北アメリカ 歴史

北アメリカ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/17 03:57 UTC 版)

歴史

北アメリカにおけるヒトの定住は16,000年ほど前から始まったものと目されている[16][17][18][19]

北アメリカにおいて最も早く文明が成立したのは、現在のメキシコ中部においてであった。紀元前1250年ごろには最古の文明であるオルメカ文明が成立し、ついでメキシコ中央高原にはテオティワカンをはじめとする諸文明が、ユカタン半島にはマヤ文明が成立した。これらの文明は鉄器を持たず、青銅器も普及は遅れ利用も装飾にほぼ限定されたものの、トウモロコシをはじめとする多くの植物の栽培化をなしとげ、独自の高度な文明を作り上げていた。

1492年クリストファー・コロンブスが現在のバハマの東端に近いサン・サルバドル島に上陸し(アメリカ大陸の発見)、以後数十年でスペインからやってきたコンキスタドールたちによって中央アメリカの高度な文明はすべて滅ぼされ、1521年には最大の先住民国家であったアステカ帝国エルナン・コルテスによって滅亡した。また、ヨーロッパからの植民者たちは北アメリカで知られていなかった病原菌を持ち込み、このために北アメリカの先住民人口は激減した。16世紀の中ごろには、中部アメリカ大陸部のほとんどはスペインの植民地となっていた。一方カリブ海諸島においては17世紀以降、スペインの支配の合間を縫うようにイギリスやフランス、オランダなどが進出し、植民地を築いていった[20]

中央アメリカ地域に比べ、北アメリカ大陸北部への植民は遅れた。この地域で最初に永続的な植民地が開かれたのは1607年イギリスによってジェームズタウンが建設された時である。ついで1620年にはメイフラワー号に乗ってやってきたピルグリム・ファーザーズたちがプリマスに入植し、やがて東海岸にはイギリスの13植民地が建設されることとなった。一方、その北のセントローレンス川河口にはフランスが進出し、1608年ケベックの街を建設して内陸にはいりこんでいき、ヌーベルフランス植民地を建設した。この植民地はセントローレンス川から五大湖ミシシッピ川水系を通ってメキシコ湾にまで至る広大な植民地であったが、ケベック周辺を除き非常に人口は希薄であった。

やがて東海岸のイギリスとそれを囲むように広がるフランスの両植民地は衝突するようになり、100年以上断続的に衝突を繰り返したが、結局最後の北米植民地戦争であるフレンチ・インディアン戦争においてフランスは大敗し、1763年パリ条約でフランスは北アメリカ大陸の植民地のほとんどをイギリスに譲渡することになった。しかし、この戦争の戦費によって財政難に陥ったイギリスは13植民地に様々な税を課すようになり、不満を持った植民地側は1775年に蜂起し、アメリカ独立戦争が勃発した。翌1776年にはアメリカ独立宣言が発表された。この戦争は植民地側の優位のまま進み、1783年にはパリ講和条約が締結されて、イギリスは13植民地の独立を認め、北アメリカ大陸最初の近代独立国家であるアメリカ合衆国が誕生した。ただしその北側に位置するカナダ植民地はイギリスのもとにとどまることを選択し、ここに北アメリカ大陸の旧英国領は南のアメリカ合衆国と北のカナダ植民地とに2分されることとなった。独立したアメリカはイギリス領だったミシシッピ川東岸を自国領としたが、さらに西へと進む動きを見せ、1803年にはフランスからミシシッピ川西岸にあたるルイジアナを買収して領土を2倍にした。アメリカ大統領トーマス・ジェファーソン1804年メリウェザー・ルイスウィリアム・クラークに率いられた探検隊をミシシッピ西方へと派遣した。このルイス・クラーク探検隊ミズーリ川沿いに進んでロッキー山脈を抜け[21]、太平洋に到達し、アメリカの西部進出の基盤を作ることとなった。

