江戸城
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概要
現在の江戸城の前身は、1457年に麹町台地の東端に扇谷上杉家の家臣太田道灌が築いた平山城である。1590年に徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城となり、江戸幕府が開幕すると、大規模な拡張工事が、特に慶長期のおよそ10年の間に集中的に行われ、またその後も2度ほど拡張工事が行われ、総構周囲約4里[4] と、日本最大の面積の城郭になった[5]。およそ260年にわたり、幕府の政庁、15代におよぶ徳川将軍およびその家臣団が政務を行う場所となった。将軍は江戸城内に住み、将軍の家族女性らが住む大奥も設けられた。将軍の補佐役の老中やその下の若年寄などは月番制つまり月替わり制でそれぞれ数名が担当し、江戸城周辺の屋敷から日々登城(出勤)した[6]。
江戸城に出勤する役方と呼ばれる人々は老中や若年寄以外にも目付、奉行、小姓等々もいた。また江戸城には番方と呼ばれる警護・警備の仕事をする人々も必要で、一日を3分割して3交代制で勤務した。それらを合算すると日中の江戸城には五千人ほどの男性が常駐していたと推算され、さらに大奥には約一千名ほどの婦女子がいたと推算されるので、時間帯により人の出入りや増減はあるにせよ日中は六千名ほどが江戸城内にいたと推算される[要出典]。
1868年(慶応4年) 3月、戊辰戦争で優勢となった新政府の東征軍が迫る中、幕臣・勝海舟と東征軍参謀・西郷隆盛の会談により江戸城への総攻撃が中止された[7]。江戸開城により徳川家は江戸城から退出し、代わりに東征軍大総督有栖川宮熾仁親王が入城した[2]。そして、京都から明治天皇が行幸した折の居所「皇居」となり、短期間だが東京城と改名され[8]、その後は皇居、宮城(きゅうじょう)として使われている(東京奠都)。現在は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある江戸城の中心部であった天守閣・本丸・二ノ丸・三ノ丸の跡一帯は、宮内庁の管轄下にあり、書陵部・楽部の庁舎などがあるが、皇居東御苑として、宮中行事に支障のない限り一般にも公開されている[9][10]。平成以降、皇位継承に伴う重要儀式「大嘗祭」の会場である「大嘗宮」は、本丸の跡地に設営されている[11][12]。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は、環境省所管の国民公園として開放されている[13]。
注釈
- ^ 今の梅林坂に当たる。社は江戸時代に城外の平河門外、次いで麹町に移されて平河天満宮となった。道真崇拝や梅との関わりについては「天満宮」「菅原道真#飛梅伝説」を参照。
- ^ このため旧暦の8月1日(八朔)は、江戸時代を通じて祝われることになる。なお、家康の家臣である松平家忠の日記(『家忠日記』)によれば、実際の入城日は7月18日であったという[17]。
- ^ 従来、徳川家康入部前の江戸が寂れていて寒村のようであったとされてきたが、実際には荒川や入間川などの関東平野一帯の河川物流と東京湾の湾内物流の結節点としてある程度は栄えていたとされる。また、なんらかの戦略的・経済的な価値がなければ、徳川氏もそこを本拠に選ばなかったはずである。また、柴裕之は小田原攻め中に秀吉が江戸城に自らの御座所を設ける構想を示したとする文書(『富岡文書』)の存在を指摘し、秀吉が関東・奥羽統治の拠点として江戸城を高く評価していたとする指摘をしている[18]。また、鎌倉に関する研究において、福島金治は『吾妻鏡』において源頼朝が鎌倉に入った当時の鎌倉の姿の描写(治承4年10月12日条)が徳川家康が江戸に入った時当時の江戸の姿に引用されている可能性を指摘している[19]。
- ^ この石船を運ぶ際、暴風雨によって数百隻の船が沈んだとされる。
- ^ 『秘閣図書の内 炎上の節焼失並従来欠本の目録』が作成された。
- ^ 改易されるまでは里見氏の屋敷も残っていた。
- ^ なお宮上案に従えば、三代の天守は壁面・瓦の材質・破風の配置などを除けば、基本的に同じ規模・構造をしていた。
- ^ 多大な支出ばかりが嵩んでいた幕府財政の「近年中のさらなる悪化・破綻が予想された」ためとの説がある。
- ^ その名残として、天守曲輪に当たる御休息(数寄屋、富士見)多聞櫓の北側から石室(西側二重櫓跡)までの本丸の石垣は現在も他より一段高くなっている。
- ^ 7重・9重には「何段にも重なる」という意味もあるので、5重の可能性が高い。
- ^ ただし金澤案は『愚子見記』の、三浦案は『愚子見記』『当代記』双方の記述内容に矛盾する。
- ^ 後に二ノ丸東照宮として移転。また、『津軽家古図』には最上階上々段に東照宮があったと記載されている。
- ^ 櫓の数や規模は時期により異なるので、これは一例である。
- ^ 御殿の門なども含んだ数。主要な門57棟の内、櫓門は45棟。更に枡形を構成しているのはおよそ39棟。
- ^ 現在の同心番所は門の中に移転している。
出典
