色川武大 受賞歴

色川武大

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/10 07:08 UTC 版)

受賞歴

全て本名の色川武大名義による受賞。

交際があった人物たち

『阿佐田哲也の怪しい交遊録』より

『色川武大・阿佐田哲也の特集 99人の友人たちによる別れのメッセージ』(別冊・話の特集)の登場者より

『阿佐田哲也“雀聖”追悼特集』近代麻雀オリジナル増刊号より

『競輪痛快丸かじり』(徳間書店)より

  • 3枠の2 競輪わが命の素・座談会 大穴取りのダイゴ味は…

その他

  • 小林信彦 -古い笑芸や、昔の映画などについて、同好者でありある程度交際していた。色川は、小林の代表作の一つである『日本の喜劇人』(新潮文庫版)の解説を執筆している。その他『袋小路の休日』『ちはやふる奥の細道』の解説も担当。
  • 高橋呉郎(梶山季之が創刊した月刊誌『』編集長)、高松繁子(文藝春秋の担当編集者。彼女は小松左京の担当者でもあった)、景山民夫垂水悟郎(俳優)、秋野卓美(画家)、鈴木重雄望月優子の夫で、産経新聞文化部長)、戸川昌子、ドナルド・ベイリー(ジャズ・ドラマー)、つかこうへい、鈴木桂介(浅草の古い芸人)、内田裕也
  • 村松友視 - 雑誌『海』編集者時代、『生家へ』の担当者だった。また、色川に武田百合子を紹介した。
  • 武田百合子 - 『犬が星見た-ロシア旅行』の解説を書き、彼女の文章を絶賛。村松と二人で「武田百合子に小説を書かせる会」を結成した。
  • 赤塚不二夫 -色川の『怪しい来客簿』が第77回直木賞候補としてノミネートされるが、選考会当日、新喜楽そばの飲食店で、吉報を待つ色川の担当編集者と、赤塚が偶然顔を合わせている。第77回直木賞は受賞作がなく、色川は賞を取り逃がしてしまうが、悔し涙を流し、やけ酒をあおり、荒れる担当者の様子をみて、信頼関係のある作家と編集者の姿だと感じた赤塚は、後日、色川と会った際に選考会当日の担当者の様子を伝えたところ、色川は涙を流し感動していたという。翌年の第79回直木賞で、『離婚』が直木賞を受賞し、色川は雪辱を果たすこととなる。

エピソード

  • 劇作家の飯沢匡の母は土浦の色川家の人で、飯沢と色川は「高祖父同士が兄弟」の関係になる。飯沢の高祖父は色川三中(祖父の代に夫婦養子)、色川の高祖父は三中の弟の色川御蔭。土浦色川家は代々醤油屋を営む富商で、兄弟ともに好学の人物。御蔭の長男・色川誠一は富士製紙常務、誠一の子・色川武夫は陸軍大佐、武夫の子が武大。
  • ナルコレプシーを患ってからは睡眠周期が乱れて1日内の時間感覚が崩れたため、起きていて腹が減ればとにかく食事をするようになり、1日6食も取るようになった。そのため、後年は肥満体となり、58歳の時点で身長170cm、体重80kgという体格であった[18]。また、ナルコレプシーのため何をするにも疲労しやすくなり、更に過食に陥ったという[18]。更に、病による幻覚幻聴にも悩まされるようになり、晩年の『狂人日記』はこの経験を基にしている。
  • ナルコレプシーのせいで、定刻に目的地へ到着することや待ち合わせをすることが極めて困難となり、自分が文学賞を取った際の授賞式にも必ず遅刻していた。
  • アウトローな色川は、嫌煙権をふりかざすなどはもってのほかと考えていた[18]
  • めったに風呂にはいらず、また風呂にはいってもつかるだけであり、結婚後は夫人が体を洗っていた。
  • 作家となった後は非常に人づきあいがよくなり、そのため、文壇、芸能界、スポーツ界、麻雀プロたち、アウトローの世界を含めて多数の人物と交際しており、色川家には人の出入りが絶えなかった。山口瞳は色川の死後「彼には八方美人の性格があり、だれにも『自分が一番愛されている』と感じさせた」と書いている。
  • チワワを飼っていたことがあり、自分の筆名からとった「アサダ」という名前をつけていた。その犬が死んだ直後に、黒鉄ヒロシが色川宅に電話すると、孝子夫人が「アサダが死んじゃったのよ!」と言ったため黒鉄が仰天したという。
  • 一関への引越しは、同地に有名なジャズ喫茶「ベイシー」があったのがきっかけである(2020年より休業中)。還暦を期に作品に専念するという考えがあり、また純文学では稼げないため家賃の安い所に住みたいという理由もあった。
  • 小松原茂雄元東京大学教授(ディケンズ研究者)とは小学校からの親友である。

  1. ^ a b 史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月22日閲覧。
  2. ^ 飯沢匡『権力と笑のはざ間で』52頁
  3. ^ 『贈従五位色川三中翁略伝』湯本武比古、1920、p15-16
  4. ^ ただし、後年、夏堀が他の作家に「この人も『新日本文学』の会員ですよ」と紹介すると「いや、違う」と色川は否定したという。新日本文学会のイデオロギー臭を嫌っていたと思われる。
  5. ^ a b c 「『離婚』と直木賞」 『ばれてもともと』(ページ番号不詳)または『色川武大・阿佐田哲也エッセイズ 1』pp.350- 収録。
  6. ^ 色川によれば、本人は実物より魅力的な女性に書いたつもりであったのであるが、雑誌掲載後、夫人は、これでは登場人物が私の事だと思われてしまう、私のことをあんなにひどく書いて、などと色川に抗議し[5]、一時別居し離婚寸前の状態に陥った[5]。直木賞受賞後は、さらに夫人の不満は募ったという[5]
  7. ^ 色川は過去20年の間で10回も引越しを行っていた。
  8. ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)42頁
  9. ^ 『阿佐田さんと色川さんと』 和田 誠
  10. ^ 『ぎゃんぶる百華』参照。
  11. ^ 「雀鬼五十番勝負」などの作品に見られるように元々は「雀鬼」と呼ばれていたが、後にナンバーワン代打ちとして活躍する桜井章一を「雀鬼」と呼ぶことが一般的になったため、区別するために「雀聖」と呼ばれるようになった。[要出典]
  12. ^ 「麻雀新撰組 in the 70s'」『近代麻雀』第30巻第7号、竹書房、2008年3月、11から14ページ。 
  13. ^ 『小説 阿佐田哲也』 pp.40-44
  14. ^ 当時の新日本麻雀連盟(2014年に日本スポーツ麻雀協会に名称変更)による開催。その後名称を変更し「麻雀王座決定戦」となり、2012年からは「統一チャンピオン決定大会」となっている。
  15. ^ 「阿佐田哲也の怪しい交友録」などのエッセイには、将棋界屈指の競輪狂として知られた芹沢博文をはじめとする将棋棋士の名が度々登場する。
  16. ^ 「九勝六敗を狙え-の章」、『うらおもて人生録』収録(ページ番号不詳)。『色川武大・阿佐田哲也エッセイズ1』 pp.48- に再録。
  17. ^ 「麻雀小説家も神と祀られる」神社の意外な実態”. 東洋経済オンライン (2021年1月25日). 2022年8月29日閲覧。
  18. ^ a b c 「節制しても50歩100歩」 『ばれてもともと』(1989年、ページ番号不詳) または『色川武大・阿佐田哲也エッセイズ 1』pp.72- 収録。






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