田園都市 (企業)
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田園都市株式会社(でんえんとしかぶしきがいしゃ)はかつて洗足田園都市(現在の目黒区洗足)にあった住宅地開発会社。宅地開発のみならず鉄道事業をふくむ諸般の設備整備も展開した。洗足と多摩川台(現在の田園調布)を開発したことでも名高い[1]。現在の東急、東急不動産の母体企業である。
- ^ 『高級住宅街の真実 セオリー2008 vol.2』講談社 2008年3月25日
- ^ 田園都市株式会社(東京都豊島区)
- ^ 洗足時代の田園都市株式会社本社
- ^ 東京横浜電鉄沿革史、第一編、第一章 田園都市株式会社、第五節 目黒蒲田電鉄株式会社に合併、東京横浜電鉄、1943年(昭和18年)
- ^ a b 「街づくり50年」東急不動産、1973年(昭和48年)
- ^ 『渋沢栄一伝記資料』第53巻 目次詳細 第13節 土木・築港・土地会社 第3款 田園都市株式会社
- ^ 渋沢秀雄の義父
- ^ 「田園都市株式会社 業務報告書」第一回、1918年(大正7年)6月〜11月
- ^ 『中野武営と商業会議所』1016頁。
- ^ 『東京急行電鉄50年史』p51、東京急行電鉄、1972年
- ^ 東京朝日、1919年8月22日
- ^ 後に高級住宅街の代名詞となった田園調布、田園調布と言うブランド - 「高級住宅街の真実 セオリー2008年Vol2」P16〜21、講談社、2008年3月25日
- ^ 「田園都市株式会社 業務報告書」第六回、1921年(大正10年)6月〜11月
- ^ 三浦 展、東京高級住宅地探訪、晶文社、2012年11月16日
- ^ 東京横浜電鉄沿革史、第一章 田園都市株式会社、第二節、会社の設立と土地分譲、東京急行電鉄、1943年(昭和18年)
- ^ 「理想的住宅案内」田園都市株式会社、1922年(大正11年)
- ^ 鉄道施設権を得るために田園都市株式会社が作ったペーパーカンパニーであった。
- ^ 「田園都市株式会社、設立趣意書・目論見書・定款」認可申請の添付書類より。田園都市株式会社、1922年(大正11年)
- ^ 武蔵電鉄の蒲田までの施設権を獲得してから、乗り合い馬車が走り丸子の渡しがある中原街道まで延長して建設した。
- ^ 「矢野恒太伝」矢野恒太記念会、1957年(昭和32年)
- ^ 『中野武営と商業会議所』1017頁
- ^ 大阪府池田市にある小林一三記念館パネル展示(2011年9月閲覧)
- ^ 「田園都市株式会社 業務報告書」第九回、1922年(大正11年)12月〜1923年(大正12年)5月
- ^ 「僕がどうやって五島慶太君をつかまえて矢野恒太さんに推薦したか内輪話を聞かせてあげる」小林一三は武蔵電鉄が持っていた田園調布から蒲田までの鉄道施設権が欲しかったのである。既に目鎌電鉄は目黒から田園調布の施設権を持っていたが、蒲田まで延長すれば省線の駅同士を結ぶことが出来、かつ乗車効率が高まるからである。また国からの補給利子(補助金)もより多く受けることが出来た。そこで武蔵電鉄の五島慶太をスカウトし、武蔵電鉄の施設権と五島慶太を一挙に手に入れたのである。 - 小林一三と矢野一郎との対談、実業之日本、1952年(昭和27年)2月
- ^ 小林一三が五島慶太を目黒蒲田電鉄にスカウトする時「もしコンガラがった場合、目黒電車の開通がのびのびになると困る。そこで考えた」その当時、阪急神戸線の神戸乗り入れ線は、高架線で神戸に乗り入れるか地下線で乗り入れるかでゴタゴタしていた。神戸市会が地下線で建設することを条件に許可したのだが、阪急は高架線に変更し建設し始めたからである。そこで、小林一三は元鉄道省総務課長であった五島慶太を、まず阪急の顧問として招聘したのである。その関係を保ちながら目黒電車入りを勧め成功した。そして1927年(昭和2年)10月、阪急神戸線を全線高架式に変更すると申請しなおした。その後、五島の働きかけもあり内務省、鉄道省は阪急神戸線の高架計画の申請を許可した。「神戸市内高架線の成功は、五島顧問のおかげだった」阪急にとっても役立ったのである。 - 『篠原三千郎氏を偲ぶ』東京急行電鉄、1954年(昭和29年)
