第二次ハリコフ攻防戦 戦いの経過

第二次ハリコフ攻防戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/17 09:48 UTC 版)

戦いの経過

ソ連軍の攻勢(5月12日~16日)

5月12日、ソ連第28軍を中心に、右翼の第21軍がドネツ川を越え、ハリコフ正面のドイツ第6軍左翼に攻撃を開始した。13日ドイツ第6軍は第3装甲師団と第23装甲師団を投入して反撃に転じ、ハリコフ正面への攻勢は15日には頓挫した。ドイツ第4航空艦隊の攻撃によりソ連軍は兵站を叩かれ戦力移動を大幅に制限されていった。ソ連軍の攻勢が停滞するなかボブキン機動集団の進撃はめざましく、ドイツ第8軍団を突破してクラスノグラードを攻撃し、さらにポルタヴァの南方軍集団司令部を脅かした。5月15日、南西方面軍司令部はボブキン機動集団の活躍によりハリコフ地区のドイツ軍は粉砕されたと報告したが、ドイツ軍はすでに迅速に増援を展開し反撃を開始していた。

ドイツ軍の反撃・包囲(5月17日~28日)

南方軍集団司令部の「フレデリクス作戦」は当初、北翼の第6軍と南翼の第1装甲軍による挟撃を想定していた。しかしソ連軍の攻勢により第6軍は防衛線の維持で精一杯であり、南方軍集団司令官ボック元帥は南翼の第1装甲軍に増援を加え南翼のみでの「フレデリクス作戦」を決行した。クライストの第1装甲軍に、第3装甲軍団・第44軍団・第52軍団から成る増援を加え再編成「クライスト軍集団」に改組、17日にイジュム突出部への攻撃を開始した。5月17日午前4時、第3装甲軍団(マッケンゼン大将)が南部方面軍の第9軍(ハリトノフ少将)と第57軍(ポドラス中将)が構える突出部の南翼に襲いかかった。この戦区では十分な防御設備が構築されておらず、有刺鉄線が張られていたのは170キロもの前線のうち11キロほどで、陣地の縦深もわずか5キロほどにすぎなかった。「クライスト軍集団」は翌18日までにスラヴィヤンスクからイジュムに至るドネツ河の西岸地域を占領し、結果として幅80キロの大穴をソ連南部方面軍の南翼に開けることに成功した。病身のシャポシニコフにかわり、参謀総長に就任していたヴァシレフスキーは作戦の中止を求めたが南西方面軍司令官コステンコ中将は攻勢の継続を主張し、スターリンも前線司令部の主張を支持した。5月17日、第38軍司令部は偵察部隊が捕獲した「フレデリクス作戦」の詳細を記した機密書類を解読、驚愕したチモシェンコはただちに全軍に対しハリコフ攻勢の中止と戦車部隊の移動を命令したが、すでに手遅れだった。5月22日、第3装甲軍団の先頭を進む第14装甲師団(キューン少将)はバラクレヤ東方でドネツ河に到達し、対岸には第51軍団(ザイドリッツ=クルツバッハ中将)が展開した。ハリコフ南方の突出部に布陣するソビエト赤軍の2個軍(第6軍・第57軍)が退路を断たれ包囲された。5月23日、チモシェンコは包囲された2個軍に対し東方への脱出作戦を開始するよう命令し南西方面軍司令官コステンコ中将に退却作戦の指揮を命じた。包囲されたソ連軍の各部隊は必死に包囲網の突破を試みたが、脱出できたのは第23戦車軍団と一部の戦車部隊であり多くの兵士が機銃掃討と対戦車砲の餌食となった。5月28日、第2次ハリコフ攻防戦は終結し、この戦いでソ連軍は戦車652両、火砲4924門、兵員26万7000人を失った。大半の戦車はドネツ川を渡れず破壊・捕獲され、航空機の半数が失われ、何より攻勢を担った優秀な将官将校が多数戦死してしまった(南西方面軍司令官コステンコ中将、第6軍司令官ゴロドニャンスキー中将、第57軍司令官ポドラス中将、機動集団司令官ボブキン少将) 

ソ連軍の敗因

スタフカも南西戦域軍司令部も稚拙な偵察と楽観視の結果、ドイツ軍の正確な戦力を見誤っていた。ソ連側はハリコフ地区のドイツ軍兵力を11個師団と1個装甲師団だと予測していたが実際のドイツ軍兵力は16個師団と2個装甲師団であり、ソ連側の予測をはるかに上回っていた。また各方面軍司令部の情報共有も行われず、南部方面軍司令部はボブキン機動集団の側面を脅かしていたドイツ第17軍の存在を南西方面軍司令部に伝えなかった。攻勢にむけた戦力移動も攻勢開始日時までに完了せず、作戦に参加する予定だった32個砲兵連隊のうち実際に参加したのは17個砲兵連隊だけであり、ソ連軍機動集団の中核だった第3親衛騎兵軍団は戦力の集結に作戦開始から3日かかった。様々な遅延と齟齬が戦場を混乱させ、ソ連軍の指揮系統を破綻させた。

双方がこの作戦に投入を予定していた戦力は、兵士数・戦車数・航空機数どれもそれ程差は無かった。だが、ドイツ側の巧妙な欺瞞策(隠語名「クレムリン」)により、ドイツ側の主攻撃の目標をモスクワ正面と誤認したこと、ブラウ作戦の準備で兵力を集中させている南部方面に無茶な攻撃を仕掛けたことが裏目となり、逆にウクライナの全域がドイツ側の手に入ってしまった。

ソ連軍の優位は、戦車戦力において、(前年と比して)軽戦車は減りKV-1重戦車・T-34中戦車の割合が増し、英国から供与されたマチルダII歩兵戦車バレンタイン歩兵戦車、米国からのM3中戦車リーが加わり、戦車の質がドイツの上を行く点にあった。

対して、ドイツ軍の優位は、豊富な戦闘経験に裏打ちされた自動車化による歩兵の機動力・行き届いた連絡通信網により、単なる数量比較以上の戦闘力が出せる点にあった。

さらに重大な事は、まだソ連はドイツの戦車戦術を吸収し切っていなかったため、(前年の損害により機械化軍団は解体され、師団単位で編成するには数量不足であったとは言え)歩兵の中に旅団単位で配置した事にある。


  1. ^ a b c Glantz & House 1995, p. 295.


「第二次ハリコフ攻防戦」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「第二次ハリコフ攻防戦」の関連用語

第二次ハリコフ攻防戦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



第二次ハリコフ攻防戦のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの第二次ハリコフ攻防戦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2021 GRAS Group, Inc.RSS