合気道とは?

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あいき どう あひきだう [3] 【合気道】


合気道

歴史と沿革

合気道は、開祖植芝盛平(1883~1969)が、日本伝統武術を「道」へと発展させた現代武道1931年現在の新宿若松町専門道場現在の合気道本部道場)が建設され、ここを拠点活動始まりました。1941年には茨城県岩間町野外道場設け1969年開祖逝去すると植芝吉祥丸(1921~1999)が道主を継承し、率先して国内外への合気道の普及にあたるとともに組織発展運営に努めました。1999年からは、植芝守央(1951~)が道主となり更なる飛躍備えています。

合気道はいたずらに力に頼り他人相対して強弱勝敗を争うことをせず、互いに切磋琢磨を図り自己の人格完成求め心身練成武道であり、したがって競技体系をとらず、日々技法反復練習行い人間内面的充実を図ることを主眼としています。

合気道の技法は、間合いを活かして一瞬相手死角側面に入る「入身」と、身体の中心をしっかりさせて用いる「円転」のさばきをもとに成り立っています。

習練法の特徴として足腰鍛練目的とした座り技と、逆手を用いない順手関節技が挙げられます。その技法は自ら攻撃することをせず、自らに加えられる暴力のみを制するもので、相手殺傷することはありません。生命が軽んじられる風潮にある現代において、最も普及求められる武道といえるかもしれません。


国内外への発展

合気会1948年、合気道に関する唯一の公益法人として、文部省より財団法人認可を受け、戦後の合気道の発展弾みがつきました。1954年頃から国内各地支部道場開設され、 各大学実業団でも合気道クラブ結成されていきます。 1960年には合気会主催第一全日本合気道演武大会開催され、以後毎年回を重ね、現在は出場者約6,000名を数え大会となっています。

外郭団体として1961年全国学生合気道連盟防衛庁合気道連合会1976年全日本合気道連盟発足2001年現在は、合気会公認支部800カ所、 会社官公庁などのクラブ300カ所を数えています。

合気道の海外への普及1950年頃から始まり、現在約80カ国に支部道場設置されています。1976年国際合気道連盟IAF)が結成されました。 1984年IAF国際競技団体総連合(GAISF)の正式会員となり、国際ワールドゲームズ協会IWGA主催ワールドゲームズ大会には、第3回大会1989)より毎回参加しています。

近年各国組織による自主的活動活発化し、日本政府による国際交流基金指導者派遣国際協力事業団青年海外協力隊による指導者派遣等も追い風になっています。

合気道がわずかの期間で全世界に広がったのも、心身練成の「道」として人種国境を越えて認められたからといえるでしょう。合気道は21世紀新し人類文化として、大きな役割を担っています。



合気道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/07/11 16:10 UTC 版)

合気道(あいきどう・合氣道)は、武道家・植芝盛平大正末期から昭和前期にかけて創始した武道。植芝盛平が日本古来の柔術剣術など各流各派の武術を研究し、独自の精神哲学でまとめ直した、体術を主とする総合武道である。




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  1. ^ 天地の気に合する…出典:『合気道一路』221頁
  2. ^ 武道別人口数(1993年)…「国際柔道連盟:164ヶ国・約2000万人、国際剣道連盟:31ヶ国・約780万人、国際空手道連盟:143ヶ国・約3000万人、国際合気道連盟:38ヶ国・約120万人」(出典:『武道』224p
  3. ^ 代表的な武道…「武道は、武士道の伝統に由来する我が国で体系化された武技の修錬による心技一如の運動文化で、柔道、剣道、弓道、相撲、空手道、合気道、少林寺拳法、なぎなた、銃剣道を修錬して心技体を一体として鍛え、人格を磨き、道徳心を高め、礼節を尊重する態度を養う、国家、社会の平和と繁栄に寄与する人間形成の道である。 平成二十年十月十日 日本武道協議会制定 」(財団法人 日本武道館公式ウェブサイト「武道の理念」
  4. ^ a b 合気道人口…「海外では欧米諸国はもちろん、最近では東南アジアやブラジル、アルゼンチンといった南米の国々でも盛んに行われ、95ヶ国約160万人にも及ぶ人々が、日々稽古に励んでいるのです。」(出典:『合気道パーフェクトマスター』18頁) 「現在、合気道人口は大ざっぱに見て、国内では内輪に見積もって110~120万人であろう。(中略)合気会傘下の(中略)団体の加入者を加えた概算である。海外では、20~30万人修行者がいるので、世界の合気道人口は130万人から150万人というところだ。」「国内の組織の90パーセントは合気会に加盟している。」(出典:『図解コーチ 合気道』38-39頁
  5. ^ a b 海外支部道場数(財)合気会公式サイトの記述による。
  6. ^ 世界平和への貢献…「争いもない、戦争もない、美しいよろこびの世界を作るのが合気道である。」(出典:『武産合気』140頁
  7. ^ 盛平の小柄な体躯…ただし肩幅・胸板の厚みなど骨格・筋肉は非常に逞しく、怪力の持ち主であった。体重は壮年期でも75kgに達していたという。日露戦争出征時(21~22歳)「五尺一寸五分の短身ながら体重は二十貫」(156cm, 75kg)とある。(出典:『合気道』177頁
  8. ^ 上京の経緯…大本教団内の有力者であった浅野和三郎の兄・海軍中将浅野正恭が竹下勇に盛平を紹介したことが大きなきっかけとなった。盛平は槍で米俵を持ち上げ別の場所に積み替えるという技を披露し、山本から「明治維新以来これほど素晴らしい槍使いを見たことがない」と激賞された。(出典:『植芝盛平伝』182-184頁
  9. ^ 入門者の制限…無頼の輩による合気道の悪用を恐れた盛平は、入門にあたり、身元の確かな二人以上の保証人があることを条件とした。(出典:『植芝盛平伝』307頁
  10. ^ a b 岩間隠棲…盛平は軍への協力には消極的であったといい、1942年(昭和17年)大日本武徳会への統合を機に、病気などを理由に東京での一切の職を辞し、昭和10年頃から土地を買い集めていた茨城県岩間町に移住した。その際「このたびはどうやら、祖国苦難の戦となりそうじゃ」と、半ば敗戦を予測し、「わしは祖国復興に備えて岩間に合気道の拠点を確保する」と語ったという。(出典:『戦後合気道群雄伝』20頁
  11. ^ a b 武道禁止政策…昭和21年暮にGHQより発された。ただし全面的な禁止ではなく、「学校での授業・対抗試合」などが「軍国主義の鼓舞」であるとして禁止されただけであった。しかし刀剣保持禁止令も発されるなど武道に対する警戒感は強く、無用にGHQを刺激せぬよう、多くの武道家が表立った活動を自粛したのであった(出典:『合気道一路』93-94頁)。なお合気会本部は認可当初から昭和28年まで、東京ではなく岩間に置かれた。「当分はその方が、GHQを刺激しないでよかろう」という文部省の判断であった(出典:『合気道一路』106頁)。
  12. ^ 一般への公開…出典:『合気道教室』19-21頁
  13. ^ 国際合気道連盟(IAF)
  14. ^ 日本武道館 武道授業関連情報>連載名:武道授業実践の概要紹介(2011年2月号~)「田辺市における中学校武道授業必修化に向けた取組」(合気道)「笠間市における中学校体育武道『合気道』導入に向けて」「東みよし町における中学校武道必修化に向けた取組」(合気道)( 2015年4月19日閲覧。)
  15. ^ 試合を行なわない理由…合気会の見解

    Q:合気道にはなぜ試合がないのですか。

    A:現代における武道の価値というものを考えましたときに、現代に生きている一般の人が行えて何かしら生活に結びつく点がなければ、その意味はないに等しいのではないのではないでしょうか。この現代にあって、誰かと武術で勝負をし、その勝敗にこだわることにどれほどの意味があるのでしょう。 『合気道では試合はしない』という立場を一貫してきました。

    何故かというと、合気道には『相手を倒す』という思想がないからです。もし試合を行えば、必ず『勝ちたい』『相手を倒したい』という執着心が生じるでしょう。そうした思いがあっては、自然と一体にはなれません。それは天地自然の調和に反しているのです。

    自然と一体になり天地自然と調和するということが合気道の要諦です。したがって試合を行えば、それは合気道にとっての一番大事な理念自体を否定してしまうことになるのです。ですから、試合は行わないのです。

    『規範 合気道 基本編』17-18頁

  16. ^ …袴を着ける理由としては、「足捌きを隠すため」「五倫五常の教えに基づく」等が言われる。また道場によっては、女子は初段前・入門時からでも袴の着用が許される場合がある。これは稽古中に女性の身体の線が袴によって隠れるよう盛平が気遣ったためという。(出典:『氣の確立』93頁
  17. ^ 盛平の精神世界への志向性…盛平は戦前大本出口王仁三郎に師事し多大な影響を受けた。また青年時代故郷の和歌山で南方熊楠に出会い神社合祀反対運動に取り組んだことや、戦時中茨城県岩間町(後・笠間市)に合氣神社を創建したことに見られるように、神道への親しみが深く、合気道の技や理念を語る際も『古事記』や神道用語を多く用いた。盛平は自らの武道を「禊ぎ」「神楽舞」などと表現している。「合気道は言葉ではなくであります。」(出典:『合気神髄』49頁)「合気道は気の御業であります。言霊の妙用であります。(中略)わたしはいま『天の浮橋』に立ち、世界人類の大和大愛を希いつつ神楽舞い昇り、舞いくだろうと思います」(出典:『植芝盛平伝』294-295頁
  18. ^ 盛平自身の言葉による合気道の理念

    合気とは、敵と闘い、敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。合気道の極意は、己を宇宙の働きと調和させ、己を宇宙そのものと一致させることにある。合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、「我は即ち宇宙」なのである。私はそのことを、武を通じて悟った。

     いかなる速技で、敵がおそいかかっても、私は敗れない。それは私の技が、敵の技より速いからではない。これは、速い、おそいの問題ではない。はじめから勝負がついているのだ。

     敵が、「宇宙そのものである私」とあらそおうとすることは、宇宙との調和を破ろうとしているのだ。すなわち、私と争おうという気持ちをおこした瞬間に、敵は既に破れているのだ。そこには、速いとか、おそいとかいう、時の長さが全然存在しないのだ。

     合気道は、無抵抗主義である。無抵抗なるが故に、はじめから勝っているのだ。邪気ある人間、争う心のある人間は、はじめから負けているのである。

     ではいかにしたら、己の邪気をはらい、心を清くして、宇宙森羅万象の活動と調和することができるか?

