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ぎおん-まつり ―をん― 【祇園祭】
(2)陰暦六月一五日前後に、各地の八坂神社で行われる祭礼。祇園会。祇園御霊会。[季]夏。
映画情報 |
祇園祭
| 原題: | |
| 製作国: | 日本 |
| 製作年: | 1968 |
| 配給: | 松竹映配 |
| スタッフ | |
| 監督: | 伊藤大輔 イトウダイスケ |
| 山内鉄也 ヤマウチテツヤ | |
| 製作: | 小川衿一郎 |
| 久保圭之介 クボケイノスケ | |
| 浮田洋一 | |
| 遠藤嘉一 エンドウヨシカズ | |
| 茨常則 | |
| 中岡清 ナカオカキヨシ | |
| 加藤彰朗 カトウ | |
| 鈴木一成 | |
| 原作: | 西口克己 ニシグチカツミ |
| 脚色: | 鈴木尚之 スズキナオユキ |
| 清水邦夫 シミズクニオ | |
| 撮影: | 川崎新太郎 カワサキシンタロウ |
| 音楽: | 佐藤勝 サトウマサル |
| 美術: | 井川徳道 イカワノリミチ |
| 編集: | 河合勝巳 カワイカツミ |
| 録音: | 野津裕男 |
| スクリプター: | 鈴木一成 |
| 照明: | 中山治雄 ナカヤマハルオ |
| キャスト(役名) |
| 中村錦之助 ナカムラキンノスケ (新吉) |
| 瀧花久子 タキハナヒサコ (いち) |
| 佐藤オリエ サトウオリエ (お鶴) |
| 岩下志麻 イワシタシマ (あやめ) |
| 永井智雄 ナガイトモオ (河原又四郎) |
| 田中邦衛 タナカクニエ (権次) |
| 志村喬 シムラタカシ (恒右衛門) |
| 田村高廣 タムラタカヒロ (助松) |
| 斎藤美和 サイトウミワ (お兼) |
| 藤原釜足 フジワラカマタリ (源蔵) |
| 小川吉信 オガワヨシノブ (源太) |
| 大里健太郎 (常七) |
| 大木晤郎 (平太) |
| 橋本仙三 ハシモトセンゾウ (佐助) |
| 沢淑子 (佐助の女房およし) |
| 香川良介 カガワリョウスケ (文助) |
| 山口俊和 ヤマグチトシカズ (文七) |
| 小沢栄太郎 オザワエイタロウ (門倉了太夫) |
| 浮田左武郎 (泉屋徳太夫) |
| 有馬宏治 アリマコウジ (柳屋辰右衛門) |
| 御木本伸介 ミキモトシンスケ (丹波屋伝蔵) |
| 三船敏郎 ミフネトシロウ (熊左) |
| 尾形伸之介 オガタシンノスケ (岩十) |
| 下元勉 シモモトツトム (山科言継卿) |
| 渥美清 アツミキヨシ (伊平) |
| 北大路欣也 キタオオジキンヤ (於菟) |
| 関根永二郎 セキネエイジロウ (祇園社神官) |
| 下絛正巳 シモジョウマサミ (山科甚兵衛) |
| 堀正夫 ホリマサオ (頭領) |
| 市川裕二 イチカワユウジ (百姓) |
| 加藤浩 カトウヒロシ (政庁前の開闔) |
| 田中浩 タナカヒロシ (中組路地開闔) |
| 河村満和 カワムラミツカズ (侍) |
| 春路謙作 (白髪爺) |
| 中村時之介 ナカムラトキノスケ (関所の役人) |
| 玉生司郎 タマキシロウ (宰領) |
| 松山英太郎 マツヤマエイタロウ (職人六) |
| 鈴木晴雄 スズキハルオ (職人1) |
| 大東良 オオヒガシリョウ (職人2) |
| 片岡半蔵 カタオカハンゾウ (彦爺) |
| 遠山金四郎 トオヤマキンシロウ (騎馬の侍) |
| 伊藤雄之助 イトウユウノスケ (赤松政村) |
| 伊藤寿章 イトウトシアキ (細川晴元) |
| 高倉健 タカクラケン (巽組代表) |
| 美空ひばり ミソラヒバリ (町衆A) |
| 香山武彦 カヤマタケヒコ (町衆B) |
| 中村賀津雄 ナカムラカツオ中村嘉葎雄 (町衆C) |
| 解説 |
| 西口克己の原作を、「湖の琴」の鈴木尚之と、「北穂高絶唱」の清水邦夫が共同で脚色、「眠狂四郎無頼剣」の伊藤大輔と「主水之介三番勝負」の山内鉄也が共同で監督に当っている。撮影は川崎新太郎。 |
| ストーリー※ストーリーの結末まで記載されていますので、ご注意ください |
