江戸城 歴史

江戸城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/16 03:25 UTC 版)

歴史

築城まで

江戸(現在の東京都区部の一部)の地に最初に根拠地を置いた武家江戸重継である。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての江戸氏の居館が、後の本丸・二ノ丸辺りの台地上に置かれていたとされる。

ただし、歴史学者の山田邦明は、江戸城のあった地域は古代には荏原郡桜田郷の一部で、豊島郡江戸郷とは別の地域であったため、江戸に根拠を置いていた江戸氏の居館が今の江戸城に存在することはあり得ないとして、江戸氏の居館は当時の江戸の中心であった平川(日本橋川の前身)の流域にあったとする。山田は館の所在地を現在の水道橋付近に推定する。なお、桜田郷に関しては室町時代前期の応永30年(1423年)に江戸氏一族である江戸大炊助重継が「武州豊嶋郡桜田郷」の土地売却を巡って訴訟を起こしていることから、鎌倉時代以降の江戸氏の発展によって江戸郷に隣接する桜田郷も江戸氏の支配下に置かれ、その後桜田郷が豊島郡の一部として認識され、更に江戸郷を中心とした「江戸」の一部になったと推測されている[16][17]

築城

15世紀関東の騒乱で江戸氏が没落したのち、扇谷上杉家の上杉持朝の家臣である太田道灌が、享徳の乱に際して康正3年(1457年)に江戸城を築城した。江戸幕府の公文書である『徳川実紀』ではこれが江戸城のはじめとされる。

道灌当時の江戸城については、正宗龍統の『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』や万里集九の『梅花無尽蔵』によってある程度までは推測できる。それによれば、「子城」「中城」「外城」の三重構造となっており、周囲を切岸や水堀が巡らせて門や橋で結んでいたとされる(「子城」は本丸の漢語表現とされる)。『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』によれば道灌は本丸に静勝軒と呼ばれる居宅を設け、背後に閣を築いたという。『梅花無尽蔵』は江戸城の北側に菅原道真が祀られて林があったことが記されている[注 1]

太田道灌時代の面影を残すとされる下道灌濠

道灌が上杉定正に殺害された後、江戸城は上杉氏の所有するところ(江戸城の乱)となり、上杉朝良隠居城として用いた。ついで大永4年(1524年)、扇谷上杉氏を破った後北条氏北条氏綱の支配下に入る。江戸城の南には品川湊があり、更にその南には六浦金沢)を経て鎌倉に至る水陸交通路があったとされていることから、関東内陸部から古利根川元荒川隅田川(当時は入間川の下流)を経て品川や鎌倉へ、水運では後世で言う江戸湾東京湾)から太平洋外洋に向かうための交通路の掌握のために重要な役割を果たしたと考えられている。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻め(小田原征伐)の際に開城。秀吉によって後北条氏旧領の関八州を与えられた徳川家康が、同年8月朔日(1590年8月30日)、駿府(現在の静岡市)から江戸に入った[注 2]。一般に言われる話では、そこには、道灌による築城から時を経て荒れ果てた江戸城があり、茅葺の家が100軒ばかり大手門の北寄りにあった、とされる。城の東には低地があり街区の町割をしたならば10足らず、しかも海水が入り込む茅原であった。西南の台地はススキ等の野原がどこまでも続き武蔵野に連なった。城の南は日比谷の入り江で、沖合に点々と砂州が現れていたという[注 3]

江戸時代

『江戸城登城風景図屏風』(1847年、国立歴史民俗博物館所蔵)
富士見櫓と周辺の堀(1885年~1890年頃に撮影)
天下普請前
江戸幕府を開いた徳川将軍家の祖である家康が入城した当初、江戸城は道灌の築城した小規模な城でありかつ築城から時を経ており荒廃が進んでいたため、それまでの本丸・二ノ丸に加え、西ノ丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸を増築、また道三堀や平川を江戸前島中央部(外濠川)へ移設した。それに伴う残土により、現在の西の丸下の半分以上の埋め立てを行い、同時に街造りも行っている。ただし、当初は豊臣政権の大名としての徳川家本拠としての改築であり、関ヶ原の戦いによる家康の政権掌握以前と以後ではその意味合いは異なっていたと考えられている。
慶長期天下普請
などであった。
  • 翌慶長12年(1607年)には関東、奥羽信越の諸大名に命じて天守台および石塁などを修築し、このときは高虎はまた設計を行い、関東諸大名は5手に分れて、80万石で石を寄せ、20万石で天守の石垣を築き、奥羽、信越の伊達政宗上杉景勝蒲生秀行佐竹義宣堀秀治溝口秀勝村上義明などは堀普請を行った。この年に慶長度天守が完成。
  • 慶長16年(1611年)、西ノ丸石垣工事を東国大名に課役し、将軍徳川秀忠はしばしばこれを巡視した。
  • 慶長19年(1614年)、石壁の修築を行い、夏から冬にかけて工事を進めた。10月2日(11月3日)には、家康は大坂の陣の陣触れを出し江戸留守居役を除く諸大名は、この地からの参加を余儀なくされ諸大名は著しく疲弊した。このため翌年の大坂夏の陣終結後、家康は3年間天下普請を止めるように指示をした。
元和期天下普請
  • 元和4年(1618年)に紅葉山東照宮を造営し、また神田川の開削を行う。
  • 元和6年(1620年)、東国大名に内桜田門から清水門までの石垣と各枡形の修築を行わせる。
  • 元和8年(1622年)には本丸拡張工事を行ない、それに併せて天守台・御殿を修築し同年には元和度天守が完成する。また寛永元年(1624年)、隠居所として西ノ丸殿舎の改造が行なわれた。
寛永期天下普請
  • 寛永5年(1628年)から翌年にかけて本丸・西丸工事と西ノ丸下・外濠・旧平河の石垣工事、また各所の城門工事が行われる。
  • 寛永12年(1635年)、二ノ丸拡張工事が行われた。
  • 寛永13年(1636年)には石垣担当6組62大名、濠担当7組58大名の合計120家による飯田橋から四谷赤坂を経て溜池までを掘り抜き、石垣・城門を築く外郭の修築工事が行なわれる。寛永14年(1637年)には天守台・御殿を修築し、翌年には寛永度天守が完成する。

最後に万治3年(1660年)より神田川御茶ノ水の拡幅工事が行われ、一連の天下普請は終了する。

徳川江戸城の築城においては、町づくりを含め、伊豆の石材(伊豆石)は欠かせないものであった。壮大な石垣用の石材は、ほとんど全てを相模西部から伊豆半島沿岸の火山地帯で調達し、海上を船舶輸送して築いたものである[21]

本丸・二ノ丸・三ノ丸に加え、西ノ丸・西ノ丸下・吹上・北ノ丸の周囲16kmにおよぶ区画を本城とし、現在の千代田区と港区新宿区の境に一部が残る外堀と、駿河台を掘削して造った神田川とを総構えとする大城郭に発展した。その地積は本丸は10万5000余町歩、西ノ丸は8万1000町歩、吹上御苑は10万3000余町歩、内濠の周囲は40町、外濠の周囲は73町となり、城上に20基の櫓、5重の天守を設けた。

以後、200年以上にわたり江戸城は江戸幕府の中枢として機能した。江戸時代後期に伊能忠敬が作成した『大日本沿海輿地全図』大図の第90図には江戸城が描かれているが、城内の建物群配置は機密であったため空白で、諸街道に通じる九つの門のみが記されている(南から時計回りに幸橋御門、虎御門、赤坂御門、四ツ谷御門、市ケ谷御門、牛込御門、小石川御門、筋違御門と両国橋近くの浅草橋御門)[22]後述)。

明暦3年(1657年明暦の大火により天守を含めた城構の多くを焼失し、その後、天守が再建されることはなかった[23]

