有馬朗人
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有馬 朗人 | |
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生誕 |
1930年9月13日[1] 日本 大阪府[1] |
死没 |
2020年12月6日(90歳没) 日本 東京都世田谷区 |
居住 |
日本 アメリカ合衆国 |
国籍 | 日本 |
研究分野 | 物理学 |
研究機関 |
東京大学 ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校 法政大学 理化学研究所 日本科学技術振興財団 科学技術館 |
出身校 | 東京大学[1]理学部 |
主な業績 |
原子核の集団運動現象の解明 原子核の力学的模型と電磁相互作用の研究 |
プロジェクト:人物伝 |
有馬 朗人 | |
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誕生 | 1930年9月13日 |
死没 | 2020年12月6日(90歳没) |
職業 | 物理学者、俳人、政治家 |
ジャンル | 俳句、随筆 |
代表作 |
『母国』(1972年) 『耳順』(1993年) 『立志』(1998年) |
デビュー作 | 句集:『母国』(1972年) |
影響を受けたもの
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ウィキポータル 文学 |
有馬 朗人 ありま あきと | |
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生年月日 | 1930年9月13日 |
没年月日 | 2020年12月6日(90歳没) |
出身校 | 東京大学理学部 |
前職 |
理化学研究所理事長 武蔵学園学園長 |
所属政党 | 自由民主党 |
称号 |
正三位 旭日大綬章 理学博士(東京大学・1958年) 文化勲章 |
第58代 科学技術庁長官 | |
内閣 | 小渕第1次改造内閣 |
在任期間 | 1999年1月14日 - 1999年10月5日 |
第125代 文部大臣 | |
内閣 |
小渕内閣 小渕第1次改造内閣 |
在任期間 | 1998年7月30日 - 1999年10月5日 |
選挙区 | 比例区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1998年7月26日 - 2004年7月25日 |
国立大学協会会長(第14代)、東京大学総長(第24代)、理化学研究所理事長(第7代)、参議院議員、文部大臣(第125代)、科学技術庁長官(第58代)などを歴任した。
業績
物理学者として
主に、原子核物理学の分野で国際的に知られ、原子核構造論などで多くの業績を上げた。代表的なものに有馬・堀江理論(配位混合の理論)、相互作用するボゾン模型の提唱、クラスター模型への貢献など。
日本学士院賞、ベンジャミン・フランクリンメダルなどを受賞。
2005年の世界物理年では日本物理学会が組織した同日本委員会の委員長を務めた。
日本エネルギー会議の発起人の一人、エネルギー・原子力政策懇談会の会長。
政治家として
1998年、当時の総理だった橋本龍太郎に請われて[要出典]第18回参議院選挙に自民党から出馬。比例代表名簿1位に登載され、当選した。自民党がこの選挙で大敗、橋本が敗北の責任を取って退陣した後、後任の小渕恵三から小渕内閣の文部大臣に抜擢、続く第1次改造内閣でも文部大臣に留任した上で科学技術庁長官も兼摂した(1999年10月の内閣再改造で退任)。
中央教育審議会会長在籍時に独自の「ゆとり教育論」を展開したが、官僚により別解釈に用いられた。提唱した教育論は、指導要領の増えすぎた科目を融合させること。例えば世界史と日本史を一元的に学ぶことや数学の言葉を英語で学ぶことにより知識の壁を取り払い、また科目の増加傾向を避け、応用力をつけさせることが重要と述べている。また、日本人の若者の学力は低下しているわけではないことを各地で行われる講演会で説明している。
2004年の国立大学の法人化(大学改革)を主導した。失敗だったと晩年回顧している。
2004年の第20回参議院選挙には出馬せず、参議院議員1期・6年で政界からは引退。この決定は自民党の「73歳定年制度」によるものだった(この選挙の時点で既に73歳に達していた)。
俳人として
1945年より作句。1946年に「ホトトギス」に初入選。東大に入学した1950年に「夏草」に入会し、山口青邨に師事。また東大ホトトギス会にも入会。1953年「夏草」同人。高橋沐石らと「子午線」を創刊。1990年「天為」を創刊・主宰。東大俳句会の指導も行う。2006年より12年まで蛇笏賞選者。俳人協会顧問、全国俳誌協会顧問、国際俳句交流協会会長、東京都俳句連盟会長。
「初夏に開く郵便切手ほどの窓」「草餅を焼く天平の色に焼く」など、第一句集『母国』(1972年)収録の初期の句は、モダニズムを超克する意識から日常の中に超現実的なイメージを探し求める傾向があったが、海外滞在、出張の経験から第二句集『知命』(1982年)の頃に優れた海外詠を多く作るようになる。「露を置く野のキリストの足の釘」「日向ぼこ大王よそこどきたまへ」など、生活体験ばかりでなく神話や聖書、古代史を踏まえた作も多い。その後「あかねさす近江の国の飾臼」を巻頭に置く第三句集『天為』(1987年)で伝統回帰の傾向を強めた。以降の句集に『耳順』『立志』『不稀』『分光』『鵬翼』『流轉』『黙示』などがある。
1987年『天為』で第27回俳人協会賞、2004年『不稀』で第7回加藤郁乎賞、2007年『分光』で第3回詩歌句大賞、2012年『流轉』で第28回詩歌文学館賞受賞。また2005年12月22日には東大本郷校舎構内の三四郎池畔に山口青邨句碑と並んで建立された[2]。2018年『黙示』で蛇笏賞
山梨県南都留郡山中湖村が主宰する俳壇の選者を務めていた縁で「山中湖村民歌」の作詞を行った[3]。
妻の有馬ひろこ[注釈 1]も俳人であり、1929年に東京に生まれ、深川正一郎に学び、山口青邨に師事。夫と共に「天為」を主宰している。
その他
幼少期から旧制中学卒業まで静岡県浜松市在住だったことから、浜松市の親善大使『浜松やらまいか大使』20人の一人として2005年10月より就任。
東大総長選では、もう一人の候補(本間長世教養学部教授)と同票数となり、くじ引きで当選した。
行政や政治などの、物理学と無縁のことをやり、物理学に専念しなかったことを後悔している。後悔の理由はノーベル賞をもらえていないことであるという(2005年10月24日(月)日経朝刊内コラム「私の苦笑い」)。
経歴
- 1930年9月 大阪府[1]住吉区に父、有馬丈二(俳号、石丈)、母、籌子(かずこ)の長男として生まれる。両親ともに俳人。母籌子は青木月斗が創刊した「同人」の主宰も務めた。
- 1946年1月 父丈二死去。
- 1948年3月 静岡県立浜松第一中学校(現・静岡県立浜松北高等学校)四年修了
- 1950年3月 旧制武蔵高等学校卒業
- 1953年3月 東京大学理学部物理学科(旧制)卒業
- 1953年4月 東京大学理学部大学院(旧制)入学
- 1956年4月 東京大学原子核研究所助手
- 1959年9月 アメリカアルゴンヌ国立研究所研究員[4]。
- 1958年8月 東京大学理学博士「2S1/2及び1d3/2殻の原子核の結合エネルギーと低エネルギーの励起状態」
- 1959年10月 東京大学理学部講師
- 1964年 東京大学理学部助教授
- 1967年 ラトガース大学客員教授
- 1971年 ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校教授(1973年まで)
- 1975年 東京大学理学部教授
- 1981年 東京大学大型計算機センター長(1985年まで)
- 1985年4月 東京大学理学部長(1987年3月まで)
- 1987年 東京大学総長特別補佐
- 1989年 東京大学総長(1993年3月まで)
- 1993年3月 退官
- 1993年4月 法政大学教授
- 1993年10月 理化学研究所理事長(1998年5月まで)
- 1995年 中央教育審議会会長(1998年まで)
- 1998年 参議院議員(2004年7月25日まで)、文部大臣(1999年10月まで)
