渋沢信雄とは? わかりやすく解説

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渋沢信雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/16 12:12 UTC 版)

渋沢 信雄

渋沢 信雄(しぶさわ のぶお、正字体澁澤 信雄1898年明治31年〉6月21日[1] - 1967年昭和42年〉2月12日[2])は、日本の実業家。渋沢栄一の次男で後に廃嫡となる篤二の次男として生まれる。渋沢家の傍系に属しつつ、秩父鉄道、東京製綱、秩父セメント、玉村式索道など祖父・栄一関係の企業に関わり、出版・輸入事業「福本書院」でも活動した。兄に渋沢敬三、弟に智雄

しぶさわ のぶお

渋沢 信雄
(澁澤 信雄)
生誕 1898年6月21日
大日本帝国東京府東京市深川区(現・東京都江東区
死没 (1967-02-12) 1967年2月12日(68歳没)
日本東京都
墓地 谷中霊園
出身校 京都帝国大学文学部哲学科
職業 実業家、会社役員、商人
団体 福本書院
肩書き 秩父鉄道取締役
東京製綱取締役
秩父セメント取締役
玉村式索道取締役
福本書院取締役
澁澤倉庫監査役
配偶者 渋沢敦子(旧姓・齋藤)
子供 長男・渋沢裕
次男・渋沢彰
父・渋沢篤二
母・渋沢敦子
親戚 祖父:渋沢栄一
祖父:橋本実梁
兄:渋沢敬三
弟:渋沢智雄
義兄:齋藤秀雄
甥:渋沢雅英
甥:渋沢芳昭
姪孫:渋沢田鶴子
姪孫:渋沢健
伯父:穂積陳重
従兄:穂積重遠
従兄:穂積真六郎
伯父:阪谷芳郎
従兄:阪谷希一
従兄:阪谷俊作
義父:齋藤秀三郎
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生涯

幼少期・青年期

1898年6月21日、子爵渋沢栄一の次男篤二と妻・敦子の次男として東京府東京市深川区〈現在の東京都江東区〉にて生まれる[3][4]

敦子の父(母方の祖父)は羽林家の公卿出身の元老院議官を務めた伯爵橋本実梁である。

1913年、父・篤二が廃嫡となる。これに伴い母・敦子と兄弟とともに渋沢邸を離れ、本郷西片町・高輪車町・駒込神明町など東京市内の借家を転々としながら生活したことが、 兄・敬三の回想(渋沢雅英『父・渋沢敬三』)に記録されている。 兄である渋沢敬三は後に栄一の正式な後継者となったが、信雄自身が「渋沢家本家に戻って暮らした」という確実な史料は確認されず、青年期まで母や兄弟とともに暮らしたと見られる[5][6]

その後、京都帝国大学文学部哲学科を卒業したとされる。

実業家として

1931年、音楽家・斎藤秀雄の妹である敦子と結婚し、このとき分家を創立した。1932年には長男・渋沢裕(後にソニー取締役)が誕生し、1936年には次男・渋沢彰が生まれた。

信雄は性格が温厚で社交的であったとされ、知人・社員から「気取らず実直」「面倒見の良い人柄」と評されている。また、ゴルフ・乗馬をはじめ多趣味で、企業人としての活動と同時に文化・交友関係も広かった。[4]

一方で、父・篤二の廃嫡による家の騒動を幼少期に経験し、母や兄弟と借家を転々とした背景から、兄の敬三に対する尊敬・共感が強く、のちに敬三が本家の家督継承者として重責を担う際には、 家督継承そのものとは無関係に、企業や人的関係の面で慎ましく兄を支えた とされている。 また、敬三自身も「父(篤二)の件以来、私が弟たちを守らねばならないという気持ちがあった」と述べており、兄弟間の結束の強さが窺える[7]

渋沢家ゆかりの企業は、創業者・渋沢栄一の方針もあって専門性を重んじる経営体制がとられており、役員任命は家督の有無に左右されなかった。そのため、信雄は、秩父鉄道、東京製綱、秩父セメント、玉村式索道、渋澤倉庫(監査役)など渋沢系の企業でも役員を歴任した。これらの役職は栄一の生前から死後にかけて継続しており、信雄は長く企業活動に携わった。[8]