     それには、まず神の心を己の心とすることだ。それは上下四方、古往今来、宇宙のすみずみにまでにおよぶ、偉大なる「愛」である。「愛は争わない。」「愛には敵がない。」何ものかを敵とし、何ものかと争う心は、すでに神の心ではないのだ。これと一致しない人間は、宇宙と調和できない。宇宙と調和できない人間の武は、破壊の武であって、真の武産(たけむす:神道の真理の言葉)ではない。

     だから武技を争って、勝ったり負けたりするのは真の武ではない。真の武はいかなる場合にも絶対不敗である。即ち絶対不敗とは絶対に何ものとも争わぬことである。勝つとは己の心の中の「争う心」にうちかつことである。あたえられた自己の使命をなしとげることである。しかし、いかにその理論をむずかしく説いても、それを実行しなければ、その人はただの人間にすぎない。合気道は、これを実行してはじめて偉大な力が加わり、大自然そのものに一致することができるのである。

    『武産合気』13-14頁

  19. ^ 武産合気…出典:『武道解説編』22頁
  20. ^ また盛平は「魄(肉体)は魂(精神)の生き宮であり、魄の修行を土台にして魂を成長させ、最終的に魂が表、魄が裏にならなくてはならない」と語り、肉体鍛錬と精神修養のどちらかに偏らないよう戒めた。
  21. ^ 広まらぬ武器術指導……

    最近の合気道界を見ますと、合気道は武道でありながら、「武道の根元は武術にある」ということを忘れたのか知らないのか、その技法の中に武道性をまったく見ることができず、「合気道は剣だ、また投げ抑えは当てだ」と言うだけで、その説明もなく、なかには当てや武器技は必要ないと言う者さえ出て来ている状態で、いまやまさに合気道は老人婦女子の健康法となりさがってきております。

    『許す武道』3頁

  22. ^ 年齢・性別・体格体力に無関係

    初対面の人が発する質問の第一は、必ず申し合わせたように、「私のような力のない者でもできるでしょうか」(中略)である。これに対し私は「(中略)力はいかにして全身より抜ききって、気力を充実さすか、ということに日頃の練習法があるのですから、非力な婦人、子供の方でも立派にこなせるのです」と言っている。
    すなわち合気道の練習法においては、力に拘泥し力づくで技法を学ぼうとする態度は、最もさけねばならぬことである。

    『合気道』98頁

  23. ^ 攻撃と防御…先に自ら打って相手の攻撃を誘う場合もあるが、基本には「相手の欲するところを自ら与える」(出典:『植芝盛平と合気道2』66頁「相手の欲するところを与えなさいと盛平先生はいっています。」砂泊かん秀インタビュー)という考えが根底にある。
  24. ^ 死角と入身…ここでいう「死角」とは、側面・側背部・背後など、相手の視野から外れ、且つ自分からの攻撃は届くが相手からの攻撃は届きにくい位置のことである。「武道における入身は相手の死角にどう入るかです。(中略)相手に分からないように自然にスッと入身になっていなければ、合気道の技は生まれてきません。」(出典:『許す武道』16頁)このように一瞬で相手の攻撃を逸らし死角に入ることを「入身一足(いっそく)」という。(出典:『図解コーチ 合気道』46-47頁
  25. ^ 導き脱力…「開祖盛平翁が(中略)『力で導くのではない。気で導くのだ』といっておられた」(出典:『合気道教範』17頁)。脱力部位は、上半身、特に腕肩の脱力が言われる。

    合気道における力の使い方は、先ず第一に肩、首等上半身の力を全く抜き、臍下丹田に気力を充実すること、第二に手を開き五指を張って指先に力を入れる、ということである。指先に力を入れるのは、自然に重心をさげ、全身を硬直から救うことを意味している。

    『合気道』98-99頁

  26. ^ 自由性・重さ…出典:『身体づかいの「理」を究める』34,40頁
  27. ^ 接触点…なお技に熟達すると、直接相手に触れずに、相手の攻撃のタイミングや勢いを利用し導き崩す場合もある。また状況やタイミングが合えば「結び・導き・崩し」を瞬時に、直線的に行い技を決める。盛平は「合気道は一撃克(よ)く死命を制するもの」(出典:『合気道』163頁)「触れ合う前に勝負は決まってるんだよ。」(出典:『許す武道』)などと述べていた。
  28. ^ 乱捕り…ただし柔道とも関係の強い日本合気道協会のみ早くから乱取り稽古を取り入れている。
  29. ^ 打撃
    • 「牽制」とは言っても、相手の急所を狙って打つものであり、本質的には武術としての厳しさを表すものでもある。
      • 「合気道の当ては、空手のように一撃で勝敗を決するものではなく、受けの一瞬の気を抜いて、体を崩すために使います。従って、人の鍛えられない部分、例えば首、目、脇の下などの急所に対して、主に貫手や掌底の当てを使います。」(出典:『許す武道』22頁
    • また、合気道の体捌きは常に敵の急所にいつでも打撃を加えこれを制する可能性を持つ(体捌き・関節技の動きの中に当身の理合が隠されている)と言われている。
      • 「通常、二教は手首をつかんで関節を極めるというように、突きと関係がないように思われていますが、この技は完全に『突き』を意識した技になっています。入った時すでに相手の突き蹴りの攻撃を受けない体勢になっていなければいけません。相手の顔面へ、掌底と同時に指頭で目を潰す当てが入っています。」(出典:『許す武道』48頁
      • 「相手が手を取りにくるその前に当てが入っていなくてはなりません。それが当ての呼吸です。」(出典:『許す武道』56頁
      • 「大切なことは常に当てが入る状態にすることです。そして相手の蹴りも突きも受けないことです。これが入身です。」(出典:『許す武道』64頁
      • 「こうした当てを、合気道では流れの中にうまく溶け込ませています。」(出典:『許す武道』202頁
    • 当身が七分で技(投げ)三分」という盛平の言葉も残されている。
  30. ^ 蹴り技佐々木の将人の証言では、佐々木が他の弟子と蹴り技を捌く稽古をしていたところを盛平が見咎め「きたならしい」と叱責されたという(出典:『開祖の横顔』22頁)。
  31. ^ 多人数掛け…「二人掛け」「三人掛け」から十人以上の受けを相手にする多人数掛けもある。
  32. ^ 『図解合気道入門』134頁。
  33. ^ 体の転換・体の変更…「体の転換」が片方の足を軸(1点軸)にもう片方の足が弧を描くように回転するのに対し、両足の位置を変えず両足裏それぞれを軸(2点軸)に体の向きだけを180度回転させることを「体の変更」と称する場合もある。(出典:『身体づかいの「理」を究める』25頁
  34. ^ 日々の練習に際しては体の変更より始め逐次強度を高め身体に無理を生ぜしめざるを要す然る時は如何なる老人と雖も身体に故障を生ずる事なく愉快に練習を続け鍛錬の目的を達する事を得べし(合気道練習上之心得)(出典:『合気道』164頁
  35. ^ 江戸~大正期の合気

    「合気」という語は近世の武術伝書「一刀流兵法韜袍(とうほう)起源考」や「槍剣事理問答」等に見ることができる。相互に気勢や拍子があう状態の意味で使用されている。

    『武道(日本史小百科)』(志々田文明)195頁

    寛政12年(1800)の「剣術秘伝独習行」(蒨園(せんえん)述)には、「双方体気満々として立向かいたるは、相気なり。孫子に云く、能く戦うものは鋭気を避くと」とあります。(中略)名著といわれる高野佐三郎著「剣道」(大正4年)のなかで、「合気を外づして闘うを肝要とす」と記しているように、その後も一般的には剣術書などの中で積極的な意味で用いられることはなく、勝負上で注意すべき点として記されています。

    『合気道教室』9頁

  36. ^ 合気之術…「明治25年(1892年)に東京で出版された『合気之術』(武骨居士著)は、合気に関する刊本としてはもっとも古いものと思われます。ここで著者が合気之術の必須内容としてあげているのは、『敵人読心の術』と『掛声の気合』です。」(出典:『合気道教室』10頁) 武骨居士著『武道秘訣 合氣之術』(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)
  37. ^ 合気柔術秘伝奥儀之事…(出典:『合気道教室』10-11頁
  38. ^ 「合気」の名称井上鑑昭の証言

    合気武道という名前は出口王仁三郎先生が付けてくれたのです。大東流柔術ではおかしいんじゃないかと言ってね。植芝叔父(盛平)を呼んで、『大東流柔術というのはやめとけ、合気という名前にしたらいい』といったわけです。(中略)それまでは皇武武道といってました。

    『植芝盛平と合気道1』45頁

     植芝吉祥丸の証言

    大正十一年頃(一九二二)、武田惣角さんが植芝塾へ来たわけです。武田さんが、三、四ヵ(ママ)月おって、その時に父(盛平)と話をし、『大東流合気柔術』として、はじめて“合気”をその中に入れたわけです。それまで合気の術というのはあちこちにあることはありましたが、ひとつの流派として、何々流合気というのはぜんぜんありませんでした。それまでは大東流は大東流柔術でした。(中略)

    (聞き手:大東流合気柔術と“合気”を加えたのは出口先生の提案ですか、大東流のほうで付けたのですか。)

    私は小さかったですからはっきりしたことはいえません。文献からいえば大正十一年の前半期までは『大東流柔術』で、惣角先生が来てしばらく経って大正十一年の暮れ、後半期から『大東流合気柔術』になりました。父は出口さんに合気じゃといわれ、また惣角先生にも話をもっていったらよかろうといわれたのです。

