江戸城 建築物

江戸城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/16 03:25 UTC 版)

建築物

江戸城配置図(内郭)
江戸城配置図(外郭)

天守

太田道灌築城以降の象徴的建物は、静勝軒という寄棟造の多重の御殿建築(3重とも)で、江戸時代に佐倉城へ銅櫓として移築されたが、明治維新後に解体された。佐倉城の銅櫓は二重櫓で2重目屋根が方形造錣屋根のようになっていた。

徳川家康の改築以降、本丸の天守慶長度1607年)・元和度1623年)・寛永度1638年)と3度築かれている。どの天守も鯱や破風の飾り板を金の延板で飾っていた[注 7]

明暦3年(1657年)の明暦の大火によって寛永度天守が焼失した後、直ちに再建が計画され、現在も残る御影石の天守台が加賀藩主の前田綱紀によって築かれた(高さは6間に縮小)。計画図も作成されたが、幕閣の重鎮であった保科正之の「天守は織田信長岐阜城に築いたのが始まりであって、城の守りには必要ではない」という意見により、江戸市街の復興を優先する方針となって中止された[注 8]。のちに新井白石らによって再建が計画され、図面や模型の作成も行われたが、これも実現しなかった。以後は、本丸の富士見櫓を実質の天守としていた。 これ以降、諸藩では再建も含め天守の建造を控えるようになり、事実上の天守であっても「御三階櫓」と称するなど遠慮の姿勢を示すようになる。

1882年(明治15年)になると、天守には内務省地理局により天体観測・緯度経度観測のための天測塔と気象観測の風力塔を兼ねた3.63636メートル(2間)四方、高さ30メートルのれんが造り5階建ての建物が置かれた。1889年(明治21年)になると、測量事務が大日本帝国陸軍参謀本部に、天体観測は東京天文台に移管されたため、当該建物は以後中央気象台の風力測定のための施設となった[26]。風力測定台、風力測定所、測風塔、風力塔と呼ばれた当該建物は、中央気象台が1920年(大正9年)に旧本丸跡庁舎から麹町元衛町庁舎に移転し、当該地に新たな風力測定施設が建てられた後も1923年(大正12年)又は1926年(大正15年)頃まで残されていた[27]

慶長度天守
天守台は白い御影石が用いられ(『慶長見聞集』)、1606年(慶長11年)にまず自然石6間、切石2間の高さ8間の天守台が黒田長政によって築かれた。翌慶長12年に、自然石と切石の間に自然石2間が追加され高さ10間、20間四方となる(『当代記』)。位置は現在の本丸中央西寄にあり、天守台とその北面に接する小天守台、本丸西面の石垣と西側二重櫓をつなぐようにして天守曲輪があった(『慶長江戸絵図』)[注 9]。ただし当時の本丸は現在の南側3分の2程度であったため、当時の地勢では北西にあることになる。
天守は同年中に竣工し、1階平面の規模は柱間(7尺間)18間×16間、最上階は7間5尺×5間5尺、棟高22間半(『愚子見記』)、5重で鉛瓦葺(『慶長見聞集』)もしくは7重(『毛利三代実録考証』)、9重(『日本西教史』)ともある[注 10]
慶長度天守の復元案は『中井家指図』を基にした宮上茂隆の考証によると、天守台は駿府城淀城と同じく20間四方、高さ8間の自然石による広い石垣の上に、それより一回り小さい天守地階部となる高さ2間の切石による石垣が載っている2重構造で、5重5階(地階1階を含めると6階)の層塔型としている。駿府城などとは異なり、自然石と切石の間が狭いので多聞櫓などで囲われてはおらず、天守台の周りには塀だけがあったと思われる。廻縁・高欄はなく、また最上階入側縁のみが6尺幅となっている。白漆喰壁の鉛瓦で棟高は48メートル、天守台も含めれば国会議事堂中央塔(高さ65.45メートル)に匹敵した。作事大工は中井正清としている。
一方、内藤昌は『中井家指図』は元和度天守のものとしており、慶長度天守は5重7階、腰羽目黒漆、廻縁・高欄の後期望楼型であったとしている。作事大工は三河譜代の大工木原吉次、中井正清も協力したとする。
城郭研究者・西ヶ谷恭弘は、天守台の構造は宮上説と同じであるが、天守は後期望楼型とする大竹正芳の図を宮上説とは別に紹介している。また、三浦正幸門下の金澤雄記は20間四方は天守台の基底部として、自然石と切石が一体の天守台とそこから直接建つ名古屋城天守を基にした後期望楼型の天守を考証している。その後、三浦正幸は『津軽家古図』を慶長度としている[注 11]
内藤案以外は石垣・壁・屋根に到るまで白ずくめの天守であり、『慶長見聞集』『岩渕夜話別集』でも富士山や雪山になぞらえている。この天守は秀忠によって解体され新たに造り直されている。造り直しの動機は御殿の拡張が必要となった結果で、宮上茂隆はこの初代天守は縮小した上で大坂城に移築されたとしている。
元和度天守
元和度天守は、1622年(元和8年)から翌年にかけて天守台普請とその上屋(天守)の作事が行われた。位置は本丸東北の梅林坂にあった徳川忠長屋敷を破却し、その跡地に建てた(『御当家紀年録』)、もしくは寛永度天守と同じ位置とされる。加藤忠広浅野長晟の手による天守台の規模は慶長度の3分の1、寛永度天守と同様に南側に小天守台があり(『自得公済美録』)、高さも7間に縮小されている。天守内部には東照宮があったとされている[注 12]
天守の構造は、5重5階(地階1階を含めると6階)の層塔型とされ、天守台を含めた高さは約30間(約55メートル)とされる。外観や諸構造については、諸説ある。
宮上茂隆案
宮上案では、旧津軽家の『江戸御殿守絵図(津軽家古図)』を比定し、屋根は銅瓦葺、壁は白漆喰としている。寛永度天守との違いは各破風の下に張り出しが設けられているのが特徴で、これは作事に当たった譜代の鈴木長次、木原家の下にいる三河大工に見られる意匠としている。
内藤昌案
内藤案は、前述の通り『中井家指図』を比定し、一部の破風が異なる以外は寛永度天守とほぼ変わらない。三浦案も白漆喰壁で銅瓦葺でない以外は内藤案と同様の見解を採っている。
西ヶ谷恭弘案
西ヶ谷案は『武州豊島郡江戸庄図』より初重を2階建であったとしている。また、黒色壁でもあったとしている。
元和度天守も秀忠の死後に家光によって解体され造り直されている。この動機も秀忠・家光の親子関係に起因するともいわれるが詳らかではなく、ほかに仙台城への下賜説、高層建築による漆喰の早期剥離に対する是正工事といった説がある。
寛永度天守
寛永度天守は1636年(寛永13年)から翌年にかけて天守台・天守双方が完成している。黒田忠之浅野光晟が築いた天守台の位置は本丸北西の北桔橋門南、規模は元和度を踏襲している。また、元和度と縦横の位置を変えたとある(『黒田家続家譜』)。材質は伊豆石。小天守台が設けられているが、小天守は建てられていない。これは階段の踊り場のような意味で造られたからである。基本的な構造は現在の天守台とほぼ同じであるが、大坂城と同じように東側の登り口以外に西側にも橋台と接続する形で出入口が設けられていた。
構造は5重5階(地階を含めれば6階)の独立式層塔型で壁面は黒色になるよう塗料もしくは表面加工が施された銅板を張り、屋根は銅瓦葺である。高さは元和度と同じ本丸地上から天守台を含む30間、下総からも眺望ができたという。作事大工は甲良宗広
1657年(明暦3年)に明暦の大火が発生した際、閉じられているべき二重目の銅窓が過失で開かれていたがために、城下町からの飛び火が天守を全焼させてしまった。焼失後、寛永度と同様の天守を再建する計画があって、それが簡単に立ち消えるものでもなかったことから、提出された数多くの資料は大切に保管され続ける運びとなった。これが幸いし、確定的な図面が現代まで遺されることとなった。このような事情により、正確な姿が判明している。
  • 規模…「 」内は柱間(7尺間)、桁行・梁間は京間
    • 地階…「12間×10間」
    • 一重目…「18間×16間」 桁行29間2尺9寸×梁間27間1尺9寸、柱数191本
    • 二重目…「15間×13間」 桁行16間1尺×梁間24間、柱数155本(内、一重目より三重目まで通し柱13本)
    • 三重目…「12間×10間」 桁行13間2尺5寸×梁間11間1尺5寸、柱数127本(内、三重目より四重目まで通し柱32本)
    • 四重目…「10間×8間」 桁行10間5尺×梁間8間4尺、柱数75本(内、四重目より五重目まで通し柱9本)
    • 五重目…「8間×6間」 桁行8間4尺×梁間6間3尺、柱数55本

図面による復元での計算によると天守の高さは58.63メートルとなった[28]

御殿

本丸・二ノ丸御殿模型(江戸東京博物館、一部の建物は省略)。幕末期の御殿を復元しており、実存していない天守も模型では再現されている。
1)玄関・遠侍、2)大広間、3)松之廊下、4)白書院、5)竹之廊下、6)黒書院、7)御座之間、8)御休息、9)御小座敷、10)中之口御門(表諸職玄関)、11)台所、12)上御鈴廊下、13)下御鈴廊下、14)御小座敷(大奥)、15)対面所、16)御座之間(大奥)、17)新御殿、18)御新座敷・御客座敷、19)台所(大奥)、20)長局、21)広敷御門、22)二ノ丸御殿

御殿は本丸・二ノ丸・西ノ丸・三ノ丸御殿がある。この内、三ノ丸御殿は元文年間に廃絶された。本丸御殿は将軍居住・政務・儀礼の場として江戸城の中心的な役割を持ち、二ノ丸御殿は将軍別邸や隠居した将軍の側室が晩年に過ごす場所として、西ノ丸御殿は隠居した将軍や世継の御殿として用いた。

本丸御殿

本丸御殿は表・中奥・大奥が南から北にこの順で存在する。表は将軍謁見や諸役人の執務場、中奥は将軍の生活空間であるが、政務もここで行った。大奥は将軍の夫人や女中が生活する空間である。大奥は表や中奥とは銅塀で遮られ、一本(後に二本)の廊下でのみ行き来ができた。

将軍の御殿としての最初の本丸御殿は1606年(慶長11年)に完成、その後1622年(元和8年)、1637年(寛永14年)(同16年焼失)、同17年(明暦の大火で焼失)、1659年(万治2年)(1844年(天保15年)焼失[29])、1845年(弘化2年)(1859年(安政6年)焼失)、1860年(万延元年)(1863年(文久3年)焼失)と再建・焼失を繰り返した。文久の焼失以降は本丸御殿は再建されずに、機能を西ノ丸御殿に移した。