このアメリカ独立と、フランス革命に端を発する宗主国の混乱は、中央アメリカ各地域においても独立の動きをよびさました。最も早く独立へと動いたのは、カリブ海に浮かぶフランス領サン=ドマングである。サン=ドマングでは1791年ハイチ革命が勃発し、1804年には北アメリカ第2の独立国としてハイチが独立した。次いで1810年にはメキシコでもミゲル・イダルゴによってメキシコ独立革命が開始され、1821年にはメキシコが独立。さらにそこから1823年には中央アメリカ連邦共和国が独立し、スペインの勢力はカリブ海にうかぶ島々に限定されることとなった。

独立後すぐに、アメリカは西部への膨張を開始した。当初はアメリカ領だったミシシッピ川以東に限られていたが、上記ルイジアナ買収によってさらにアメリカの領土は西へと延伸し、移住者の波もそれに伴って徐々に西へと押し寄せた。重要だったのは1787年に制定された北西部土地条例で、これによって開拓地にできた準州は人口60000人を超えると州として連邦に加盟することが可能になり、西部の国土化に大きな役割を果たした。19世紀中ごろからは産業革命も開始され、さらに各国から続々と押し寄せる移民の波とそれを受け入れることの可能な西部の開拓地の存在によって、アメリカは急速に国力を増大させていった。こうしたアメリカの西進は、進行方向にあたる地域に領土を持っていたメキシコとの対立を呼び起こしたが、当時メキシコは国内の政情不安が続き、さらにアメリカと衝突するメキシコ北部においては人口も希薄で開発も進んでいなかったことから、この両国の対立は常にアメリカ有利で決着がついた。1836年にはメキシコ北端のコアウイラ・イ・テハス州においてアメリカ系移民が反乱を起こして独立し、テキサス共和国を建国。1845年に同国がアメリカに加盟したことで両国は衝突し、1846年には米墨戦争が勃発した。この戦いでアメリカは完勝し、1848年の講和によってメキシコから北部の広大な領土をもぎ取った[22]。さらに1849年には、獲得したばかりのカリフォルニア州においてが発見され、カリフォルニア・ゴールドラッシュが起きて西部の開拓は飛躍的に進むこととなった。1869年には最初の大陸横断鉄道が開通して、アメリカの東西を結ぶ大動脈となった。

1860年代には、アメリカとメキシコにおいてそれぞれ大きな内乱が起きた。まず1861年にはアメリカにおいて、奴隷制の是非をめぐって北部と南部が対立し、南部がアメリカ連合国を建国して南北戦争が勃発した。次いで、この動乱を見たフランスメキシコ出兵を決定し、メキシコシティを攻略して第2次メキシコ帝国を成立させた。この戦いはいずれもそれまでの中央政府(アメリカのエイブラハム・リンカーン政権・メキシコのベニート・フアレス政権)の勝利に終わり、両国の中央政府の支配力が強化されることとなった。また、アメリカの強大化は分離と統合を繰り返していた北側のイギリス領諸植民地の危機感を呼び覚まし、1867年にはこれらのうち4つの植民地が英領北アメリカ法を制定してカナダ自治領として統合した。このカナダ自治領にはこの地域にある他のイギリス植民地も続々と加入し、最終的には大陸北部のイギリス領はすべてカナダに統合された。

アメリカの経済成長はなおも続き、19世紀末には、アメリカの工業力はイギリスやドイツといったヨーロッパ列強諸国と肩を並べ抜き去るまでになっていた。1898年には米西戦争が起きてアメリカが勝利し、キューバが独立、プエルトリコがアメリカ領となってスペインは完全に新大陸での領土を喪失した[23]。またこの時期からはアメリカ資本が中央アメリカ全域に進出するようになり、大農園を建設したユナイテッド・フルーツ社などの支配力が強まり、バナナ共和国という言葉に代表される中米諸国の経済的なアメリカへの従属化が進行した。メキシコにおいてはポルフィリオ・ディアス政権によって経済開発が進んだが、貧富の差の拡大や独裁に反感が高まり、1910年よりメキシコ革命が勃発した。また、1914年にはアメリカの手によってパナマ運河が建設され、太平洋と大西洋の海運距離が大幅に短縮した。

