中世の庶民信仰
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中世に入ると、庶民の神道信仰においても変化が見られるようになる。古代においては地域ごとに氏神を祀り共同体の繁栄を祈る祭りが中心であったが、中世に入ると霊威ある神が地域を越えて各地に勧請され、個人の禍福を祈る勧請型神社の系統が増加した。 特に、広く信仰されるようになったのは、熊野、八幡、稲荷、伊勢、天神である。熊野は、もともと死者の霊魂が行く山中他界と考えられていたが、神仏習合思想の流行によって、熊野は現世に出現した浄土と考えられるようになり、本宮大社の本地も阿弥陀如来とされるようになった。人々は、来世往生と現世利益の個人祈願のために、こぞって熊野大社へ詣で、「蟻の熊野詣」とまで呼ばれるようになった。朝廷でも、上皇による熊野行幸が院政期に盛んに行われた。八幡は、石清水八幡宮が清和天皇の守護神として宇佐から勧請されたという経緯もあり、清和源氏の氏神として仰がれ、源義家は鎌倉に鶴岡八幡宮を勧請した。源頼朝が鎌倉幕府を開くと、鎌倉幕府に従った全国の御家人も自らの所領に八幡神を勧請したことで、全国的に八幡信仰が広がっていった。稲荷は、もともと秦氏の氏神であったが、平安時代に入ると東寺の守護神として仰がれ荼枳尼天と習合し、農業の神として各地に伝播していった。伏見稲荷大社の祭日である初午には、多くの庶民が群参したが、この初午は田の神信仰において山の神が里に降りて田の神になる時期に当たるものであり、農民の素朴な田の神信仰が稲荷と結びつく形で稲荷信仰が広がっていったものと考えられる。 元来は天皇以外の幣帛や祈願が禁止されていた伊勢神宮も、律令国家による経済基盤を失った中世以降は、御師が中心となり初穂料や造営費を集めるため全国の荘園に積極的に布教や私祈祷を行うようになり、はじめ荘園領主や武士層から、次第に庶民にまで伊勢信仰が広がった。また、熊野詣の際に伊勢路を通ると必ず伊勢神宮を通ることになるため、そこで多くの人が伊勢神宮を参拝するようになったという側面もあり、先行する熊野信仰も伊勢信仰の拡大に寄与した。鎌倉時代の『勘仲記』には1287年(弘安10年)の外宮遷宮に際して「参詣人幾千万なるを知らず」と記されるなど、多くの庶民が伊勢神宮に参詣するようになった。 これらの神社の信仰の高まりにより、その本社を村々へ勧請する動きが広がったほか、荘園制の展開に伴って荘園の本所の社寺の祭神が各地に勧請されるようになったこともあり、現在の全国の神社の3分の1が八幡・伊勢・天神・稲荷・熊野の五つの系統に占められるようになった。 また都市部での庶民祭礼も発展し、朝廷が863年(貞観5年)に神泉苑で都市の住民が自由に参加できる形での公的な御霊会を催行して以降、庶民により祇園祭が行われるようになった。御霊会は、神輿迎えから還幸の祭礼まで神輿の巡幸が行われ、これにより霊験が高まると考えられていた。神輿の巡幸では、京都の住人たちが御旅所を用意して祭の準備をして祭が行われたため、朝廷の公的関与は少なく、京都住人の在地性や独自性が極めて高い庶民祭礼であった。この他、平安中期までに北野御霊会、松尾祭、今宮祭、稲荷祭などの京中祭礼が成立した。 また、各荘園では村落の自治が高まり惣が形成され、祭りの編成組織として神事運営のための宮座が重視された。宮座は、オトナ・年寄と呼ばれる古老が取り仕切り、若者衆が神事の奉仕に当たった。また、村の取り決めには起請文を記して神に誓約し、一揆の時には一味神水が行われるなど、神社が村民の精神的拠り所となった。村民たちは日常の農耕生活の中でも神社に寄り合い、村民の中から一年交代で年番神主が選ばれていた。
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