安政2年(1855年安政大地震により石垣、櫓、門など多大な被害を受ける。

近現代

慶応4年1868年)に開戦した戊辰戦争の最初の局面である鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍を破った新政府軍は、江戸に逃亡した徳川慶喜に対して追討令を発布。慶応4年1868年3月15日を江戸総攻撃の日と定め、江戸城に対する包囲網を完成させた。しかし、徳川家存続に向けた交渉の全権を委任された旧幕府陸軍総裁勝海舟と東征軍参謀である西郷隆盛との会談が実現し、それにより、江戸城の無血開城が決定した。


注釈

  1. ^ 今の梅林坂に当たる。社は江戸時代に城外の平河門外、次いで麹町に移されて平河天満宮となった。道真崇拝や梅との関わりについては「天満宮」「菅原道真#飛梅伝説」を参照。
  2. ^ このため旧暦の8月1日(八朔)は、江戸時代を通じて祝われることになる。なお、家康の家臣である松平家忠の日記(『家忠日記』)によれば、実際の入城日は7月18日であったという[18]
  3. ^ 従来、徳川家康入部前の江戸が寂れていて寒村のようであったとされてきたが、実際には荒川や入間川などの関東平野一帯の河川物流と東京湾の湾内物流の結節点としてある程度は栄えていたとされる。また、なんらかの戦略的・経済的な価値がなければ、徳川氏もそこを本拠に選ばなかったはずである。また、柴裕之は小田原攻め中に秀吉が江戸城に自らの御座所を設ける構想を示したとする文書(『富岡文書』)の存在を指摘し、秀吉が関東・奥羽統治の拠点として江戸城を高く評価していたとする指摘をしている[19]。また、鎌倉に関する研究において、福島金治は『吾妻鏡』において源頼朝が鎌倉に入った当時の鎌倉の姿の描写(治承4年10月12日条)が徳川家康が江戸に入った時当時の江戸の姿に引用されている可能性を指摘している[20]
  4. ^ この石船を運ぶ際、暴風雨によって数百隻の船が沈んだとされる。
  5. ^ 秘閣図書の内 炎上の節焼失並従来欠本の目録』が作成された。
  6. ^ 改易されるまでは里見氏の屋敷も残っていた。
  7. ^ なお宮上案に従えば、三代の天守は壁面・瓦の材質・破風の配置などを除けば、基本的に同じ規模・構造をしていた。
  8. ^ 多大な支出ばかりが嵩んでいた幕府財政の「近年中のさらなる悪化・破綻が予想された」ためとの説がある。
  9. ^ その名残として、天守曲輪に当たる御休息(数寄屋、富士見)多聞櫓の北側から石室(西側二重櫓跡)までの本丸の石垣は現在も他より一段高くなっている。
  10. ^ 7重・9重には「何段にも重なる」という意味もあるので、5重の可能性が高い。
  11. ^ ただし金澤案は『愚子見記』の、三浦案は『愚子見記』『当代記』双方の記述内容に矛盾する。
  12. ^ 後に二ノ丸東照宮として移転。また、『津軽家古図』には最上階上々段に東照宮があったと記載されている。
  13. ^ 櫓の数や規模は時期により異なるので、これは一例である。
  14. ^ 御殿の門なども含んだ数。主要な門57棟の内、櫓門は45棟。更に枡形を構成しているのはおよそ39棟。
  15. ^ 現在の同心番所は門の中に移転している。

