江藤隆美
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江藤 隆美 えとう たかみ | |
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生年月日 | 1925年4月10日 |
出生地 | 日本 宮崎県日向市 |
没年月日 | 2007年11月22日(82歳没) |
死没地 | ベトナム・ホーチミン市 |
出身校 | 旧制宮崎農林専門学校獣医畜産学科卒業(現在の宮崎大学農学部獣医学科) |
前職 | 宮崎県議会議員 |
所属政党 | 自由民主党 |
称号 |
正三位 勲一等旭日大綬章 |
親族 | 江藤拓(長男) |
第16代 総務庁長官 | |
内閣 | 村山改造内閣 |
在任期間 | 1995年8月8日 - 1995年11月13日 |
内閣 | 第1次海部内閣 |
在任期間 | 1989年8月10日 - 1990年2月28日 |
第49代 建設大臣 | |
内閣 | 第2次中曾根第2次改造内閣 |
在任期間 | 1985年12月28日 - 1986年7月22日 |
選挙区 |
(旧宮崎1区→) 宮崎2区 |
当選回数 | 10回 |
在任期間 |
1969年12月28日 - 1990年1月24日 1993年7月19日 - 2003年10月10日 |
当選回数 | 3回 |
その他の職歴 | |
第28代 自由民主党国会対策委員長 (総裁: 中曽根康弘) (1983年 - 1984年) | |
第30代 自由民主党国会対策委員長 (総裁: 中曽根康弘) (1984年 - 1985年) |
来歴
宮崎県日向市の小作農の家に生まれる[2]。世界恐慌の影響もあって家計は苦しく、小学5年生で出稼ぎに出され、1日55銭の肉体労働をした[2]。
旧制富高実業学校(現在の宮崎県立門川高等学校)を経て、1947年に旧制宮崎農林専門学校(現在の宮崎大学)を卒業[1][3]。
1955年、宮崎県議会議員選挙に出馬し当選[4]。3期務めた。
1969年の第32回衆議院議員総選挙に立候補し、初当選[1](当選同期に小沢一郎・羽田孜・梶山静六・奥田敬和・林義郎・渡部恒三・綿貫民輔・塩崎潤・森喜朗・村田敬次郎・松永光・中山正暉・浜田幸一など)。この選挙で初当選した衆議院議員は「四十四年組」と呼称された。1973年には中川一郎が主催する青嵐会の結成に、石原慎太郎らと共に参加した[1][5]。1983年、自民党国会対策委員長に就任した。いわゆる党人派の国会議員として注目されるようになる。
1985年12月、第2次中曽根内閣の建設大臣として初入閣[1]。
1989年6月、宇野宗佑内閣では自民党幹事長に昇格した橋本龍太郎の後任として、幹事長代理となる。しかし、迎えた1989年の第15回参議院議員通常選挙では土井たか子が委員長を務める社会党マドンナ旋風、宇野宗佑首相の女性問題、消費税、リクルート事件と逆風にさらされ、自民党は歴史的な大敗を喫す[6]。
続く第1次海部内閣で運輸大臣に就任[1][6]。1990年1月30日に、新東京国際空港(現在の成田国際空港)2期工事推進のため、建設予定地を視察する(成田空港問題、後述)。
1990年の第39回衆議院議員総選挙に前年のマドンナ旋風の煽りを受けて現職運輸大臣ながら落選したが[注釈 1]、1993年の第40回衆議院議員総選挙で当選し中央政界に復帰した[8]。
1995年8月、村山改造内閣で総務庁長官に就任するが[1]、同年11月、「植民地時代に日本は悪いこともしたが、良いこともした」というオフレコ発言を巡り批判を受け、長官を辞任した(後述)。
1998年の自民党総裁選挙では梶山静六を擁立[注釈 2][10]。同年11月3日、勲一等旭日大綬章受章[11]。
1999年3月、亀井静香らとともに、「日本国民の精神文化再構築」「慎みと品格ある日本人本来の国民性の復活」を標榜する志帥会を旗揚げする[12]。
