佐川幸義とは? わかりやすく解説

佐川幸義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/06 14:42 UTC 版)

佐川 幸義(さがわ ゆきよし、1902年明治35年)7月3日 - 1998年平成10年)3月24日)は、日本武術家。大東流合気柔術中興の祖といわれる武田惣角の直弟子のひとり。


  1. ^ 『孤塁の名人』36頁。
  2. ^ 『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』337頁。
  3. ^ 『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』141-143頁(「柔術」ではなく「武術」とある。)
  4. ^ 『武田惣角と大東流合気柔術』49頁(「武術」ではなく「柔術」とある。)、『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』338頁。
  5. ^ 『武田惣角と大東流合気柔術』309頁(「柔術」ではなく「武術」とある。)、『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』338頁。
  6. ^ 『孤塁の名人』6頁。
  7. ^ 『新版・合気修得への道』179頁。
  8. ^ さがわ ねのきち。1867年慶応3年)頃、会津の農家に生まれる。丁稚奉公の後、東京の明治法律学校で勉強し巡査となるも肺を病み辞職。二十歳頃、北海道開拓団員として渡道、下湧別で雑貨商を始め財を築く。1950年(昭和25年)2月28日、東京小平の佐川幸義宅で87歳で没した。(『新版・合気修得への道』176頁。)
  9. ^ 『深遠の色はー佐川幸義伝』実業之日本社、2018年、65頁。 
  10. ^ 『深遠の色はー佐川幸義伝』実業の日本社、2018年、69頁。 
  11. ^ 『新版・合気修得への道』179頁
  12. ^ 『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』149頁、193頁。なお、佐川道場に掲示された佐川直筆の「合気武道遺訓」には「宇宙天地森羅万象の全ては融和調和に依て 円満に滞り無く動じて居るのである その調和が合気なのである」と合気の精神性が説かれていた(『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』5頁)。
  13. ^ 戦後の上京後に荘内日報に掲載された以外は#参考文献に於ける鶴山氏の著作で紹介されるまで殆ど全国的なメディア露出も無かった。
  14. ^ 上記、鶴山氏の著作では東日本の支部が数ヶ所挙げられている。
  15. ^ 『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』321頁、『孤塁の名人』7頁。
  16. ^ 『孤塁の名人』36頁
  17. ^ 参考文献参照。当時の風習から30歳と記載されている。
  18. ^ 厳密には旧湧別村が上下湧別村へと分かれたのは1910年に時代が下る。
  19. ^ 『現代日本人名録94』
  20. ^ 『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』140頁
  21. ^ 『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』140-142頁
  22. ^ 『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』143頁
  23. ^ 午後2時頃、門人高田一夫が道場を訪れた所、浴槽の湯に首まで浸かり、両腕を組んで眠る様に死亡している佐川を発見した。晩年心筋梗塞動脈瘤を患っており、発作が起こったと見られる(『孤塁の名人』194頁)。


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