表・中奥
主要な御殿として西側に大広間・白書院・黒書院・御座之間・御休息が雁行しながら南から北に配置された。表東側には表向の諸職の詰所や控室、中奥東側には側衆配下の詰所・控室や台所などがある。大老老中若年寄の執務・議事場は当初は黒書院、家光晩年からは御座之間にあったが、堀田正俊刺殺事件により表と中奥の間に御用部屋が設けられた。彼らと将軍の仲介者である側用人又は御側御用取次は中奥の中央に詰所があった。
表は儀礼空間であり御殿の改変は少ないが、中奥は各将軍の好みに応じて頻繁に改造された。表と中奥は大奥と異なり構造的には断絶していないが、時計之間と黒書院奥の御錠口でのみ出入ができた。しかし表の役人は中奥には御座之間への将軍お目見え以外は立ち入ることは出来ず、奥向の役人とは時計之間で会話を交わした。
大広間
本丸御殿中で最高の格式と最大の規模を有する御殿。東西方向50メートル、約500畳に及ぶ広大な建物。寛永17年の大広間には大屋根があったが、焼失後の再建では中央に中庭が設けられ、屋根を低くした。
大広間は将軍宣下武家諸法度発布、年始等の最も重要な公式行事に用いられ、主な部屋は上段・中段・下段・二之間・三之間・四之間があり、西北から反時計回りで配置された。南東の南には中門が、東には御駕籠台があり大広間の権威を象徴する。また南面の向かい側には表能舞台があり、大きな祝い事がある際の能の催しでは、その内の一日を町入能として町人が南庭で能を見ることを許した[30]
白書院
大広間に次ぐ格式を有する御殿。大広間と松之廊下で繋がり、上段・下段・帝鑑之間・連歌之間を主な部屋として約300畳の広さを持つ。表における将軍の応接所として公式行事に用いられ、御暇・家督・隠居・婚姻の許可への御礼時に諸大名はここで将軍と面会した。他に年始の内、越前松平家加賀前田家とはここで対面をし、また勅使・院使」を迎える際には下段を宴席の間とした。
黒書院
白書院と竹之廊下で繋がり、主な部屋として上段・下段・西湖之間・囲炉裏之間があり約190畳の広さを持つ。他の御殿が造に対し、総赤松造である。初期は将軍の政務場所、その後は将軍の日常生活における応接所として用いた。
御座之間・御休息
これらは将軍の居住空間として前者は上段・下段・二之間・三之間・大溜で構成される中奥の応接所で政務を執る場、後者は上段・下段のみで寝室や居間として用いた。中奥は表向の役人は原則として出入りを禁じられたが、将軍と御目見する時のみ御座之間に入ることができた。当初、将軍は御座之間にいたが寝室として御休息、更にプライベートな空間として御小座敷等が造られた。
御休息は将軍の代替わり毎に建て替えが行われ、御小座敷の周辺も改造が多い。例えばを好んだ徳川綱吉の時分には御休息の右に能舞台があり、また当時頻発した地震対策として「地震之間」なる避難場所が中庭の二ヶ所に設置された。逆に徳川吉宗は華美な御休息を壊し、一時期は廊下の一部を区画してそこで寝起きをした。
大奥

二ノ丸御殿

1636年(寛永13年)に最初に建てられた御殿は小堀政一(小堀遠州)の手によるもので、表向の機能が省略された極めて遊興性の高いものであった。南西にある築山を背後に有し白鳥濠と繋がる池の中には能舞台(水舞台)があり、対岸の畔にある御座や濠に突き出た釣殿から観覧することができた。中央は御殿群があり、東側にも池や築山、池の中島にある御亭や御茶屋、御囲、学問所や御文庫があった。

しかしこの御殿は5年後には早くも取り壊され、1643年(寛永20年)には本丸御殿を簡略化した御殿が完成する。この御殿も明暦の大火で焼失し、越谷別殿を移築している。この後も1704年宝永元年)、1760年宝暦10年)に工事や再建が行なわれたが、1867年(慶応3年)に焼失してその歴史を終えることになる。

西ノ丸御殿

本丸御殿と同じく、表・中奥・大奥と仕切られていた。主な部屋を挙げれば、遠侍、殿上間、虎間、大広間、大廊下、溜間、白木書院、帝鑑の間、連歌の間、山吹間、菊間、雁間、竹間、芙蓉間、中間、桔梗間、焼火間、躑躅間、柳間、梅竹間、檜間、蘇鉄間などがある。

御殿や櫓などは1634年(寛永11年)、1852年嘉永5年)、1863年文久3年)の三度にわたって焼失した。1868年(明治元年)4月、朝廷に明け渡された当時の殿舎は、それまで踏襲してきた慶安度御殿の仕様を大幅に簡略した仮御殿であり、4度目の建築であった。

明治天皇が入城した後は天皇の住まい「皇城」となり、1869年にはオーストリア・ハンガリー帝国使節団を迎え、天皇との謁見の場としても利用された。当時の使節団は、皇城の詳細な見取り図を作成して本国へ伝えている。皇城は、1873年(明治6年)5月5日に焼失した[31]。守備は西丸小姓組が行った。その後、1888年(明治21年)明治宮殿が建設された。

三重櫓6棟、二重櫓10棟、平櫓4棟、多門櫓26棟[注 13]

江戸城は幾度にもわたる火災によって焼失し、現存する伏見櫓、富士見櫓、巽櫓なども大正期の関東大震災の際に損壊した後、解体して復元されたものであるため、櫓の構造などを考察するにあたっては、明治初頭に撮影された写真や絵図、指図、文献などが用いられている。