2000年日本における口蹄疫では、党総合農政調査会最高顧問兼対策本部長として陣頭指揮を執った[13][14][15]。
小泉純一郎内閣が道路公団民営化を主張した際には道路族議員として強く反発。郵政民営化で猛烈に反発した亀井静香とともに、民営化路線を推進する小泉純一郎政権下において「抵抗勢力」と位置づけられ、江藤自身も著書で小泉や竹中平蔵のことを「欧米かぶれした白面の輩」とこき下ろしている[注釈 3][注釈 4][7][12][17]。
2003年の総選挙には出馬せず、引退した。通算で当選10回[1]。
2007年11月22日、訪問先のベトナム・ホーチミン市内のホテルで、就寝中に心臓発作で死去した。82歳没[18]。
政策
タカ派として知られ、若手の頃から武闘派で鳴らした。中曽根派では渡辺美智雄、宇野宗佑、藤波孝生、山崎拓らと共に幹部として発言力を持っていた。
派閥は中曽根派→渡辺派を経て、村上・亀井派に所属。村上正邦が自民党参議院議員会長に転出し派閥会長を退いたため、亀井が会長として名前挙がるも旧渡辺派から入ってきたメンバーに山中貞則、中山正暉のような頑固者の重鎮が多くとてもじゃないが手に負えないと思った江藤に会長を打診するも「お金がない」と一度断るも亀井がお金を出すことで江藤が1999年7月に第2代会長に就任(亀井は会長代行)[7]、同派は江藤・亀井派となる(2003年江藤引退後は亀井が会長)。引退後も志帥会(伊吹派)名誉会長として派閥会合に毎回出席していた。
注釈
- ^ 亀井静香は「江藤さんは閣僚ながらまさかの落選を喫する。成田の問題に熱心に取り組むあまり、地元にほとんど入ることができなかったからだ。自分の当選だけを考える議員が多いなか、自分の果たすべき仕事を優先する稀有な人だった。」と述べている[7]。江藤本人は、「今から思えば、調子に乗りすぎて失敗したのが敗因だったが、グチをいわせてもらえば、仲間の応援に駆り出されて、自分自身の選挙区にまったく戻れず、全国を飛び回っていたということだ」としている。また選挙期間中に妻は過労により意識不明となり、入院している[8]。
- ^ 梶山は総裁選に破れ小渕恵三が総理総裁となるが、江藤は小渕の総理大臣としての手腕については評価している[9]。
- ^ 亀井は「しかし、今となっては、どちらが国民の方を向いていたのかは明らかなのではないか。俺は常に下からの目線の政治を大切にしてきたが、江藤さんも百姓出身なだけに、常に下から目線の政治家だったのだ」としている[7]。
- ^ なお、「抵抗勢力」は2001年の流行語大賞にもノミネートされ、受賞者は「該当者なし」とされた[16]。
- ^ 亀井静香は「公団が仁義を切らずに力で押し切り、土地を強制収用したことに対して、江藤さんは元農民として、深い同情を寄せていたのだと思う」と回顧している[7]。
- ^ 実際には、「外国からそのような意見を受けることがあるが、我々はそれをするつもりがない」という趣旨の発言であった[25][31]。
- ^ 国際連盟の結成は1920年、国際連合の結成は1945年であり、1910年当時はいずれも存在していない。
出典
- ^ a b c d e f g h "江藤隆美". デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンクより2022年5月4日閲覧。
- ^ a b 江藤 2003, p. 164.
- ^ 江藤 2003, 著者略歴.
- ^ 江藤 2003, p. 167.
- ^ 江藤 2003, pp. 110–112.
- ^ a b 江藤 2003, pp. 119–123.
- ^ a b c d e f g h 週刊現代2019年3月2日号、連載亀井静香の政界交差点/第16回、江藤隆美-「下から目線」で筋を通した人格者、66-67頁
- ^ a b 江藤 2003, pp. 197–200.
- ^ 江藤 2003, pp. 149–152.
- ^ 江藤 2003, pp. 137–148.