第一次世界大戦によってヨーロッパ諸国が経済的に疲弊すると、アメリカは世界最大の経済大国として世界経済をリードするようになり、第二次世界大戦によって政治・軍事的にも完全に世界をリードするようになった。一方、カリブ海・中央アメリカ諸国においては政情不安が続く国が多く、クーデターによって軍事政権が成立することも珍しくなかったが、政治・軍事的には完全にアメリカの強い影響下におかれるようになった。こうした中、1959年キューバ革命が勃発し、フィデル・カストロに率いられた革命政権はソヴィエト連邦へと急速に接近。北アメリカに初の東側国家が誕生することになり、この地域に極度の緊張をもたらした。この緊張は1962年キューバ危機によって最高潮に達し、以後やや緊張は緩んだものの両国の対立は21世紀に入っても続いた[24]。1960年代から1980年代にかけては、カリブ海や小アンティル諸島に残っていたイギリス植民地が次々と独立し、とくに小アンティル諸島においては小国が乱立するようになった。


  1. ^ 石井 & 浦部 2018, p. 2.
  2. ^ 石井 & 浦部 2018, pp. 3–4.
  3. ^ 「アメリカとカナダの風土 日本的視点」p4 正井泰夫 二宮書店 平成7年4月1日第1刷
  4. ^ 矢ケ﨑 2011, pp. 12.
  5. ^ 矢ケ﨑 2011, pp. 12–13.
  6. ^ 矢ケ﨑 2011, p. 11.
  7. ^ 矢ケ﨑 2011, p. 10.
  8. ^ 矢ケ﨑 2011, pp. 14–16.
  9. ^ 石井 & 浦部 2018, pp. 16–17.
  10. ^ 石井 & 浦部 2018, pp. 2–5.
  11. ^ 石井 & 浦部 2018, p. 9.
  12. ^ 石井 & 浦部 2018, p. 134.
  13. ^ 矢ケ﨑 2011, p. 100.
  14. ^ 外務省: 後発開発途上国”. 外務省 (2012年12月). 2015年12月6日閲覧。
  15. ^ 「ラテンアメリカを知る事典」p542 平凡社 1999年12月10日新訂増補版第1刷 
  16. ^ New artifacts suggest first people arrived in North America earlier than previously thought” (英語). Life at OSU (2019年8月29日). 2021年8月24日閲覧。
  17. ^ WadeAug. 29, Lizzie (2019年8月29日). “First people in the Americas came by sea, ancient tools unearthed by Idaho river suggest” (英語). Science | AAAS. 2021年8月24日閲覧。
  18. ^ Smith, Kiona N. (2019年8月29日). “Stone tools suggest the first Americans came from Japan” (英語). Ars Technica. 2021年8月24日閲覧。
  19. ^ Davis, Loren G.; Madsen, David B.; Becerra-Valdivia, Lorena; Higham, Thomas; Sisson, David A.; Skinner, Sarah M.; Stueber, Daniel; Nyers, Alexander J. et al. (2019-08-30). “Late Upper Paleolithic occupation at Cooper’s Ferry, Idaho, USA, ~16,000 years ago” (英語). Science 365 (6456): 891–897. doi:10.1126/science.aax9830. ISSN 0036-8075. PMID 31467216. https://science.sciencemag.org/content/365/6456/891. 
  20. ^ 石井 & 浦部 2018, pp. 31–33.
  21. ^ 「ルイス=クラーク探検 アメリカ西部開拓の原初的物語」p9 明石紀雄 世界思想社 2004年12月25日第1刷
  22. ^ 石井 & 浦部 2018, pp. 102–103.
  23. ^ 石井 & 浦部 2018, pp. 104–105.
  24. ^ 石井 & 浦部 2018, pp. 114–115.





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