フロンド‐の‐らん【フロンドの乱】
フロンドの乱
フロンドの乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 03:37 UTC 版)
「ルイ2世 (コンデ公)」の記事における「フロンドの乱」の解説
コンデ公は軍人として破天荒なほどの活躍をしたが、それがかえってフランス宮廷に恐れられたためか、謀反の疑惑を持たれた。ルイ13世亡き後、幼年のルイ14世の摂政であった王太后アンヌ・ドートリッシュには頼られていたが、1647年からパリ高等法院が宰相マザランの設けた新税に対し攻撃を始め、その対立が宮廷革命にまで高まるにつれ、王室の軍事の要であったコンデ公の立場は微妙になってくる。 三十年戦争終結から間もない1648年にフロンドの乱が勃発、1649年1月、王太后がルイ14世・マザラン・オルレアン公ガストン(ルイ13世の弟)を連れてパリを逃れサン=ジェルマンへ避難する時にコンデ公は護衛として従う。コンデ公派は「小宰相たち」(le Petit Metre)とあだ名され、高等法院を中心とするフロンド勢と対立することになった。コンデ公は2月に8千の軍勢でパリを攻囲し、3月に王室をパリに入城させる。ところが、弟のコンティ公アルマンがフロンド側と市民に担がれてパリ軍の総帥であったところからマザランに疎まれ、1650年1月にコンティ公及び義兄で姉アンヌの夫ロングヴィル公アンリ2世と共に国事犯として逮捕された。 1651年2月、マザランが周囲の圧力から亡命、フロンド側によって釈放されると、パリを後にしてボルドーへ南下、ギュイエンヌ、ポワチエ、アンジューなどのフランス南西部で謀反を起こさせ、旧敵国のスペインと連絡を取る。王太后から思いとどまるように説得されたがコンデ公は「もう少し早ければ和議もよかろうが、せっかくここまで来た以上、パリへ引き返すこともあるまい」と拒否、内乱を再燃させる。スペイン軍とボルドー、モントーバンなど各地で集めた手勢を合わせた5、6千の兵を率いたコンデ公はルイ14世をはじめとした宮廷の人々を追って転戦した。 1652年4月7日、ロワール河畔のブレノーでかつての部下テュレンヌと互角の戦いを行ったが、砲撃を受けて敗北、テュレンヌを取り逃がしてしまった。戦後テュレンヌを追ってパリへ北上、エタンプの反乱軍と合流して7月2日にパリのサンタントワーヌ門でテュレンヌと再戦した(フォーブール・サントノレの戦い(フランス語版))。この戦いで劣勢になったコンデ公はパリからアンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアンがパリの門を開いたため入城、パリ陸軍の総帥となるが「この軍は馬鹿らしく、滑稽詩にでもするほかない」と自身で評したほど、規律も訓練もなっていない軍であった。 スペインの支援も当てにならず、居場所を無くしたコンデ公はパリから脱出、代わってルイ14世がパリに帰還した。更に11月、エーヌ川流域で冬営していた所をテュレンヌに奇襲されネーデルラントへ亡命、シャンパーニュの国境で戦っていた矢先の1653年3月、パリ高等法院から欠席裁判で死刑判決を下された。フロンドの乱は亡命先から帰国して政権を取り返したマザランの手腕により終熄したのである。
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