| 足利将軍の、世継ぎ争いに端を発した応仁の乱は、以後五十年もの間、京の都を荒廃に陥れた。虐げられつづけた農民が、一揆を起したのもその頃だが、武士階級にはそれを鎮圧する力も、すでになかった。染物職人の新吉は、土一揆のあったある夜、笛の上手な不思議な女あやめを知り、荒れた御堂の中で一夜を共にした。翌朝、家に帰った新吉は、母が侍に殺されたのを知った。一方相次ぐ一揆に手を焼いた管領細川晴元は、町民を狩り集めて一揆の本拠山科に攻め入った。そこには貧農に味方する馬借の頭熊左がいた。新吉たち町民は熊左の一隊と戦ったが、侍は逃げ、結局は新吉たちは利用されているだけだった。戦いが終って、新吉の心には侍階級に対する不信感が強くなった。町民たちも税金を払わないことで特に対抗しようとしていたが、そのためには、町民の団結力を見せる必要があった。そこで新吉は、戦乱で三十年もの間途絶えていた町民の祭典、祇園祭を再興しようと決心した。新吉はその相談に、貧乏公卿言継を訪ね、そこであやめと再会した。言継はあやめに祇園ばやしの笛を習えと勧めたが、あやめは新吉に、教えようとはしたかった。彼女は河原者の娘で、町衆とは素直に心を通じあえなかったのだ。その頃、管領は税金を払わない町民に、関所を設け関税を払わせることで対抗した。そのため京に入る食糧は欠乏し、町民は飢えに苦しんだ。新吉は、死を覚悟で熊左に会いに行き米を運んでくれるよう頼んだ。熊左は一言の下に拒絶したが、そこに現われたあやめの説得で、新吉の依頼を引受けたのだった。熊左の一隊が米を運んで京の町に現われた時、町民は熱狂して出迎えた。やがて、いつか身分を越えて心の通じるようになった新吉とあやめは、笛の練習に幸福な日々を送るようになった。祇園祭の準備は着々と進んでいた。一方、侍たちはこの祭りを邪魔しようとしていた。ついに祭の日が来た。盛大に装いを凝らした山鉾かゆるゆると動き出した時、侍や僧兵が立ちはだかった。だが、彼らは熊左たち馬借の一隊に退けられた。しかし物陰から放たれた矢で新吉は重傷を負ってしまったのだ。胸に矢をつき立てたまま、新吉は熊左の手を借りて山鉾に上った。蒼白な顔で仁王立ちになった新吉の姿は、京の町民の象徴のようなものだった。侍たちはあまりの気迫に手出しも出来なかった。道が開き、再び山鉾が動きはじめた時、新吉はそのままの姿勢で息絶えていた。 |
季語・季題辞典 |
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祇園祭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/11/01 10:58 UTC 版)
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祇園祭(ぎおんまつり)は、京都市東山区の八坂神社(祇園社)の祭礼である。京都の夏の風物詩で、7月1日から1か月間にわたって行われる長い祭であるが、そのなかでも「宵山」(7月14日〜16日)、「山鉾巡行」(7月17日)、「神輿渡御」(7月17日)などがハイライトとなっている。宵山、宵々山、宵々々山には旧家や老舗にて伝来の屏風などの宝物の披露も行われるため、屏風祭の異名がある。また、山鉾巡行ではさまざまな美術工芸品で装飾された重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るため、動く美術館とも例えられる。
京都三大祭り(他は上賀茂神社・下鴨神社の葵祭、平安神宮の時代祭)、さらに大阪の天神祭、東京の山王祭(あるいは神田祭)と並んで日本三大祭りの1つに数えられる。また、岐阜県高山市の高山祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭と並んで日本三大曳山祭の1つに、前述の高山祭、滋賀県長浜市の長浜曳山祭と並んで日本三大山車祭の1つにも数えられるなど、日本を代表する祭である。
目次 |
歴史
疫病の流行により朝廷は863年(貞観5年)、神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ)を行った。しかし、その後も疫病の流行が続いたために牛頭天王を祀り、御霊会を行って無病息災を祈念した。869年(貞観11年)、全国の国の数を表す66本の矛を卜部日良麿が立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿3基を送り薬師如来の化身・牛頭天王を祀り御霊会を執り行ったのがその起源であるという。祇園祭が生まれた直接の背景は、平安京がもともとが内陸の湿地であったために高温多湿の地域であったこと、建都による人口の集中、上下水道の不備(汚水と飲料水の混合)などにより、瘧(わらわやみ=マラリア)、裳瘡(天然痘)、咳病(インフルエンザ)、赤痢、麻疹などが大流行したこと。その原因が、先に大水害により挫折した長岡京遷都工事中に起きた藤原種継暗殺事件で無実を訴えながら亡くなった早良親王ら6人の怨霊の仕業との陰陽師らによる権威ある卜占があったこと、などである。さらに、1世紀後の970年(安和3年)からは毎年行うようになったとされる。これらの祭式は神仏混淆の儀式として成り立っていた。
中世の一時期、八坂神社は北野天満宮と共に比叡山の支配下に置かれた時期があった。この時期、八坂神社は日吉神社の末社とされ、日吉神社の山王祭が行われない時に祇園祭が中止になったり延期になる原因となった。
さらに室町時代に至り、四条室町を中心とする(旧)下京地区に商工業者(町衆)の自治組織両側町が成立すると、町ごとに風情を凝らした山鉾を作って巡行させるようになった。その後、応仁の乱での30年の中断や第二次世界大戦などでの中断はあるものの、現在でも続いており、1000年を超える歴史がある。なお、名称は明治維新による神仏分離令の影響で「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」より「祇園祭」と仏教色が排除されたものとなっている。
室町時代以来、祇園祭のクライマックスは山鉾巡行であったが、現在ではいわば「巡行の前夜祭」である宵山に毎年40万人以上の人が集まり盛り上がりを見せるため、祇園祭といえば宵山を先に思い描く人も多い。
ちなみに諺で時機を逃して用を成さないことを「後の祭り」というものがあるが、これは祇園祭の大一番である山鉾巡行・神幸祭神輿渡御が終わり、この後の祇園祭がたいしてメインとなるものがないことからこの諺が言われるようになったとされる。また、祇園祭は1966年(昭和41年)まで「前祭」(7月17日)と「後祭」(7月24日)の2回に分けて山鉾巡行を行っていた経緯があり、「前祭」では豪華絢爛な鉾が多数巡行するのに対し、「後祭」では山鉾の数が少なく、小規模であることから、この諺が言われるようになったという説もある。
- 1962年(昭和42年)5月23日、山鉾29基が重要有形民俗文化財に指定された。
- 1979年(昭和54年)2月3日、「京都祇園祭の山鉾行事」が、重要無形民俗文化財に指定された。
- 2009年(平成21年)9月30日、国連教育科学文化機関(ユネスコ)政府間委員会により、「京都祇園祭の山鉾行事」が、無形文化遺産に登録された。
祭礼などの行事が国の重要無形民俗文化財に指定され、それとともに屋台・山鉾などの用具が重要有形民俗文化財に指定されているものは日本全国で5例のみで、そのなかの1つが祇園祭である。
日程
かつては、旧暦6月に行われていたが、現在ではグレゴリオ暦7月に行われている。新暦移行後も後述のように日程の変遷があるが、以下に示すものは、2011年現在のものである。
- 7月1日 - 吉符入(きっぷいり)。祭りの始まり。
- 7月2日 - くじ取り式。下記参照。
- 7月7日 - 綾傘鉾稚児社参。
- 7月10日
- お迎え提灯。
- 神輿洗い。
- 7月10日〜13日 - 山建て鉾建て。分解収納されていた山・鉾を組み上げ、懸装を施す。
- 7月12日、鉾の曳き初め - 長刀鉾・函谷鉾・月鉾・菊水鉾・鶏鉾(四条通と室町通)
- 7月13日、鉾の曳き初め - 北観音山・南観音山・放下鉾・船鉾・岩戸山(すべて新町通)
- 7月13日
- 7月14日 - 宵々々山(この日から16日の宵山の深夜まで出店・夜店が立ち並ぶ)。
- 7月15日 - 宵々山。
- 7月16日
- 宵山。14日〜16日をまとめて「宵山」と総称することもある。
- 宵宮神賑奉納神事。
- 7月17日
- 7月24日
- 花傘巡行。元々、この日に行われていた後祭の代わりに始められたもの。
- 還幸祭(神輿渡御)。下記参照。
- 7月28日 - 神輿洗い。
- 7月31日 - 疫神社夏越祭(えきじんじゃなごしまつり)。祭りの終わり。
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固有名詞の分類
- 幻の時代劇「祇園祭」上映/27日「映画の楽校」四国新聞
- 祇園祭の「鉾建て」開始:社会スポーツ報知
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