- ^ 竹内 2003, p. 71 。※異説あり。
- ^ a b c d e f 第2版,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),日本の城がわかる事典,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,旺文社日本史事典 三訂版,精選版 日本国語大辞典,事典・日本の観光資源,世界大百科事典. “江戸城とは”. コトバンク. 2022年12月12日閲覧。
- ^ a b "江戸城". デジタル大辞泉. コトバンクより2022年12月12日閲覧。
- ^ 伴 1974 [要ページ番号]
- ^ 小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』、講談社『日本の城がわかる事典』. “江戸城”. コトバンク. 2019年10月12日閲覧。
- ^ “江戸のお侍さんの勤務形態”. 羽田会の部屋. 2022年12月12日閲覧。
- ^ 第2版, 日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,旺文社日本史事典 三訂版,デジタル大辞泉プラス,世界大百科事典. “江戸開城とは”. コトバンク. 2022年12月12日閲覧。
- ^ “変貌 - 5.江戸城を皇居と定め東京城と改称:”. 国立公文書館. 2022年12月12日閲覧。
- ^ “皇居”. 宮内庁. 2023年11月16日閲覧。
- ^ “皇居東御苑”. 宮内庁. 2023年11月15日閲覧。
- ^ “大嘗祭について”. 宮内庁. 2023年11月15日閲覧。
- ^ “大嘗宮一般参観について”. 宮内庁. 2023年11月15日閲覧。
- ^ “国民公園等の概要”. 環境省. 2023年11月15日閲覧。
- ^ “特別史跡江戸城跡”. 環境省. 2024年3月14日閲覧。
- ^ 山田 2003, p. 35-40
- ^ 山田 2014 [要ページ番号]
- ^ 柴 2017, p. 191.
- ^ 柴 2017, p. 193.
- ^ 福島金治「鶴岡八幡宮の成立と鎌倉生源寺・江ノ島」地方史研究協議会編『都市・近郊の信仰と遊山・観光 交流と引用』(雄山閣、1999年)ISBN 4-639-01640-9 pp.24-28・36.
- ^ 杉山宏生「西相模・東伊豆の安山岩石丁場」『江戸築城と伊豆石』吉川弘文館、2015年5月1日、33頁。
- ^ [没後200年 伊能忠敬を歩く](47)描かれた江戸城:地方と接続 九つの御門『毎日新聞』朝刊2023年2月13日(文化面)同日閲覧
- ^ 日本の城がわかる事典『江戸城』 - コトバンク
- ^ 明治以降の東照宮と家康 - 国立公文書館、2024年5月23日閲覧。
- ^ お昼のドンに代わって登場『東京日日新聞』昭和4年5月1日(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p152 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 正院 1873年。
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- ^ “ご存じですか?江戸城天守台(石垣)のこと”. 一般財団法人 江戸東京歴史文化ルネッサンス. 2024年1月7日閲覧。
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- ^ 中江 2010, p. 159.
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- ^ a b 学研 1995 [出典無効]
- ^ “これが日本史上最大の「江戸城天守」 30分の1復元模型、29日から公開”. 毎日新聞 (2020年9月28日). 2022年12月12日閲覧。
- ^ 「皇居東御苑 江戸城天守復元模型」宮内庁(2020年10月確認)
- ^ 盛況・好評裡に終了!「江戸城寛永度天守『復元図』完成報告会」 江戸城再建を目指す会 2010年6月17日。[リンク切れ]
- ^ “江戸城御本丸御天守1/100建地割”. 公式ウェブサイト. 東京都立図書館. 2019年10月12日閲覧。
- ^ a b c “江戸東京歴史文化ルネッサンスビジョン5カ年基本計画(案)”. 一般財団法人 江戸東京歴史文化ルネッサンス. 2024年1月7日閲覧。
- ^ a b “市民団体の創立から、これまでに至る主な活動の歩み”. 一般財団法人 江戸東京歴史文化ルネッサンス. 2024年1月7日閲覧。
- ^ a b “これまでの歩み”. NPO法人 江戸城天守を再建する会. 2024年1月7日閲覧。
- ^ 『読売新聞』2017年2月9日1面
- ^ 「徳川家康が築城の江戸城 当時の構造描いた絵図 発見」[リンク切れ]NHK NEWS WEB
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