     父が合気という言葉をいい出したのは、大正十一年です。これは文献ではっきりしております。今そういう真相を知っている者は誰もいない。(中略)ですから私は父がいったことを信用するしかないわけです。

    『植芝盛平と合気道1』11頁

    なお『合気道教室』11頁 は「植芝(盛平)が武田に改称を提言した説」を「植芝が大東流においても『合気』なる語を付与した創案者であることを示唆」するものであるとし、「生前の植芝(盛平)がそのこと(惣角への提言)を明言していないことや、当時の師弟間の厳しい関係を考えれば、成り立ちがたい説」と断じる一方、「出口や、大本に出入りし武田から指導を受けた軍人たちが(中略)『合気之術』の静かなるブームを背景に(中略)門人たちの誰かが『合気之術』の達人として武田を理解し、その技法の流名に『合気』の語を加えることを進言したことも推察」できるとしている。しかしその「門人たち」が「当時の師弟間の厳しい関係」を如何に乗り越えたかについては、特に考察がない。
    また佐川幸義は「惣角は合気という言葉を大正二年以前から使っていた」と証言している。

    これは私の父が武田先生に教わった技をまとめたノート。ここに、『アイキをかける……』という言葉が随所に出てくるでしょう。これは、大正二年五月十四日に記されたものです。父は当時数え年で五十歳ぐらいで、武田先生は五十五歳でした。だから、合気という言葉はその当時から使われていました。武田先生は合気柔術と柔術を区別して教えていました。

    『武田惣角と大東流』54頁

  39. ^ 合氣とは愛なり…出典:『合氣道で悟る』109頁
  40. ^ 呼吸力…出典:『「技」と「言葉」』148頁
  41. ^ 呼吸力の定義…なお盛平の著書では、呼吸とは呼吸活動を指すのではなく、呼と吸のような相反する二つの物から生み出される力といった意味合いで語っている場合が多い。「水火」と書いて「いき」などと読ませそれが「呼吸」である、といった具合である。(出典:『「技」と「言葉」』145-148頁
    具体的に呼吸力と言われる代表的なものは「座技呼吸法」などの、強く捕まれた状態から手刀を立てる動作の際に用いられる力として語られる。
    • 植芝吉祥丸

    呼吸力とはどのようなことを言うのであろうか?生理的に息を吸い息を吐くことを呼吸と言うが、ここに言う呼吸法も全くその通りである。しかしながら、これは、頭の先から足の爪先まで、からだ全体で、天地と共に呼吸することを意味する。即ちこの場合、天地の流れと一体化し、自然と一体化した姿そのものが呼吸であるのであるから、かかる心境を養うことにより、自然力の充分なる集中発揮が可能となるのである。人間の気持ち、気というものが、その万事に重大なる影響のあることには、今更言うまでもない。

    (中略)気力を充実し必勝の信念を以て事に当たれば、普段に数倍する威力を発揮することができる。その気の力を平素常に保持し、臨機応変たくまずして自然に出し得るように自己を鍛錬するのが、呼吸力の養成である。

    『合気道』152-153頁

    (聞き手)改めて伺いますが、先生が言われている“呼吸力”とは一体どういうものなのでしょうか?

     砂泊 簡単に言えば、相手の触ったところに任せて一体化するということです。(中略)力を抜くことによって相手の力がどちらに向いているか、引くか、押すか、それがすぐ分かる。そこへソッと入ってくる。もう後になってくれば相手が触れただけでそこに技が出てくる。力で押しているうちはぶつかってしまって駄目ですよ。

    『開祖の横顔』104-105頁

    • 植芝守央

    合気道の力“呼吸力”は全身から生み出される力です。

    『合気道パーフェクトマスター』75頁

  42. ^ 徒手技は剣・杖の術理…「四方投げは正に刀の操法の表現であり。これに刀を持てばそのまま刀法ともなり得るのである。」 (出典:『合気道』124頁
  43. ^ 盛平が主に岩間以外の弟子に教えた、正面打ち・横面打ち・突きに対応する三つの型
  44. ^ 全日本合気道演武大会…第一回は1961年(昭和36年)5月14日に東京・山野ホールで1600人の観客を集め行われた。(出典:『植芝盛平伝』313頁)第三回からは日比谷公会堂、1977年以降日本武道館で開催されている。(出典:『合気道一路』313頁
  45. ^ 他に大規模な演武会としては、全国学生合気道連盟(合気会傘下)による「全国学生合気道演武大会」、養神館が主催する「全日本養神館合気道総合演武大会」が知られている。
  46. ^ 初の一般公開演武会…同企画は吉祥丸が合気会常務理事に招いた元プロ野球セントラル・リーグ興業本部長・徳永繁雄の助言により始まったものだった。この企画を知った盛平は、当初非常に反発した。それまで演武とは盛平一人が演武することであって、未熟な者が人前でその技を披露することなど考えられなかったからである。だが結局盛平は吉祥丸の説得を受け入れ、開催を承諾する。(出典:『戦後合気道群雄伝』164-173頁
  47. ^ 思想による荒技の省略…出典:『合気道一路』220-221頁
  48. ^ 嘉納の危機感…参考:『植芝盛平と合気道1』97-99頁 望月稔インタビュー
  49. ^ 嘉納治五郎の賞賛…それを聞いた同行の永岡秀一が「では私達がやっているのは嘘の柔道ですか?」と冗談交じりに聞き返したのに対し、嘉納は「単なる柔道ではなく広義の柔道である」と説明したという。(出典:『植芝盛平と合気道1』197頁 杉野嘉男インタビュー
  50. ^ の行法古神道川面凡児が復興したものを行っていた。(出典:『植芝盛平伝』281頁
  51. ^ 女性の護身術として