- ^ “元旦号・1集・1部:勳一等旭日大綬章の江藤隆美氏大いに語る”. 日本食糧新聞電子版 (1999年1月1日). 2021年8月14日閲覧。
- ^ a b “月刊基礎知識 from 現代用語の基礎知識”. www.jiyu.co.jp. 自由国民社. 2019年12月11日閲覧。
- ^ “参議院会議録情報 第174回国会 本会議 第24号”. kokkai.ndl.go.jp. 国立国会図書館. 2019年12月11日閲覧。
- ^ “第174回国会 農林水産委員会 第13号(平成22年5月25日(火曜日))”. www.shugiin.go.jp. 2019年12月11日閲覧。
- ^ “第180回国会 農林水産委員会 第3号(平成24年3月21日(水曜日))”. www.shugiin.go.jp. 2019年12月11日閲覧。
- ^ “第18回 2001年 授賞語”. 「現代用語の基礎知識」選 ユーキャン 新語・流行語大賞. 自由国民社. 2022年3月13日閲覧。
- ^ 江藤 2003, p. 1.
- ^ “江藤隆美氏が死去/元建設相、元運輸相”. 四国新聞社 (2007年11月22日). 2021年8月14日閲覧。
- ^ “【単刀直言】森喜朗元首相「僕のときもそうだったけどマスコミの印象操作は相変わらずひどいな」「内閣改造は嫌いな人や縁遠い人ほど近くに置くことが大事なんだ」「加計学園の真相を一番知っているのは…」”. 産経ニュース (2017年7月27日). 2020年4月1日閲覧。
- ^ 江藤 2003, pp. 22–23.
- ^ 江藤 2003, p. 168.
- ^ 反対同盟 1990, pp. 77–88.
- ^ a b c d e 福田克彦 (2001-10-15). 三里塚アンドソイル. 平原社. pp. 349-353
- ^ 原口和久『成田空港365日』崙書房、2000年、204-205頁。
- ^ a b c d 朝日新聞成田支局『ドラム缶が鳴りやんで―元反対同盟事務局長石毛博道・成田を語る』四谷ラウンド、1998年、130-133頁。
- ^ a b c 伊藤睦 編『三里塚燃ゆ―北総台地の農民魂』平原社、2017年、100-102・254-255頁
- ^ a b c d e 江藤 2003, pp. 189–196.
- ^ 反対同盟 1990, p. 105.
- ^ “「今さら」すれ違う感情 成田の運輸相会談 解決への道険しく”. 讀賣新聞 夕刊: 14. (1990-01-30).
- ^ 反対同盟 1990, pp. 119–120.
- ^ a b 反対同盟 1990, pp. 145–146.
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- ^ 原口和久『成田空港365日』崙書房、2000年、41頁。
- ^ “元小川派代表の兄弟が成田空港内の土地売買契約を締結”. www.mlit.go.jp. 平成8年度運輸白書. 国土交通省. 2021年8月12日閲覧。
- ^ a b “成田問題で江藤氏慰労 元熱田派呼びかけ懇談会”. 讀賣新聞千葉版: 32. (2004-04-15).
- ^ 第134回国会 参議院本会議 第4号 平成7年10月5日(029 村山富市)(PDF) - 国会会議録検索システム、2021年8月12日閲覧。
- ^ a b 江藤 2003, pp. 50–55.
- ^ a b “「政府高官」としか書けない 「オフレコ懇談」とは何か”. J-CASTニュース (2009年3月9日). 2019年12月15日閲覧。
- ^ a b “南京虐殺30万人はうそ 江藤氏、講演で発言”. 共同通信社. 47NEWS. (2003年7月12日). オリジナルの2013年12月20日時点におけるアーカイブ。 2017年1月25日閲覧。
- ^ “「植民地期間に良いことも」発言の自民党議員、またも妄言” (日本語). 東亜日報日本語版. (2003年7月13日) 2017年1月25日閲覧。
- ^ a b c “江藤隆美衆議院議員の発言について(談話)”. 社民党OfficialWeb (2003年7月14日). 2020年7月8日閲覧。
- ^ “江藤氏発言「嘆かわしい」 韓国、一斉に反発”. 共同通信社. 47NEWS. (2003年7月13日). オリジナルの2013年12月20日時点におけるアーカイブ。 2017年1月25日閲覧。
- ^ “「動かぬ証拠」と反論 江藤氏発言に中国”. 共同通信社. 47NEWS. (2003年7月13日). オリジナルの2013年12月20日時点におけるアーカイブ。 2017年1月25日閲覧。
- ^ 「98年秋の叙勲 勲三等以上と在外邦人、及び外国人の受章者一覧」『読売新聞』1996年11月3日朝刊
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