出典

  1. ^ 竹内 2003, p. 71 。※異説あり。
  2. ^ a b c d e f 第2版,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),日本の城がわかる事典,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,旺文社日本史事典 三訂版,精選版 日本国語大辞典,事典・日本の観光資源,世界大百科事典. “江戸城とは”. コトバンク. 2022年12月12日閲覧。
  3. ^ a b c "江戸城". デジタル大辞泉. コトバンクより2022年12月12日閲覧
  4. ^ 伴 1974 [要ページ番号]
  5. ^ 小学館日本大百科全書(ニッポニカ)』、講談社『日本の城がわかる事典』. “江戸城”. コトバンク. 2019年10月12日閲覧。
  6. ^ 江戸のお侍さんの勤務形態”. 羽田会の部屋. 2022年12月12日閲覧。
  7. ^ 東京散歩「江戸史跡散歩」(江戸城無血開城の史跡を歩く)”. edoshiseki.com. 2022年12月12日閲覧。
  8. ^ 江戸東京医学史散歩10”. sisoken.la.coocan.jp. 2022年12月12日閲覧。
  9. ^ 第2版, 日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,旺文社日本史事典 三訂版,デジタル大辞泉プラス,世界大百科事典. “江戸開城とは”. コトバンク. 2022年12月12日閲覧。
  10. ^ 変貌 - 5.江戸城を皇居と定め東京城と改称:”. 国立公文書館. 2022年12月12日閲覧。
  11. ^ 皇居”. 宮内庁. 2023年11月16日閲覧。
  12. ^ 皇居東御苑”. 宮内庁. 2023年11月15日閲覧。
  13. ^ 大嘗祭について”. 宮内庁. 2023年11月15日閲覧。
  14. ^ 大嘗宮一般参観について”. 宮内庁. 2023年11月15日閲覧。
  15. ^ 国民公園等の概要”. 環境省. 2023年11月15日閲覧。
  16. ^ 山田 2003, p. 35-40
  17. ^ 山田 2014 [要ページ番号]
  18. ^ 柴 2017, p. 191.
  19. ^ 柴 2017, p. 193.
  20. ^ 福島金治「鶴岡八幡宮の成立と鎌倉生源寺・江ノ島」地方史研究協議会編『都市・近郊の信仰と遊山・観光 交流と引用』(雄山閣、1999年)ISBN 4-639-01640-9 pp.24-28・36.
  21. ^ 杉山宏生「西相模・東伊豆の安山岩石丁場」『江戸築城と伊豆石』吉川弘文館、2015年5月1日、33頁。 
  22. ^ [没後200年 伊能忠敬を歩く](47)描かれた江戸城:地方と接続 九つの御門毎日新聞』朝刊2023年2月13日(文化面)同日閲覧
  23. ^ 日本の城がわかる事典『江戸城』 - コトバンク
  24. ^ お昼のドンに代わって登場『東京日日新聞』昭和4年5月1日(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p152 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  25. ^ 正院 1873年
  26. ^ 気象庁『気象百年史 本編』気象庁、1975、50ページ
  27. ^ 気象庁『測定時報23』気象庁、1956、235,236ページ
  28. ^ 江戸城天守 天高く 高さ58.63メートル、攻撃装置ない太平の象徴」『『東京新聞』朝刊』中日新聞東京本社、2015年11月4日。2015年12月19日閲覧。オリジナルの2015年12月9日時点におけるアーカイブ。
  29. ^ 中江 2010, p. 159.
  30. ^ 第36回「江戸城にお能を見に行く!」展「千代田之御表」”. 公式ウェブサイト. 東京都立図書館. 2009年11月24日閲覧。
  31. ^ 明治天皇の住まい「皇城」図発見”. ロイター (2019年8月21日). 2019年8月21日閲覧。 [リンク切れ]
  32. ^ a b 学研 1995 [出典無効]
  33. ^ これが日本史上最大の「江戸城天守」 30分の1復元模型、29日から公開”. 毎日新聞 (2020年9月28日). 2022年12月12日閲覧。
  34. ^ 「皇居東御苑 江戸城天守復元模型」宮内庁(2020年10月確認)
  35. ^ 盛況・好評裡に終了!「江戸城寛永度天守『復元図』完成報告会」 江戸城再建を目指す会 2010年6月17日。[リンク切れ]
  36. ^ 江戸城御本丸御天守1/100建地割”. 公式ウェブサイト. 東京都立図書館. 2019年10月12日閲覧。
  37. ^ 『読売新聞』2017年2月9日1面
  38. ^ 徳川家康が築城の江戸城 当時の構造描いた絵図 発見[リンク切れ]NHK NEWS WEB






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