    合気道がいかに勝敗を争わぬからといって、武道である以上、護身術として役立つことはいうまでもない。

    (中略)反射的に身の危険を避ける無駄のないすばやい動きは、合気道独特のものだ。女性の護身術としても最適であろう。合気道は力まかせの技法ではなく、相手の力を合理的に利用する技法を基本にしているので、非力な女性の護身術として向いている。

    『図解コーチ 合気道』11頁

  52. ^ 護身術の有効性に関する合気会側の見解

    Q:稽古を見ていると人がクルクル回っていて、実際に武道として使えるように思えないのですが。

    A:例えば、学校の勉強をしていて基礎や基本の問題を解くとしましょう。それに対して、『こんなものが入試に出るはずがない』と言って入試問題ばかり解こうとしている学生がいたとしたら読者はどう思いますか。その学生の学力は向上するでしょうか。『しない』とは断言できませんが、基礎や基本を無視して円滑な向上は望めないでしょう。何につけ、一見、遠回りのように見えながら、基礎や基本をしっかり身につけた方が、上達は早いのです。

    そのまますぐに役に立ちそうに見えることを学ぼうというのは、武道で言うと『こう来たら、こうする』式のものに堕しやすいものです。それらはすぐに役に立ちそうで、実は逆に使えません。起こり得る全てのパターンを予習することなど不可能ですし、実際の場面で、いちいち『こう来たら、こうする』などと思い出して動こうとしたら、間に合わないからです。(中略)すべてをすぐに役に立てることは不可能です。基礎を何度も修練している内に体が体得するのです。体得すれば、自ずと実際に使えるようになります。(中略)蹴り技を稽古の中で使わないのですから、合気道は蹴り技に対処できないのでは、と『こう来たら、こうする』式の発想の人は考えるに違いありません。

    タイに合気道を指導しに行った人から、聞いた話です。ご存じのようにタイでは、ムエタイが盛んです。やはり、実際、試さなければ認めない人というのはどこにでもいます。この指導員は、ムエタイをやっている人に試合を申し込まれました。最初は、合気道ではそのような申し出に応じないと応えていましたが、立ち合わざるえなくなったのです。

    仕方がない、と無念無想で相対した次の一瞬には、そのムエタイの人を一教で押さえ込んでいたのです。これには押さえ込んだ指導員本人もびっくりしていました。本人自身、一教が現実の場面で使えるなどとはそれまで考えていなかったからです。これは『こう来たら、こうする』などとは一切考えずに自然に体が動いた結果でした。このように日々の鍛錬がきちんとなされれば蹴り技にも対処できるのです。

    『規範 合気道 基本編』17-18頁

  53. ^ 二木謙三往診…出典:『合気道一路』61頁
  54. ^ 三浦真…出典:『合気道開祖 植芝盛平伝』197-198,307頁
  55. ^ 柳原白蓮…出典:『植芝盛平と合気道1』149頁
  56. ^ 藤田欽哉

    故藤田欽哉氏(1889-1970) 早稲田大学卒業後、三菱銀行に3年勤務、米国 オハイオ州マイアミ大、短期間コロンビア大に学び、 ニューヨークにて貿易商に勤務。 その時ゴルフを覚え、帰国後、貿易商を営んでいたところ、霞ケ関の地主からゴルフ場建設を依頼されて 霞ケ関CCの創始者にもなり、東コースを設計した。 他に那須GC、習志野CC、千葉CC野田コース、静岡CCなどを設計した。 故藤田氏は、東京・駒込に生まれ、六義園の邸内で育ち 大面積の土地に対する判断や処理する能力に卓越したものがあり、 土壌を動かさず自然の地形と起伏・池を生かしたコースの設計に特長がある。

