斎藤を巡る人々
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 05:14 UTC 版)
アメリカ人宣教師で校長の一方的な教育方針に反発し、日本初の女子校内ストライキ「宮城女学校ストライキ事件」の首謀者として学校側から退学を命じられた斉藤冬は秀三郎の妹。事件後、明治女学校へ転校した。 音楽家齋藤秀雄は彼の次男である。長女のふみはお茶水高等女学校卒業後、幣原喜重郎外務大臣秘書官の岸倉松に、五女の敦子は聖心女子学院卒業後、渋沢栄一の孫・渋沢信雄と結婚した。三女のミドリ(のち平野姓)はボストンで公衆衛生看護を学び、1927年に聖路加病院に公衆衛生看護部を発足。 聖書学者塚本虎二は彼の娘婿(次女・そのの夫)。そのエッセイ(「斎藤の父」)は、斎藤の姿を知ることができる重要な文献である(大村『斎藤秀三郎伝』に全文が収録されている)。塚本が斎藤に初めて会ったのは、彼が農商務省の官吏をやめ、聖書研究に打ち込むべくギリシャ語の勉強をしていた頃だった。斎藤が新約聖書のギリシャ語についての話をするので、「自分の縄張にでも闖入されたかような生意気な気持ち」で議論に応じていたが、後年蔵書の中に詳細な書き込みのあるギリシャ語原典新約聖書を見つけ、さらにそれが24、5歳の頃に読み込まれたものだと知り、驚愕し、深く恥じ入ったという。 斎藤の生徒の中には、吉野作造(仙台の英語塾に参加したが、あまりの短気に恐れをなして一日で辞めてしまった)や、市河三喜、高柳賢三(英語青年に当時の回想がある)松田福松、田中菊雄がいる。また、そのユニークな解説と血の通った訳語を求める姿勢は日本の英語教育に大きな影響を与えており、詩人土井晩翠がバイロンを翻訳したのは斎藤の影響である。 「新自修英文典」、「英文解釈研究」の著者である山崎貞も、教え子である。
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