渋沢秀雄 渋沢秀雄の概要

渋沢秀雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/18 05:50 UTC 版)

しぶさわ ひでお
渋沢 秀雄
生誕 1892年10月5日
東京府東京市
死没 (1984-02-15) 1984年2月15日(91歳没)
出身校 東京帝国大学法科大学仏法科[1]
職業 東宝取締役会長
田園都市取締役
後楽園スタヂアム監査役
東映監査役
目黒蒲田電鉄監査役
渋沢栄一
テンプレートを表示

人物

渋沢栄一の四男として兜町の洋館で生まれる。幼少時は邸宅の近くにあった日本橋川で泳いでいた。

大学時代の1916年から1917年ころに親戚筋の女性と結婚し、長男の和男(アコーディオン演奏者)・華子小説家)ら2男2女を成すも離婚する。1917年、東京帝国大学法科大学仏法科卒業[1][2]日本興業銀行に勤務したが、1年半勤めて退職。欧米で住宅事情を学び[3]、設立間もない田園都市株式会社に取締役として入社する。この会社は、田園調布洗足田園都市の計画的で大規模な宅地開発を行い、その開発地区のための鉄道敷設・電力供給、多摩川園遊園地の運営も行った。その後は、いくつかの会社で役員を務めた。

敗戦後は、GHQによる公職追放のためそれらの職を辞し[4]、趣味の世界に生きた。随筆の執筆、絵画俳句長唄小唄などをよくした。56歳時、以前から寵愛し、間に子を作っていた花柳界の女性と再婚。また、放送界の委員などを務めた。

経歴

家族・親族

父の渋沢栄一。
甥の渋沢敬三。
渋沢家
親戚

注釈

  1. ^ 戦中日記で、1942年1月1日〜1945年8月16日の渋沢日記も収録している

出典

  1. ^ a b c d 『東京帝国大学一覧 從大正7年 至大正8年』学士及卒業生姓名 法学士 法律学科89頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年12月5日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『人事興信録 第13版 上』シ47頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年9月13日閲覧。
  3. ^ 『なんだか・おかしな・人たち』文芸春秋編、1989年、文春文庫、p186
  4. ^ 『公職追放に関する覚書該当者名簿』560頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年9月13日閲覧。
  5. ^ a b 『人事興信録 第8版』シ47頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年1月15日閲覧。
  6. ^ 『人事興信録 第25版 上』(人事興信所、1969年)し70頁
  7. ^ 『人事興信録』42版 2003年「堀義和」
  8. ^ デジタル版『渋沢栄一伝記資料』 青淵先生子孫一覧


「渋沢秀雄」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「渋沢秀雄」の関連用語

渋沢秀雄のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



渋沢秀雄のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの渋沢秀雄 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS