冬戦争 両軍の戦闘序列(1939年11月30日)

冬戦争

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両軍の戦闘序列(1939年11月30日)

フィンランド国防軍

ソ連軍(赤軍)

  • レニングラード軍管区 キリル・メレツコフ大将
    • 第7軍(レニングラード → ヴィープリ → ヘルシンキ)
    • 第8軍(ラドガ湖北岸→ヴィープリ、ルウキ → スオムッサルミ → オウル)
      • 第139師団
      • 第163師団
      • 第168師団
    • 第9軍(カンダラクシャ → サッラ → ケミヤルヴィ → ロヴァニエミ)
      • 第88師団
      • 第122師団
    • 第14軍(ムルマンスク → ペツァモ → ロヴァニエミ)
      • 第104師団

推移

1939年

1939年11月26日午後、カレリア地峡付近のソ連領マイニラ村でソ連軍将兵13名が死傷する砲撃事件が発生したとソ連側から発表された。この事件はマイニラ砲撃事件と呼ばれており、ソ連はこの砲撃をフィンランド側からの挑発であると強く抗議した。この事件は実際には、ソ連が自軍に向けて故意に砲撃したのをフィンランド軍の仕業にして非難し、この攻撃を国境紛争の発端に偽装したものであり、このことは近年明らかになったソ連時代の機密文書によっても裏付けられている。 ソ連は、11月28日にモスクワ駐在フィンランド公使に対してソ芬不可侵条約破棄を通告する文書を手交[8]11月29日に国交断絶が発表された。

11月30日、ソ連は宣戦布告の無いままに23個師団45万名の将兵火砲1,880門、戦車2,385輌、航空機700機[4]を以って、フィンランド国境全域で侵攻した。これに対しフィンランド国防軍は12個師団19万名の将兵(開戦直後に予備役を総動員し、最終的には30万名)、火砲700門、戦車十数両、航空機134機ほどの戦力であった。ソ連空軍は、国境地帯の他、ヘルシンキ、ヴィープリなど数都市を空爆した。ソ連は、フィンランド内戦での白衛軍の流れを汲むフィンランド現政権に対する人民蜂起を期待していたので、空爆には、爆弾のほかに武装蜂起を促すフィンランド語のチラシが大量にばらまかれた。その日の夜、アイモ・カヤンデル政権で連立を組んでいた社会民主党のヴァイノ・タンネル蔵相は、カヤンデル首相に退陣を求め、12月1日にカヤンデル政権は総辞職した。タンネルは、フィンランド銀行総裁のリスト・リュティに首相就任を求め、リュティはこれを受け入れた。また、タンネルは、自ら新内閣の外相についた。新内閣の方針は、国際連盟、西側諸国、北欧諸国に働きかけるとともに、軍事面では可能な限りの出血をソ連軍に強いて、早期にソ連を交渉のテーブルに引きずり出すことで、一致した。キュオスティ・カッリオ大統領は、マンネルハイムに辞表の撤回と国軍最高司令官への就任をもとめ、マンネルハイムはこれを受けた。

12月1日、開戦当日の夕方にはソ連軍に占領された国境地帯の町テリヨキフィンランド語: Terijoki、現在のゼレノゴルスキロシア語版フィンランド語版英語版 ロシア語: Зеленогорск)で、1918年の内戦で敗れてソ連に亡命していた共産党員オットー・クーシネンを首班とするフィンランド民主共和国が、ソ連のお膳立てで樹立され、ソ連は、この政府がフィンランド人民を代表する唯一の正当な政権であると宣言した。

12月3日、フィンランドは国際連盟に対し、ソ連によるフィンランド侵略に関して連盟理事会及び総会の開催を要請。国際連盟はフィンランド問題委員会を立ち上げ、12月11日にソ連に対してフィンランドからの撤兵するよう求めたが[9]が、翌12月12日にソ連外相のモロトフはこれを拒否[10]12月14日に開かれた第20回国際連盟総会では、ソ連を除名する決議案が満場一致をもって採択された[11]。ソ連は連盟除名について、既に(侵攻直後に発足した)フィンランド民主共和国との間で条約を結んでおり、他国はソ連を非難する道徳的、形式的権利を有していないと批判した[12]

フィンランドのスキー兵
フィンランド兵

ソ連はレニングラード軍管区の4個軍を作戦に投入。第7軍はカレリア地峡の国境要塞線を突破して首都ヘルシンキを目指し、第8軍はラドガ湖北岸から西進し、カレリア地峡の背後への進出を計った。第9軍はフィンランドを南北に分断するためスオムッサルミの攻略を目指し、第14軍はラップランドへと進撃した。マンネルヘイムは第9師団にソ連軍第9軍への反撃を命じ、第16連隊を主力とする独立作戦集団を編成、タルヴェラ大佐に指揮を任せ、ラドガ湖北岸を進撃中のソ連軍第8軍に反撃を命じた。ソ連軍第7軍の第49師団はカレリア地峡マンネルヘイム線のタイパレ要塞線の突破を試みたが、フィンランド第10師団の反撃により攻撃は失敗し、甚大な被害を受けた。

ラドガ・カレリア方面では、トルヴァヤルヴィに進出したソ連軍第8軍の第139師団がタルヴェラ作戦集団に包囲され、1,000名以上の犠牲者を出し、敗走した。そこで第8軍はコッラ川を渡河して、守りの手薄なロイモラへ4個師団+1個旅団の大戦力を投入し、突破作戦を開始した。しかし、コッラ防衛陣地を守るフィンランド軍第12師団の猛反撃により攻勢は足止めされ、第8軍は進撃停止を余儀なくされた。ラーテ街道(ラッテ林道)を進撃中だったソ連軍第9軍の第163師団は、フィンランド軍第9師団に包囲され、孤立した。

こうしてソ連軍の攻勢は全戦線でくいとめられ、一部の部隊は分断され、包囲殲滅の危機にさらされていた。戦果をあせったレニングラード軍管区司令官メレツコフは、12月16日、マンネルハイム線への総攻撃を再開。ソ連軍第7軍がスンマ要塞線への攻撃を開始したがフィンランド軍の守りは固く、甚大な損害をうけ総攻撃は失敗に終わった。その後も第7軍はマンネルヘイム線への総攻撃を繰り返したがことごとく撃退され、損害のみが増え続けた。一方ソ連軍第9軍は、包囲された第163師団を救援するため第44機械化師団を派遣した。第44機械化師団はラーテ街道でに進軍を阻まれ、立ち往生している最中に第9師団の奇襲を受けて壊滅、完全に孤立した第163師団も殲滅され、12月9日から開始されたスオムッサルミの戦いはフィンランド軍の完全勝利に終わった。ソ連軍第9軍の損害は、戦死行方不明者2万4000人に達し、壊滅的敗北を喫した。スターリンは、すべての攻勢作戦の中止を命令した。

1940年

スターリンは、ジダーノフ、ヴォロシーロフを軍事作戦から外し、北西方面軍司令官には、セミョーン・ティモシェンコを選んだ。ティモシェンコは、新任務を受ける際に、マンネルハイム線の突破を約束したが、それは高価なものになるだろう、とスターリンに告げた。新司令官のもと、28センチ榴弾砲KV-1重戦車を含む大量の重火器と兵力の集積が進められた。また、マンネルハイム線と似た地形陣地を自領内に作り、攻撃演習まで行った。1940年1月、初期の敗戦の責任を取らされる形でヴォロシーロフは罷免され、他にも数名の将校銃殺された。再攻勢の為の兵力展開及び弾薬蓄積が完了した2月1日、カレリア地峡マンネルハイム線に対して攻勢が再開された。2月10日までは空爆と砲撃だけを行い、2月11日より軍の前進が開始された。ソ連側は多大な死傷者を出しながらも、フィンランド軍を圧倒し、マンネルハイム線の突破に成功した。