幕末まで現存していた二之丸の蓮池巽三重櫓、蓮池二重櫓の二棟は明治初年に接続する箪笥多聞櫓の火災が延焼し焼失した。

江戸城の櫓は櫓門も含め、白漆喰塗籠壁(寛永度天守除く)に、幕紋の足利二つ引を現す2本の長押形を施し、破風・妻壁には銅板青海波模様に張っていた。初重に出張を設けて石落としとしているものが多い。これらの特徴の一部は、幕府が関与した二条城小田原城などの城郭にも施された。

初重平面6間×7間か7間×8間を標準的な規模として、大坂城名古屋城にも同様に用いた。1871年(明治4年)に記された『観古図説』には、二重櫓の初重平面規模は最小で4間四方(書院出二重櫓)、最大で8間×9間(乾二重櫓)、三重櫓は6間×7間から8間×7間のものが記されている[32]

多聞櫓は嘗ては本丸・二ノ丸の殆どを囲っていたが、時代を経るごとに本丸西側では塀へと置き換わっていった。

隅櫓の一覧

太線は幕末まで現存した櫓(この内、現存するのは富士見三重櫓、巽二重櫓、伏見二重櫓)、斜線1863年(文久3年)に焼失した櫓、またここに記載されている櫓が一時期に全て存在した事はない。

本丸(南端より反時計回り、以下同じ)
富士見三重櫓御書院二重櫓書院出二重櫓、遠侍東三重櫓、台所前三重櫓汐見二重櫓、不明櫓(元和度工事前)、汐見太鼓櫓(二重櫓)、梅林櫓(二重櫓)、五十三間櫓(二重櫓)、乾二重櫓、菱櫓(三重櫓)、西側二重櫓、数寄屋二重櫓(嘗ては三重櫓)
二ノ丸
蓮池二重櫓蓮池巽三重櫓寺沢二重櫓(嘗ては三重櫓)、百人組二重櫓巽奥三重櫓(松倉櫓)、東三重櫓(嘗ては二重櫓)、北櫓(二重櫓)、不明櫓二棟(二ノ丸拡張前)
三ノ丸
巽二重櫓、不明櫓四棟
西ノ丸
伏見二重櫓、御太鼓櫓
西ノ丸下
日比谷櫓、和田倉櫓

外郭25棟、内郭11棟、城内87棟[注 14]

虎口は、一の門である高麗門と二の門の櫓門で構成される。大坂城や名古屋城の様な枡形の三方を櫓門・多聞櫓で囲んだ型式は江戸城には少なく、完全なのが下乗門、不完全なものが北桔橋門にあるだけである。

櫓門は桁行は15間から20間、梁間が4間から5間ほどのものが建てられ、最大では、桁行25間(赤坂門・芝口見附新橋門)のものもあったが、享保9年(1724年)以降は24間×5間(下乗門)のものが最大となった。ちなみに、最小規模は4間×2間(山下門)である[32]

  • 大手門
    • 三ノ丸大手門は、三ノ丸中央部の枡形虎口に桁行22間×梁間4間2尺の櫓門と高麗門で構成され、大手前を繋いだ。三ノ丸が屋敷地であった頃は下乗門が大手門であり、現在の大手橋は大橋と呼ばれていた。江戸時代、勅使の参向、将軍の出入り、諸侯の登城など、この門から行うのが正式であった。また、ここの警備は厳重を極め、10万石以上の譜代諸侯がその守衛に勤仕し、番侍10人(うち番頭1人、物頭1人)が常に肩衣を着て、他の平士8人は羽織で控え、鉄砲20挺、10張、長柄()20筋、持筒2挺、持弓2組を備えて警戒にあたった。
    • 西ノ丸大手門は、手前の橋場に建てられた高麗門とその後方の桁行18間×梁間4間の櫓門で構成されていた。現在の皇居正門で、高麗門は現存しない。