    東松山カントリークラブ

  57. ^ 東条英機…出典:『合気道教室』25頁『植芝盛平と合気道1』8-9頁
  58. ^ 石井光次郎…出典:『合気道開祖 植芝盛平伝』192-193頁
  59. ^ 賀陽宮恒憲王…出典:『武道解説編』14-18頁
  60. ^ 盛平、天竜を投げる『植芝盛平と合気道 1』228頁
  61. ^ 高松宮宣仁親王…出典:『植芝盛平と合気道1』133頁
  62. ^ 野間道場の写真…未整理のためまとまった形で公開・出版はされていない。(出典:『武道解説編』27-28頁
  63. ^ 中倉清…出典:『植芝盛平と合気道2』161-163頁
  64. ^ 荒川博六段…出典:「季刊合気ニュース」 NO.142 2004年、 荒川博インタビュー「野球に生かす合気道」、ISBN 4900586277、31頁。
  65. ^ a b c d 出典:『 「抜き」と「呼吸力」の極意』37頁
  66. ^ ド軍“臨時コーチ”に広岡氏!合気道指導へ」…「元ヤクルト、西武監督で野球評論家の広岡達朗氏(77)が 米大リーグ、ドジャースの“臨時コーチ”を務めることが8日、分かった。伸び悩む準レギュラーの選手たちに合気道の指導を行うためで、10日に渡米する。(中略)広岡氏と合気道の出合いは、巨人2年目の1995年。新人王に輝いた翌年にスランプに見舞われ、救いを求めたのが気の第一人者、 中村天風師だった。そこで「心が体を動かす」という人間の体に潜んでいる気の積極的観念を学び、さらに弟子の藤平(とうへい)光一師から長嶋、王らとともに指導を受けた。」(出典:sanspo.com 2010年1月9日付の記事
  67. ^ a b c 出典:『 「抜き」と「呼吸力」の極意』36頁
  68. ^ 榎本喜八…出典:「合気道探求」第13号 出版芸術社、1997年、ISBN 488293132X、34頁。
  69. ^ 鈴木邦夫 (2015年5月27日). “人生の基本は、合気道から学んだ”. BLOGOS. LINE Corporation. 2015年7月30日閲覧。
  70. ^ 出典:倉田プロモーション/倉田保昭プロフィール。2015年5月1日閲覧。
  71. ^ 永倉万治…「二〇〇〇年十月五日、我が合気道和光支部道場内で雑誌社の撮影中の出来事、道場生だった作家永倉萬治氏の死。一年ちょっとの付き合いであったが、彼は身をもって葉隠を教えてくれたような気がする。生前「死ぬのは怖い」と漏らしていたこともある彼は、生を大切にした。脳卒中の経験をもっての身体で、他の人よりも死は身近であったはず、そんな永倉氏は今できる事に常に興味をもって接していたと思う。」(出典:和光市合気道和光支部ホームページ/師範挨拶
  72. ^ 出典:大阪市 政策企画室 【報道発表資料】内田 樹氏を市長特別顧問に委嘱します
  73. ^ 出典:『由美かおる 美しくなるための合気道』121頁
  74. ^ 出典:『戦後合気道群雄伝』269頁
  75. ^ 出典:[1]
  76. ^ 大月晴明…「ライフワークとして武道の達人を目指す大月は、実戦合気道の道場にも足を運ぶ。 『どうやったら相手のバランスが崩れるのか。そのための圧力のかけ方などを学んでいます。合気道の技術はキックでもおおいに役立つ。ボクの闘い方は、いろいな格闘技のブレンドと言ってもいいかもしれない』」(出典:@ぴあ「21世紀の骨のあるヤツ-第170回 大月晴明(キックボクシング)。2015年5月1日閲覧。)
  77. ^ 秋元才加合気道二段…「(聞き手)そういえば、秋元さんは合気道二段なんですよね。秋元 そうなんですよ。女の子だからって、守ってもらうだけじゃなくていいんだって」(出典:朝日新聞朝刊、2010年3月24日掲載『コミック・ブレーク 〈私のコミック履歴書〉秋元才加さん(AKB48)』インタビューより。2015年5月1日閲覧。)
  78. ^ 盛平の大東亜戦争観…出典:『植芝盛平伝』35-38頁
  79. ^ 大日本武徳会に平井稔派遣

    昭和十四、五年頃の入門生に、平井稔という人がおり、丁度その後大戦となり、前記優秀なる内弟子らの相次ぐ出征の後を引き受け、道場総務をしていた。たまたま時勢の流れは合気道をも武徳会に統合し、その一翼とすることになり、武徳会の役員であった久富達夫氏から皇武会の富田健治理事に照会があり、それにより道主(盛平)の代理として、右の平井氏が合気道の代表代理格で武徳会に席を置くことになり、武徳会内に合気道部が設置され、合気道の練士、教士、範士が出現するところまで行った。これはすでに終戦直前の混乱期であった。

    『合気道』68頁

  80. ^ 「合気道」の命名…(平井稔インタビューより)

    大日本武徳会の中における武道体系、いわゆる『武徳会流』に付けた名称が『合気道』だった。

     武徳会では名称をめぐっていろいろ議論があった。幹事会を何回も何回も開いて議論しました。柔道、剣道部門が中心になって動いており、一口に総合武道といっても各流派があり、従来の流派とのあつれきを少なくするため、あたりさわりのない名称を付けることになりました。久富さんの提案で、実戦的な武道をということで、柔術を基本にした部門を作ることになった。柔というのは総合体系を持っているから剣も杖も使う。久富さんが熱心にそれを主張された。それで合気武道とかいわずに、『合気道』にして、道をはっきりしたほうがいい、総合武道として、合気道というものを作ったらいいんじゃないかということになった。私は久富さんに同意見で賛成したんです。