- ^ 私の履歴書 第一集 P12、日本経済新聞社1957年2月10日
- ^ 洗足駅前広場で盛大な開通祝賀行事|写真が語る沿線(渋沢秀雄提供による写真「大正12年3月目蒲線最初の開通区間(目黒~多摩川)洗足駅の電車」も記載されている)
- ^ 「田園都市株式会社 業務報告書」第十回、1923年(大正12年)6月〜11月
- ^ 「東京市内の地獄絵みたいな無残さ、惨たらしさとはうらはらに、洗足地区は何と美しかったろう。まさに天国と地獄だった。最大の被害でも壁に亀裂が入り、レンガがズレ落ちた程度だった。」 - 『随筆 街づくり わが町』渋沢秀雄、沿線新聞社、1971年(昭和46年)
- ^ 「蔵前の1万2千坪の土地は、間もなく復興局の材料置き場として240万円(売却益は150万円以上、簿価より計算)で買収されたので、私はこの金で武蔵電鉄の株式の過半数を買収した。名称を東京横浜電鉄と改め、いよいよ東横線の建設に着手した」五島慶太、70年の人生、要書房、1953年(昭和28年)
- ^ 現在の東急不動産の前身である。
- ^ 「イギリスやドイツは冬のせいか、暗くて寂しかった。私はサンフランシスコ郊外のセントフランシス・ウッドという住宅地が気に入った」 - 「随筆 街づくり わが町」渋沢秀雄、沿線新聞社、1971年(昭和46年)
- ^ 「田園都市案内パンフレット」の一節、田園都市株式会社、1921年(大正11年)
- ^ 大正初期、石川啄木の朝日新聞での月給が十七円であった。
- ^ 「下水や道路の工事はまだ日子を要するをもって、完成は10月と予期、然るに、完成を待たずに急速契約を切望する向きが多く、近く売り出しを開始せんとす」「田園都市株式会社 業務報告書」第七回、1921年(大正10年)12月〜1922年(大正11年)5月
- ^ 「関東大震災で都心から郊外に移るという気分が東京市民に勃興してきた」そこで、震災で被害が無かったことを新聞の広告に頻繁に打った。 - 「随筆 街づくり わが町」渋沢秀雄、沿線新聞社、1971年(昭和46年)
- ^ 一般社団法人 洗足会 沿革・歴史
- ^ 一般社団法人 洗足会 トップページ
- ^ 一般社団法人 洗足会 活動報告
- ^ 渋沢秀雄は実際に田園調布に住み、この街の開発を推進していった。 - 「随筆 街づくり わが町」渋沢秀雄、沿線新聞社、1971年(昭和46年)
- ^ 先行販売した洗足地区の分譲地も同様であるのだが。
- ^ 経済効率を吹き飛ばした渋沢栄一の理想主義、高級住宅の秘密を語ろう - 「高級住宅街の真実 セオリー2008年Vol2」P76〜81、講談社、2008年3月25日
- ^ 富商・内藤為三郎ら大阪財界人の手によって、国有林の払い下げを受けて当初、197区画、数万坪にのぼる宅地開発を行った。
- ^ 当初は旧制大学や旧制高等学校を卒業し工場(企業)に勤めている中堅層を販売の対象にしていた。 - 「理想的住宅案内」田園都市案内パンフレット、田園都市株式会社、1922年(大正12年)、1923年(大正13年)
- ^ 国土交通省、土地・水資源局土地政策課、エリアマネジメント 第4回 社団法人 田園調布会
- ^ 東京急行電鉄株式会社, ed. (1943), 東京横浜電鉄沿革史, 東京急行電鉄
- ^ 日本一のブランド力を誇る「田園調布」 - 東京の高級住宅街、住むならどこがベスト
- 1 田園都市 (企業)とは
- 2 田園都市 (企業)の概要
- 3 実際の都市建設(洗足と多摩川台)
- 4 年表
- 5 参考文献
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