門の一覧

本丸
中雀門(書院門、玄関前門)、上埋門、下埋門、中之門、新門、汐見坂門、上梅林門、北桔橋門、西桔橋門、柚木門
二ノ丸
下乗門、銅門、下梅林門、二ノ丸喰違門、蓮池門、寺沢門
三ノ丸
大手門、桔梗門、平河門、不浄門(帯郭門)、三ノ丸喰違門
西ノ丸
坂下門、西丸大手門、西丸中仕切門、西丸書院前門(西丸玄関前門、二重橋)、西丸裏門、大田門、山里門、吹上門、紅葉山下門
内曲輪
竹橋門、和田倉門、馬場先門、日比谷門、桜田門半蔵門田安門清水門雉子橋門一ツ橋門、神田橋門、常盤橋門呉服橋門、鍛冶橋門、数寄屋橋門
外曲輪
山下門、芝口見附、幸橋門、虎ノ門赤坂門喰違見附四谷門、市ヶ谷門、牛込門、小石川門、筋違橋門浅草橋門浜大手門

番所

江戸城には警備要員の詰所として多くの番所があったが、現在残るのは下の三棟のみである。大番所は中之門の奥に、百人番所と同心番所は下乗門の奥と外にあり、それぞれの門を守っていた[注 15]


注釈

  1. ^ 今の梅林坂に当たる。社は江戸時代に城外の平河門外、次いで麹町に移されて平河天満宮となった。道真崇拝や梅との関わりについては「天満宮」「菅原道真#飛梅伝説」を参照。
  2. ^ このため旧暦の8月1日(八朔)は、江戸時代を通じて祝われることになる。なお、家康の家臣である松平家忠の日記(『家忠日記』)によれば、実際の入城日は7月18日であったという[18]
  3. ^ 従来、徳川家康入部前の江戸が寂れていて寒村のようであったとされてきたが、実際には荒川や入間川などの関東平野一帯の河川物流と東京湾の湾内物流の結節点としてある程度は栄えていたとされる。また、なんらかの戦略的・経済的な価値がなければ、徳川氏もそこを本拠に選ばなかったはずである。また、柴裕之は小田原攻め中に秀吉が江戸城に自らの御座所を設ける構想を示したとする文書(『富岡文書』)の存在を指摘し、秀吉が関東・奥羽統治の拠点として江戸城を高く評価していたとする指摘をしている[19]。また、鎌倉に関する研究において、福島金治は『吾妻鏡』において源頼朝が鎌倉に入った当時の鎌倉の姿の描写(治承4年10月12日条)が徳川家康が江戸に入った時当時の江戸の姿に引用されている可能性を指摘している[20]
  4. ^ この石船を運ぶ際、暴風雨によって数百隻の船が沈んだとされる。
  5. ^ 秘閣図書の内 炎上の節焼失並従来欠本の目録』が作成された。
  6. ^ 改易されるまでは里見氏の屋敷も残っていた。
  7. ^ なお宮上案に従えば、三代の天守は壁面・瓦の材質・破風の配置などを除けば、基本的に同じ規模・構造をしていた。
  8. ^ 多大な支出ばかりが嵩んでいた幕府財政の「近年中のさらなる悪化・破綻が予想された」ためとの説がある。
  9. ^ その名残として、天守曲輪に当たる御休息(数寄屋、富士見)多聞櫓の北側から石室(西側二重櫓跡)までの本丸の石垣は現在も他より一段高くなっている。
  10. ^ 7重・9重には「何段にも重なる」という意味もあるので、5重の可能性が高い。
  11. ^ ただし金澤案は『愚子見記』の、三浦案は『愚子見記』『当代記』双方の記述内容に矛盾する。
  12. ^ 後に二ノ丸東照宮として移転。また、『津軽家古図』には最上階上々段に東照宮があったと記載されている。
  13. ^ 櫓の数や規模は時期により異なるので、これは一例である。
  14. ^ 御殿の門なども含んだ数。主要な門57棟の内、櫓門は45棟。更に枡形を構成しているのはおよそ39棟。
  15. ^ 現在の同心番所は門の中に移転している。

出典

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  33. ^ これが日本史上最大の「江戸城天守」 30分の1復元模型、29日から公開”. 毎日新聞 (2020年9月28日). 2022年12月12日閲覧。
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  36. ^ 江戸城御本丸御天守1/100建地割”. 公式ウェブサイト. 東京都立図書館. 2019年10月12日閲覧。
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  38. ^ 徳川家康が築城の江戸城 当時の構造描いた絵図 発見[リンク切れ]NHK NEWS WEB






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