国際社会の反応

曳光弾が飛び交うフィンランドとソ連の国境線

国際世論は、圧倒的にフィンランドを支持していた。フィンランドからの提訴を受けて、1939年12月14日に国際連盟はソ連を追放した。当時、第二次世界大戦は「まやかし戦争」と呼ばれる小康状態にあったため、実際に戦闘が行われている冬戦争に注目が集まった。イギリスでは労働党が、1940年に配布したパンフレット『フィンランド-スターリンヒトラーの犯罪的陰謀』の中で「赤いツァーリ(スターリン)は帝政ロシア以来の伝統的帝国主義を推進し、民主主義の小さな拠点に対して侵略戦争をおこなっている」とソ連の行為を非難した。アメリカ合衆国はフィンランドに対し1,000万ドル借款を提供する一方、ソ連に対しては同国向けの軍需物資の供給を遅らせる行為(精神的禁輸)を開始した。

またアメリカカナダ移住したフィンランド人の中には、祖国に戻り義勇兵となった者もいた。後に俳優となったクリストファー・リーもその一人である。世界各国から、総計11,000人あまり(うち、スウェーデン人が約9,000)が義勇兵として、フィンランド側で参戦した。隣国のスウェーデンからは軍事物資、資金、人道支援も供与された。

ドイツでは、歴史的にはフィンランドの建国に深く関与しており深い結びつきがあったが、秘密議定書の内容を遵守する方針で、ソ連側に肩入れもしないかわりに、傍観する姿勢だった。

フランスでは反ソ感情が高まり、エドゥアール・ダラディエ首相はドイツに石油を供給しているソ連のバクー油田トルコの協力を得て爆撃する計画をイギリスに提案した。しかし英仏両国は対独戦の最中であり、ソ連にも宣戦布告をして戦線を拡大することは避けたく、イギリスはこの提案を拒否した。

英仏は12月からフィンランド支援を検討していたが、1940年2月にポーランド亡命政府の部隊も加えた連合軍でノルウェーのナルヴィクに10万人の兵士を上陸させ、スウェーデン経由でフィンランドを支援することを名目にドイツへの鉄鉱石の輸出を停止させる作戦計画で一致した[13]。英仏は国際連盟の決議を根拠にノルウェーとスウェーデンの両国に領内通過を要求したが[14]、3月3日にノルウェーとスウェーデンは英仏の計画をはっきりと拒否した。

1940年1月、フィンランドのヴァイノ・タンネル外相がスウェーデンの支援を求めストックホルムを訪問した際には、スウェーデン政府の冷淡な対応が国民に知れ渡り、スウェーデン国内に政府非難の声が広がり、沈静化の為に国王が国民向けに声明を出す事態となった。

また世界各国から兵器が供与されたが、いずれも旧式兵器ばかりで数も少なくフィンランドを決定的に有利にする支援はついに行われなかった。 3月12日にモスクワ講和条約が結ばれると、フランスのダラディエ政権はフィンランド支援失敗の責任を議会で追及され、辞職に追い込まれた。

停戦

ソ連指導部は、戦争開始から1か月も経たないうちにこの戦争の落としどころを考え始めていた。死傷者増加や戦争の長期化、泥沼化は、ソ連国内の政治課題ともなっていた。また、春の訪れと共にソ連軍は森林地帯のぬかるみにはまる危険があった。ソ連は攻撃と並行して、1月12日に和平交渉の再開をフィンランドに提案した。1月末にはスウェーデン政府を経由した和平の予備交渉にまで至っていたが、フィンランド政府は、ソ連の提示した厳しい講和条件に躊躇せざるを得なかった。

しかし、スウェーデン王グスタフ5世がフィンランド支援の正規軍派遣をしないことを公式表明したことに加えて、2月末までにフィンランド軍の武器・弾薬の消耗が激しく、マンネルヘイム元帥はこのまま戦争を継続した場合、敗北は必至で、フィンランドの独立さえ危うくなるという政治的判断により、講和による決着を考えていた。これを受け政府は2月29日より講和交渉再開を決定した。同日、フィンランド第二の都市であり、首都ヘルシンキへの最後の防衛拠点であるヴィープリに対してソ連軍が殺到しており、フィンランド政府にもはや猶予はなかった。