     つまり、『合気道』といったほうが総合的なものを全部含められる。剣道とか柔道だとかの、ことさらに流派にこだわった名称を付けたり、勇ましい名前なんかを使わずに、すべて総合的に総括的に柔らかい名前を付けようというのが久富さんの意見であり、結論的には誰にも異論はなかったわけです。

    『植芝盛平と合気道 2』51頁

  81. ^ 合気会側の見解…「昭和十七年(1942)五十九歳 (中略)この武徳会との関係もあり『合気武道』の呼称を改め、初めて正式に『合気道』を名乗ることとなった。」(出典:『合気道』310頁
  82. ^ 戦後合気道を名乗る…盛平インタビューより

    (聞き手)いつ頃から合気道という言葉をお使いになりましたか。

    盛平翁 合気道というのは戦後です。

    『植芝盛平と合気道 1』255-256頁

    盛平の高弟・奥村繁信の証言

    合気道も当時(1940年頃)は“合気武術”と言われていたと思います。それが昭和十八年くらいに合気武道となって、戦後“合気道”となったわけです。

    『開祖の横顔』176頁

  83. ^ 武徳会合気道部への抵抗感

     しかも戦時下統制の波は、とうぜん武道界にもおよび、合気道 - 当時は一般に、「合気武道」として知られていたが、「植芝合気武道」「皇武合気」などの別称もあった - もまた武徳会に統合されることになった。そのさい開祖は正式に、「合気道」の呼称に統一するむねを宣した。すなわち、「武徳会=合気道部」となったのである。(中略)

     率直にいって、この時点で開祖は明確に岩間への転住に踏み切ったもののようである。
     国策に異を唱えるわがままこそ自制したが、己れが一代の辛酸と研鑽とをもって築きあげた合気道である、それが便宜的に、「合気道部」などで一括されることに、開祖の潔癖が耐えられようはずはなかった。
    「わしは雑務はようせんがな。まだまだ修行じゃ」といい、武徳会には渉外的手腕のすぐれていた当時道場総務だった内弟子の平井稔氏(のち、「大日本恒輪洞合気道」と称して活動)を代理人としてさしむけ、自分はさっさと岩間におもむいてしまった。

    『植芝盛平伝』256-257頁

  84. ^ 平井独自の武道…(平井稔インタビューより)

    しかし私自身としては、武道の杖にしろ剣にしろ、いき方については、私自身が以前からとっておる考え方がありましたからね。ですから、そういうところ(盛平の道場)で大きく刺激を受けたというよりも、(植芝)先生との出会いの中に円の基本のいき方というものを、たいへん都合よく解釈していったのかもしれません。円転無窮などといったことは間違いではなかったんだという自信につながりました。私は壮年期であったし、そういうことをとくに考える時期であったので、自然に会得していった。だけど植芝先生は植芝先生なりに会得されたものがあったと思います。 (中略)それから戦後、飯倉の道場で私なりのいき方でやっている時、警察の内務官であった富田健治さんが『平井先生、どうだねもう一度こちらの植芝のほうをお考えくださいませんか」と、わざわざ道場へ見えました。私は私の信ずる道で、志を立てたのでお断りいたしますというようにいったわけです。

    『植芝盛平と合気道 2』48-49頁

  85. ^ 合気会発足直前の流儀名…「昭和二十三年に入門した徳山浩一(現・株式会社三協代表取締役会長)の記憶によれば、財団法人の許可がおりるまで、『皇武会』では『武産合気』を称し、入身技や一ヶ条(現・一教)、二ヶ条(現・二教)などを今日同様に教え、学んでいたという。」(出典:『戦後合気道群雄伝』108頁)。
  86. ^ 「合気道」を名乗った経緯…(植芝盛平ラジオインタビューより)

    (聞き手)合気道というお言葉は、どういうところからお付けになったのでございますか。

    盛平翁 付けたんじゃない。国のこれは至宝やからな、個人が勝手に付けるものじゃない。そこでほっといたらやな、文部省の中村光太郎さんの方から、合気道としたらどうだな、という相談があった。で、向こうから合気道とせよということだった。結構な話やから合気道にしようと、こういうことや。 その後ですね、付けたものの合気道について、少し自分も調べてみなあいけない。

    『植芝盛平と合気道 1』255-256頁

    • 盛平の説く「合気道」の命名理由

    「合気」という名は、昔からあるが、「合」は「愛」に通じるので、私は自分の会得した独特の道を「合気道」とよぶことにした。したがって、従来の武芸者が口にする合気と私の言う合気とはその内容が根本的に異るのである。

    『合気道』50頁

    なお吉祥丸によると、合気会認可の折に文部省の担当事務官・「中山甲子」の尽力があったと記している。(出典:『合気道一路』100-101頁)
  87. ^ 武道禁止策への対応…出典:『合気道教室』18頁
  88. ^ 通称としての「合気道」…(例;「合気道教室(大東流合気柔術)」「合気道・居合道」「○○女性合気道教室」「□□合気道倶楽部」






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