- 1999年 科学技術庁長官兼務(1999年10月まで)(文部省と科学技術庁の統合による文部科学省設置に備えるため)
- 2000年6月 財団法人日本科学技術振興財団会長
- 2004年7月 - 科学技術館館長
- 2005年9月 - 沖縄科学技術研究基盤整備機構運営委員(2011年10月まで)
- 2006年 - 武蔵学園(武蔵中学校・高等学校、武蔵大学)学園長
- 2009年9月 - 沖縄科学技術大学院大学学園設立委員(2011年10月まで)
- 2011年11月 - 沖縄科学技術大学院大学学園理事会副議長
- 2011年11月 - 沖縄科学技術大学院大学学園評議員
- 2020年12月6日 - 心不全により東京都世田谷区の自宅で死去、90歳没[5][6]。死没日をもって正三位に叙される[7]。
その他役職
- 財団法人学生サポートセンター理事
- 特定非営利活動法人日中産学官交流機構最高顧問
- 財団法人才能開発教育研究財団理事
- 財団法人日本宇宙少年団顧問
- 国立大学マネジメント研究会顧問
- 財団法人日蘭学会理事長
- 特定非営利活動法人デジタルコミュニティズ推進協議会理事長
- 財団法人岡崎嘉平太国際奨学財団評議員
- 財団法人大河内記念会顧問
- 国際研修システム開発協議会会長
- 財団法人東洋文庫評議員
- 財団法人東レ科学振興会評議員
- 国際俳句交流協会会長
- 特定非営利活動法人日本教育カウンセラー協会顧問
- 特定非営利活動法人日ロ交流協会会長
- 社団法人俳人協会顧問
- 財団法人三菱財団評議員
- 科学技術政策研究所顧問
- 野外文化教育学会顧問
- 全国俳誌協会顧問
- 日本生命保険取締役
- 社団法人文教施設協会会長
- 社団法人日本アイソトープ協会会長
- NPO法人ネットジャーナリスト協会会長
- 社団法人東京都俳句連盟会長
- 「地球を考える会」(ネットジャーナリスト協会分科会)座長
- 日本物理学会会長(第37期:1981年9月1日-1982年8月31日)
- 社会福祉法人恩賜財団済生会会長
- 東京大学同窓会連合会(現東京大学地域同窓会連合会)会長(2012年4月~2020年12月)
注釈
- ^ 「有馬ひろ子」と書くのは誤り。
出典
- ^ a b c d e 『朝日現代用語 知恵蔵 1990』朝日新聞社、東京都中央区築地5-3-2、1990年1月1日、1153頁。雑誌60031-01。
- ^ 東京大学 学内広報 2006年2月8日No.1329 P17「有馬朗人先生の句碑建立」
- ^ 小田切敏雄 (2021年10月7日). “歌い継ぐ「山中湖村民歌」 物理学者・故有馬朗人氏が作詞 12月6日一周忌前に普及進める /山梨”. 毎日新聞デジタル (毎日新聞社) 2023年3月3日閲覧。
- ^ https://www.sekaken.jp/voice/interview-6.html
- ^ “有馬朗人氏死去、90歳 元東大学長、文相”. 時事ドットコム. 時事通信社. (2020年12月7日) 2020年12月7日閲覧。
- ^ “元東京大学長の有馬朗人さん、死因は心不全”. サンケイスポーツ. (2020年12月9日) 2020年12月10日閲覧。
- ^ 『官報』第410号7頁 令和3年1月13日号
- ^ “文化勲章受章者の略歴と業績”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2010年10月26日) 2019年6月24日閲覧。
- ^ “有馬朗人『流轉』(2012年11月/角川書店)”. 日本現代詩歌文学館. 2019年6月24日閲覧。
- ^ 平成29年度名誉都民候補者東京都生活文化局 報道発表資料 2017年08月25日
- ^ “社告:第59回毎日芸術賞”. 毎日新聞 (毎日新聞社). (2018年1月1日) 2019年6月24日閲覧。
- ^ “【決定のお知らせ】第52回蛇笏賞”. お知らせ. 角川文化振興財団 (2018年3月27日). 2019年6月24日閲覧。
固有名詞の分類
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