和平交渉の結果、両国は3月6日に停戦協定に達した。4か月間の戦闘で、ソ連軍は少なくとも12万7千人の死者を出していた。ソ連軍戦死者は20万人以上ともいわれ、ニキータ・フルシチョフは100万人としている。

フィンランド側は、約2万7千名を失い、さらに講和の代償も決して安いものではなかった。

フィンランドが失った領土(赤色)

モスクワ講和条約

1940年3月12日、モスクワ講和条約が結ばれた。フィンランドは国土面積のほぼ10 %に相当するカレリア地峡の割譲を余儀なくされた。カレリア産業の中心地であり、第二の都市ヴィープリや、カキサルミ、ソルタヴァラの街も失った[15]。当時のフィンランド全体の人口の12 %にあたるカレリア地峡の42万2千人は、ソ連側が示した10日間の期限内に、故郷を離れて移住するか、ソ連市民となるか、選択を迫られた。その他にも、サッラ地区、バレンツ海のカラスタヤンサーレント半島、およびフィンランド湾に浮かぶ4島を割譲し、さらにハンコ半島とその周辺の島々はソ連の軍事基地として30年間租借されることとなり、8,000人の住民が立ち退いた。

フィンランド市民にとって、この過酷な講和条件は衝撃であり、その精神的ショックは、戦い続けた場合よりも大きいのではないかとさえ言われた。しかしこの苦い経験は、フィンランド国民の愛国心を高めさせ、共産主義への敵意を確固たるものにした[15]




  1. ^ a b Trotter, William R. Chapter 24 Aftershocks
  2. ^ 石野裕子 2017, p. 147.
  3. ^ 石野裕子 2017, p. 148.
  4. ^ a b c d e 高田理孝「冬戦争 : 何故、小国の人々は大国の横暴に屈しなかったのか」『都留文科大学研究紀要= 都留文科大学研究紀要』第66巻、都留文科大学、2007年、25-37頁、doi:10.34356/00000197ISSN 0286-3774CRID 13900092248737592322023年7月6日閲覧 
  5. ^ a b c d 石野裕子 2017, p. 150.
  6. ^ 石野裕子 2017, p. 151.
  7. ^ 石野裕子 2017, p. 151-152.
  8. ^ フィンランドとの不可侵条約廃棄を通告『朝日新聞』昭和14年11月30日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p382 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  9. ^ 国際連盟がソ連に撤兵を求める最後通告『東京日日新聞』昭和14年12月13日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p383
  10. ^ ソ連、連盟の調停を拒否『東京日日新聞』昭和14年12月14日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p383)
  11. ^ 連盟総会、ソ連除名を決議『東京朝日新聞』昭和14年12月15日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p383)
  12. ^ 除名は連盟の敗北とタス通信『東京日日新聞』昭和14年12月17日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p383)
  13. ^ Trotter, William R. (2002) [1991]. The Winter War: The Russo–Finnish War of 1939–40 (5th ed.). pp. 237-238. New York (Great Britain: London): Workman Publishing Company (Great Britain: Aurum Press). ISBN 1-85410-881-6.
  14. ^ Trotter, William R. (2002) [1991]. The Winter War: The Russo–Finnish War of 1939–40 (5th ed.). Aurum Press. ISBN 1-85410-881-6. pp. 237–238
  15. ^ a b c d マルッティ・ハイキオ, 藪長千乃, 岡沢憲芙『フィンランド現代政治史』早稲田大学出版部、2003年、25頁。ISBN 465703409X全国書誌番号:20416373https://id.ndl.go.jp/bib/000004117593 
  16. ^ 『『雪中の奇跡』』梅本弘、1994年新装版、268頁。 






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