三十年戦争と絶対王政フランスの覇権
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「反ユダヤ主義」の記事における「三十年戦争と絶対王政フランスの覇権」の解説
「ヨーロッパにおける政教分離の歴史#主権国家体制の成立と政教関係の新展開」を参照 1618年から1648年にかけて、宗教改革による新教派(プロテスタント)とカトリックとの対立のなか展開された最後で最大の宗教戦争といわれる三十年戦争が起こった。この戦争で、オーストリア・スペインの東西ハプスブルク家は打撃を受けた一方で、ブルボン家のフランスはヨーロッパ最強国家となった。また、神聖ローマ皇帝とローマ教皇を政治的・宗教的首長とする「キリスト教共同体」は崩壊し、ヨーロッパ世界では一つの国家の主権と独立とが原則となった。 戦後、フランスが中央集権的絶対王政を確立したのに反して、神聖ローマ帝国が名目的な存在となったドイツでは地方分権的な領邦国家体制が確立したことによって国民主義的統一が遅れた。神聖ローマ帝国内では諸侯たちが自分たちを領邦を代表する「国民」 と意識していたが、諸侯の共通言語はフランス語であり、民族よりも身分が重視されるなど、国民国家の形成は妨げられており、こうした領邦国家体制に対する反発が、近代の啓蒙と合理主義の影響で18世紀以降のドイツにおける国民主義(ナショナリズム)を形成していくことになる。 1627年、詩人マレルブは最晩年にユダヤ教はヨルダン川の岸辺におしとどめられるのが望ましいが、ユダヤ教徒はセーヌ川流域まで勢力を広げているとして「私はどこにいても神を頼みとして戦う」と書いた。 三十年戦争末期の1648年、フランス王国では10歳の国王ルイ14世(在位:1643年 - 1715年)の摂政ジュール・マザランが集権体制を強化させていたが、マザランに反発した高等法院官僚や法服貴族が反乱を起こした(フロンドの乱)。フランスは一時は無政府状態となり、王家は国外へ脱出する。1648年10月24日にヴェストファーレン条約が締結され三十年戦争が終結すると、フランス軍コンデ公ルイ2世がフロンド派を制圧し、さらにルイ2世もマザランに対抗したが、1653年にマザランが勝利してフロンドの乱は終結した。これ以降、王権による中央集権体制が確立されていった。 フロンドの乱の最中の1652年8月15日、ジャン・ブルジョワ殺人事件が発生した。トネルリーの古着商集団に対して、ジャン・ブルジョワ青年が「シナゴーグの殿方連のお通りだよ」とからかったところ、古着商集団は青年を矛槍とマスケット銃で滅多打ちにしたうえ、賠償金も払わせた。青年は代官に告発したが、古着商集団は青年をおびき出し、拷問の果てに殺害した。このような小規模な局地戦は当時いくつか発生していた。この事件後、ユダヤ人によって腐敗が撒き散らしてきたと非難する文書や古着商集団を弁護する文書が現れ、ユダヤ問題が世論で争われた。『ユダヤ人に対する憤怒』という文書では、ユダヤ人に識別するための印をつけるべきだと主張され、『シナゴーグに対する判決文』という文書ではユダヤ人全員を去勢すべきだと主張された。こうした文書の横溢によって古着商は隠れユダヤ教徒(マラーノ)かと疑われたが、事件における古着商集団は被害者も加害者もカトリック・キリスト教徒であった。 マザラン没後の1661年に23歳のルイ14世太陽王が親政を開始した。宮廷説教師でオラトリオ会修道士のボシュエは王権神授説とフランス教会のローマからの独立(ガリカニスム)を提唱し、ローマ教皇よりもフランス国王の権力を強化して絶対君主制確立に貢献する一方で、ユダヤ人を「誰からも哀れまれることなく、その悲惨のなかにあって、一種の呪いによりもっとも卑しき人々からも嘲笑の的とされるにいたった民」とし、ユダヤ人の最大の罪はイエスの処刑ではなく、処刑後に悔い改めない姿勢であると非難した。ルイ14世は「唯一の王、唯一の法、唯一の宗教」を方針として「最大のキリスト教徒の王」を自負し、異端のジャンセニストやユグノーを抑圧した。一方、ジャンセニスト哲学者ブレーズ・パスカルは遺稿『パンセ』で「栄誉に抗して純一であり、それがゆえに死んでゆく、ユダヤ人」とユダヤ人を称賛した。 1657年、東方への野心を持ったルイ14世は、軍馬調達、駐屯地への補給のためにアルザス=ロレーヌ地域のユダヤ人を利用しようとしてメッスのシナゴーグを訪れ、アンリ4世とルイ13世がユダヤ人に与えた勅許状を更新し、古物だけでなく新物を商う権利を付与した。 1670年にメッスで儀式殺人事件と裁判が繰り広げられ、ユダヤ人が処刑された。また、パリで行方不明になった若者についてユダヤ人が連行したという噂が流れた。これに対して聖書学者リシャール・シモンがメッス儀式殺人裁判について匿名でユダヤ人を擁護し、1674年にはヴィネチアのラビ、レオン・ダ・モデナの著作を翻訳して、その序文で「新約聖書を書いたのはユダヤ人であった」と主張し、またユダヤ教徒の信仰心の篤さを賞賛した。しかし1684年になると、シモンは手紙でモデナ訳書の序文について好意的なことを書きすぎたと反省して「ユダヤ人が救いようのない民であるということを、私はその後、彼らのうちの幾人かと付き合ってみてはじめて理解した。彼らはいまだにわれわれのことを深く憎悪している」と述べた。シモンは1678年、近代聖書文献学のさきがけとされる『旧約聖書の批判的歴史』を著作したが、宮廷説教師ボシュエの激しい怒りを買い、1687年に発禁処分に至り、死ぬまで周囲から激しい攻撃を受けた。 1675年〜1680年頃 サヴォイア公国ピエモンテで数年間の凶作によって救済保護政策のなかで、プロテスタントからの改宗者、貧民、ユダヤ人をゲットーに強制移住させて、管理を強めた。 ルイ14世は、1680年代にユグノー弾圧を開始。1682年新築のベルサイユ宮殿に移り、1685年、フォンテーヌブローの勅令で信教の自由を約したナントの勅令を廃止した。1688年から1697年にかけて領土拡大を図ったフランスは、フランドル戦争、仏蘭戦争後、1681年にストラスブールを占領して併合した。これに反発したドイツ、スペイン諸国によるアウクスブルク同盟とフランス王国との間で大同盟戦争となった。1689年に名誉革命でウィレム3世がイングランド王になると、イングランドとオランダもアウクスブルク同盟に参加した。講和条約レイスウェイク条約でフランスはストラスブールをのぞく1678年からの占領地の殆どを返還した。 1693年–1694年 - フランスで飢饉。 スペイン継承戦争(1701年 - 1714年)中の1702年から1709年にかけて、南フランスのユグノーによるカミザールの乱が発生した。 1709年、大厳冬の飢饉。
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