細江英公
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/17 04:20 UTC 版)
旭日重光章細江 英公
細江 英公(ほそえ えいこう) ja | |
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文化功労者顕彰に際して 公表された肖像写真 | |
本名 | 細江 敏廣(ほそえ としひろ) |
誕生日 | 1933年3月18日(91歳) |
出生地 | 山形県米沢市 |
国籍 | 日本 |
民族 | 大和民族 |
運動・動向 | VIVO |
芸術分野 | 写真 |
出身校 | 東京写真短期大学卒業 |
代表作 |
『おとこと女』(1961年) 『薔薇刑』(1963年) 『鎌鼬』(1969年) |
受賞 |
富士フォトコンテスト 学生の部最高賞(1951年) 日本写真批評家協会 新人賞(1960年) 日本写真批評家協会 作家賞(1963年) 芸術選奨文部大臣賞(1970年) 毎日芸術賞(2008年) |
ウェブサイト | 細江英公写真芸術研究日誌 |
活動期間 | 1954年 - |
東京写真専門学校講師、東京写真大学短期大学部教授、社団法人日本写真家協会副会長、東京工芸大学芸術学部教授などを歴任した。
来歴
生い立ち
1951年に富士フイルム主催の「富士フォトコンテスト」学生の部で最高賞を受賞する。翌年、19歳で東京写真短期大学(現 東京工芸大学)に入学。評論家の福島辰夫は、土門拳らのリアリズム派にない彼の人間味に注目。美術家瑛九と交流を深め、既成概念に挑む作家の精神を受け継ぐ。1954年同大卒業。
写真家として
1957年から、福島の主宰する「十人の眼」展に参加。その後、1959年に写真家集団「VIVO」を、奈良原一高、東松照明、川田喜久治、丹野章、佐藤明と共に立ち上げる。三島由紀夫の裸体写真集「薔薇刑」や秋田の農村を舞台に舞踊家の土方巽をモデルにした「鎌鼬」を発表。
2003年9月18日、英国王立写真協会の記念式典で「生涯にわたり写真芸術に多大な貢献をした写真家」として特別勲章を授与された。2010年10月には文化功労者に選出された。
息子の細江賢治も同じく写真家。
略歴
- 1933年 - 父米次郎、母みつのの次男として生まれ、生後3ヶ月で東京に戻る。
- 1947年 - 戦後、新しい時代に備え、新しい名前をつけるよう従兄弟から勧められ、以後「英公」と名乗る。
- 1951年 - 「富士フォトコンテスト」学生の部で『ポーディちゃん』が最高賞を受賞。
- 1952年 - 東京都立墨田川高等学校卒業、東京写真短期大学写真技術科に入学。
- 1952年 - 「写真サロン」11月号、月例コンテストで『銀座の乞食の子供』が特選。
- 1954年 - 東京写真短期大学(現東京工芸大学)を卒業し、フリーに。以後、写真雑誌、女性雑誌の仕事を始める。
- 1956年 - 最初の個展「フォトストーリー・東京のアメリカ娘」を行い、ラジオドラマの原作ともなる[2]。
- 1960年 - 個展「おとこと女」により日本写真批評家協会新人賞を受賞。
- 1961年 - 森山大道が参加する直前に「VIVO」を解散する。前年の個展の写真集『おとこと女』(カメラアート社刊)を発表。
- 1963年 - 三島由紀夫をモデルに撮った写真集『薔薇刑』(集英社刊)により日本写真批評家協会作家賞を受賞。
- 1967年 - 東京写真大学短期大学部で教鞭をとる(1969年まで)。
- 1970年 - 東北を舞台に、舞踏家の土方巽を撮った『鎌鼬』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。
- 1974年 - 若手写真家による寺子屋形式の学校「WORKSHOP写真学校」(文京区後楽)の設立に参加。
- 1975年 - 東京写真大学短期大学部教授となる。
- 1981年 - 日本写真家協会副会長となる。
- 1991年 - からだの学校写真教室CORPUSを主宰。2003年まで21期、延べ人数、約300人が修了。
- 1994年 - 東京工芸大学芸術学部教授に就任。
- 1995年 - 清里フォトアートミュージアムの初代館長となる。
- 1998年 - 東京工芸大学芸術学部及び大学院芸術学研究科(修士)課程教授となる。
- 2000年 - 写真集『細江英公の写真絵本[妖精物語]ルナ・ロッサ』(新潮社刊)を発表。
栄典
- 2003年 - 9月に英国王立写真協会より特別勲章を授与。
- 2007年 - 4月に旭日小綬章受章、7月に核兵器とその脅威をテーマにした『死の灰』(窓社刊)を発表。
- 2010年 - 10月に文化功労者顕彰[1]。
- 2017年 - 11月に旭日重光章受章[3]。
固有名詞の分類
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