三十年戦争と絶対王政フランスの覇権とは? わかりやすく解説

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三十年戦争と絶対王政フランスの覇権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:19 UTC 版)

反ユダヤ主義」の記事における「三十年戦争と絶対王政フランスの覇権」の解説

ヨーロッパにおける政教分離の歴史#主権国家体制の成立と政教関係の新展開」を参照 1618年から1648年にかけて、宗教改革による新教派(プロテスタント)とカトリックとの対立のなか展開され最後最大宗教戦争といわれる三十年戦争起こった。この戦争で、オーストリア・スペインの東西ハプスブルク家打撃受けた一方でブルボン家フランスヨーロッパ最強国家となったまた、神聖ローマ皇帝ローマ教皇政治的宗教的首長とする「キリスト教共同体」は崩壊しヨーロッパ世界では一つ国家主権独立とが原則となった戦後フランス中央集権的絶対王政確立したのに反して神聖ローマ帝国名目的な存在となったドイツでは地方分権的な領邦国家体制確立したことによって国民主義統一遅れた神聖ローマ帝国内では諸侯たちが自分たちを領邦代表する国民」 と意識していたが、諸侯の共通言語はフランス語であり、民族よりも身分重視されるなど、国民国家形成妨げられており、こうした領邦国家体制対す反発が、近代啓蒙合理主義影響18世紀以降ドイツにおける国民主義ナショナリズム)を形成していくことになる。 1627年詩人マレルブ最晩年ユダヤ教ヨルダン川岸辺おしとどめられるのが望ましいが、ユダヤ教徒セーヌ川流域まで勢力広げているとして「私はどこにいても神を頼みとして戦う」と書いた。 三十年戦争末期1648年フランス王国では10歳国王ルイ14世在位:1643年 - 1715年)の摂政ジュール・マザラン集権体制強化させていたが、マザラン反発した高等法院官僚法服貴族反乱起こしたフロンドの乱)。フランス一時無政府状態となり、王家国外へ脱出する1648年10月24日ヴェストファーレン条約締結され三十年戦争終結すると、フランス軍コンデ公ルイ2世フロンド派制圧し、さらにルイ2世マザラン対抗したが、1653年マザラン勝利してフロンドの乱終結した。これ以降王権による中央集権体制確立されていったフロンドの乱最中1652年8月15日、ジャン・ブルジョワ殺人事件発生した。トネルリーの古着商集団に対して、ジャン・ブルジョワ青年が「シナゴーグ殿方連のお通りだよ」とからかったところ、古着商集団青年を矛マスケット銃滅多打ちにしたうえ、賠償金も払わせた。青年代官告発したが、古着商集団青年おびき出し拷問果て殺害したこのような小規模な局地戦当時いくつか発生していた。この事件後、ユダヤ人によって腐敗撒き散らしてきたと非難する文書古着商集団弁護する文書現れユダヤ問題世論争われた。『ユダヤ人対す憤怒』という文書では、ユダヤ人識別するための印をつけるべきだと主張され、『シナゴーグ対す判決文』という文書ではユダヤ人全員去勢すべきだと主張された。こうした文書横溢によって古着商隠れユダヤ教徒マラーノ)かと疑われたが、事件における古着商集団被害者加害者もカトリック・キリスト教徒であったマザラン没後1661年23歳ルイ14世太陽王親政開始した宮廷説教師オラトリオ会修道士ボシュエ王権神授説フランス教会ローマからの独立ガリカニスム)を提唱しローマ教皇よりもフランス国王権力強化して絶対君主制確立貢献する一方でユダヤ人を「誰からも哀れまれることなく、その悲惨のなかにあって一種呪いによりもっとも卑しき人々からも嘲笑の的とされるいたった民」とし、ユダヤ人最大の罪はイエス処刑ではなく処刑後悔い改めない姿勢であると非難したルイ14世は「唯一の王、唯一の法、唯一の宗教」を方針として「最大キリスト教徒の王」を自負し異端ジャンセニストユグノー抑圧した一方ジャンセニスト哲学者ブレーズ・パスカル遺稿パンセ』で「栄誉抗して純一であり、それがゆえに死んでゆく、ユダヤ人」とユダヤ人称賛した1657年東方への野心持ったルイ14世は、軍馬調達駐屯地への補給のためにアルザス=ロレーヌ地域ユダヤ人利用しようとしてメッスシナゴーグ訪れアンリ4世ルイ13世ユダヤ人与えた勅許状更新し古物だけでなく新物を商う権利付与した1670年メッス儀式殺人事件裁判繰り広げられユダヤ人処刑された。また、パリ行方不明になった若者についてユダヤ人連行したという噂が流れた。これに対して聖書学者リシャール・シモンがメッス儀式殺人裁判について匿名ユダヤ人擁護し1674年にはヴィネチアのラビ、レオン・ダ・モデナの著作翻訳して、その序文で「新約聖書書いたのはユダヤ人であった」と主張し、またユダヤ教徒信仰心篤さ賞賛した。しかし1684年になると、シモン手紙モデナ訳書序文について好意的なことを書きすぎたと反省してユダヤ人救いようのない民であるということを、私はその後、彼らのうちの幾人かと付き合っててはじめ理解した。彼らはいまだにわれわれのことを深く憎悪している」と述べたシモン1678年近代聖書文献学さきがけとされる旧約聖書批判的歴史』を著作したが、宮廷説教師ボシュエ激し怒りを買い、1687年発禁処分至り、死ぬまで周囲から激し攻撃受けた1675年1680年サヴォイア公国ピエモンテ数年間の凶作によって救済保護政策のなかで、プロテスタントからの改宗者貧民ユダヤ人ゲットー強制移住させて、管理強めたルイ14世は、1680年代ユグノー弾圧開始1682年新築ベルサイユ宮殿移り1685年フォンテーヌブローの勅令信教の自由約したナントの勅令廃止した1688年から1697年にかけて領土拡大図ったフランスは、フランドル戦争仏蘭戦争後、1681年ストラスブール占領して併合した。これに反発したドイツスペイン諸国によるアウクスブルク同盟フランス王国との間で大同盟戦争となった1689年名誉革命ウィレム3世イングランド王になると、イングランドオランダアウクスブルク同盟参加した講和条約レイスウェイク条約フランスストラスブールをのぞく1678年からの占領地の殆どを返還した1693年1694年 - フランスで飢饉スペイン継承戦争1701年 - 1714年)中の1702年から1709年にかけて、南フランスユグノーによるカミザールの乱発生した1709年、大厳冬飢饉

※この「三十年戦争と絶対王政フランスの覇権」の解説は、「反ユダヤ主義」の解説の一部です。
「三十年戦争と絶対王政フランスの覇権」を含む「反ユダヤ主義」の記事については、「反ユダヤ主義」の概要を参照ください。

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