上記以外でも、1926年より友人・福本初太郎と「福本書院」として独逸書輸入業を営むなど、事業家として活躍した。

住所は東京都品川区上大崎長者丸であった[3][9]1938年目黒区上大崎に建てられた自邸の洋館は1985年志賀高原に移築され、資料館「志賀山文庫」を経て、2017年よりレストランとして利用されている[10][11]

晩年・死去

1967年、2月12日に満68歳(享年70)で死去した。兄の敬三は1963年に67歳で、弟の智雄は1947年に46歳でそれぞれ信雄より先に他界しているため信雄が篤二の子供の中でもっとも長命かつ最後の存命人物となっていた。

菩提寺は渋沢子爵家の菩提寺でもある寛永寺で、墓所は渋沢子爵家代々の墓所がある谷中霊園にある。

年譜

  • 1898年、6月21日に渋沢栄一の嫡男渋沢篤二と妻・敦子の次男として生まれる。祖父の栄一から「 信雄 のぶお」という名前を名づけられる。2歳上の兄に渋沢敬三(子爵、第49代大蔵大臣)がいる。
  • 1900年、祖父の渋沢栄一が男爵となる。
  • 1901年、3月5日に弟の渋沢智雄(実業家、会社役員)が誕生する。
  • 1913年、父の篤二が、廃嫡となる。その後、母敦子は信雄を始めとする子供を連れ渋沢家を出、借家を借り生活を始める。
  • 1915年、兄敬三が、廃嫡となった篤二に代わり跡取りとなる
  • 1920年、祖父の渋沢栄一が子爵となる。
  • 1926年、友人の福本初太郎と共に独逸書輸入会社である「福本書院」を設立する。
  • 1931年、音楽家齋藤秀雄の妹である齋藤敦子と結婚を機に分家する。同年11月11日に祖父の渋沢栄一が死去(享年92)。
  • 1932年、父の篤二が死去(享年61)。またこの年、長男の渋沢裕(元ソニー取締役)が誕生する。
  • 1936年、次男の渋沢彰が誕生する。
  • 1943年、母敦子が死去。
  • 1947年4月29日に弟の渋沢智雄が死去(46歳没)。
  • 1963年、10月25日に兄の渋沢敬三が死去(67歳没)。
  • 1967年2月12日に死去。満68歳没(享年70)。渋沢篤二の子息の中で最も長命かつ最後の存命人物であった。

家族・親族

父方祖父の渋沢栄一
母方祖父の橋本実梁
兄の渋沢敬三
渋沢家の人々。
渋沢家
親戚

系図

登場作品

脚注

  1. ^ 第29巻(DK290013k) 本文|デジタル版『渋沢栄一伝記資料』
  2. ^ 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、612頁。
  3. ^ a b c d e 『大衆人事録 第14版 東京篇』487頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年2月24日閲覧。
  4. ^ a b 『人事興信録 第13版 上』シ47頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年2月6日閲覧。
  5. ^ 父・渋沢敬三 / 渋沢雅英 | 渋沢敬三の伝記 | 著作・記事を読む | 渋沢敬三アーカイブ”. shibusawakeizo.jp. 2025年11月16日閲覧。
  6. ^ 高田哲哉 (2021年11月28日). “渋沢篤二の解説~渋沢栄一の跡取りも廃嫡騒動になった真相は? - 人物事典 幕末維新”. 幕末・維新風雲伝. 2025年11月16日閲覧。
  7. ^ 父・渋沢敬三 / 渋沢雅英 | 渋沢敬三の伝記 | 著作・記事を読む | 渋沢敬三アーカイブ”. shibusawakeizo.jp. 2025年11月16日閲覧。
  8. ^ 閨閥博士 (2018年6月30日). “渋沢家(渋沢栄一・渋沢正雄・渋沢武之助の家系図・子孫)”. 閨閥学. 2025年11月16日閲覧。
  9. ^ a b c d 『人事興信録 第15版 上』シ11頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年2月6日閲覧。
  10. ^ 志賀山文庫北信ローカル
  11. ^ 【長野】開店まで4年間の想いと美味いビール THE FARMHOUSE/山ノ内町Real Rocal

参考文献

  • 人事興信所編『人事興信録 第11版 上』人事興信所、1937 - 1939年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。
  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版 東京篇』帝国秘密探偵社、1942年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第15版 上』人事興信所、1948年。

関連項目




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