)の出張伝道所へ移る。1884年(明治17年)には郡山教会の独立を許されてその初代牧師となり、布教活動をおこなう一方で女子教育を研究する。
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大阪時代( - 2021年3月)
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「アヤコノ」の記事における「大阪時代( - 2021年3月)」の解説
大阪府枚方市出身。2歳の頃エレクトーンを始める。2014年ジュニアエレクトーンフェスティバル、2017年ヤマハエレクトーンコンクールにてファイナリストに選出されている。中学入学後まもなく不登校となり、気分転換のためにドラムを習うために音楽教室に行ったところ、ベース・ギターに初めて触れた。14歳の誕生日にベースを買ってもらったことから、ベースの練習を始めた。2020年3月、活動していたバンドの脱退を機にTwitter上で「弾いてみた動画」の投稿を開始した。Vulfpeckの「Dean Town」投稿時にJoe Dart本人からのリアクションがあるなど話題となる。 抜毛症を公表しており、対策としてかぶるようになった帽子がトレードマークになっている。
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大阪時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 08:18 UTC 版)
M-1優勝前の大阪時代には8か月無休で仕事があったが、月の給料が25万程度だった月が2回あったと述べている。 下積みが長く、何組もの後輩がブラマヨより先に売れていた。『新しい波8』のオーディションを受けるも不合格となり、同番組に出演し合格した後輩のキングコングやインパルスに対して「あいつら顔だけで選ばれたんや」と毒付いていた。しかし吉田が堤下敦(インパルス)と初めて会った際、「(後輩だけど)テレビに出てる人や」と何も言えなかった。この件で考えを改めた吉田は小杉へ「俺らいつまでも後輩の悪口言ってる場合とちゃうぞ。まずはテレビに出な何もならへん」と発破をかけ、コンビとして前向きな姿勢を持つようになった。 吉田が先輩でコンビ揃って同じテレクラでバイトしていた。 「ブラマヨ無限大」より同じアパートの別の部屋に住んでいた。入居を決めた際、4階と5階に1つずつ空き部屋があったがそのアパートにはエレベーターがなく、「吉田はいつもネタを考えてくれたりして大変だから、せめて1階分の上り下りだけでも楽をさせたい」と小杉は自ら進んで5階を選んだ。吉田はそのことに感謝しているという。理由として当時既にビッグネームであったダウンタウンやとんねるずの「相方の電話番号を知らない」「相方とはビジネスパートナーの関係」という発言を格好良いと受け止める風潮が若手芸人の中にはあったが、ブラマヨは「ダウンダウンさんやって若手の頃は、2人で濃密な時間を過ごしていたはずで、だからこそ今がある。売れた後の発言を聞いて上辺だけを真似するのは違う」と考え、いつでもネタ合わせができるようにするためと述べている。 小杉は東京での仕事が増え始めた頃からと引っ越しを考えていたが、吉田の「まだや」という考えの下で東京ではホテルの連泊を続けていた。当時大阪の吉本芸人が宿泊していたホテルアイビス六本木には100泊以上したと言っている。
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大阪時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/04 09:28 UTC 版)
大正2年(1913年)年の暮、大阪に転居。その後まもなく、南区島之内にて、関西川柳社「番傘」の会員として創作活動を行うとともに、「絵日傘」を発刊。大正後期になり、北区老松町に転居し、ここで、大正13年(1924年)3月に「大大阪」を刊行し、以後、昭和4年(1929年)4月まで発行を続けた。また、川柳活動の当初の時期以来、京都、大阪、東京など各地の川柳作家と交流を続けながら、句集や川柳史研究など、川柳に関する著作も手がけていった。 戦後になってからも、創作、選者双方の取組を続け、昭和39年(1964年)4月には、造幣局付近に川柳句碑「大阪に花の里あり通り抜け」が建立された。また、造幣局の桜の通り抜けの川柳投句の選者を昭和55年(1980年)まで務めたほか、後身の育成にも力を注いだ。
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