冬戦争 背景

冬戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/27 07:26 UTC 版)

背景

歴代のソビエト政権にとって、革命発祥の地であり、ソ連第2の大都市であるレニングラードと近すぎるフィンランド国境は、重要な安全保障上の課題であった。1930年代後半になりナチス・ドイツの膨張政策が明らかになり、ドイツに強い警戒感を抱いていたスターリンにとって、この状況は座視できるものではなくなった。

外交交渉(1938-1939春)

そこでソ連側は、1938年4月より、NKVD職員で在ヘルシンキ大使館員のボリス・ヤルツェフを通じ、フィンランド政府と非公式な交渉を始めた。交渉を始めたのは、フィンランドを通ってドイツがソ連北部や、レニングラードに侵攻することを恐れたためである。ソ連はバルト海の防衛強化のため、オーランド諸島の再要塞化を求めたが[2]、この時の最終的なソ連側の要求は、

というものであった。しかし、フィンランド側は応ぜず、この交渉は、1939年春には行き詰まってしまった。

1939年5月には、ソ連では比較的西側と協調路線であったマクシム・リトヴィノフが外務人民委員(外相相当)を更迭され、スターリンは、後任にヴャチェスラフ・モロトフを起用した。

外交交渉(1939年秋)

1939年8月23日、ソ連とナチス・ドイツの間に相互不可侵条約が調印されたが、この協定には、東欧を独ソの勢力圏に分割する秘密議定書が含まれており、この中でドイツはフィンランドがソ連の勢力圏に属することを認めた。

ソ連のポーランド侵攻から、まもなくバルト三国の外相はモスクワに呼ばれ9月29日にエストニア、10月5日ラトビア10月10日にはリトアニアが、領土内にソ連軍基地の設置を認める自動延長の相互援助条約を強制的に結ばされた。

バルト三国との交渉より、やや遅れてソ連からフィンランドに二国間の懸案の問題について協議したい申し入れがあり、直接交渉が10月11日からモスクワで始まった。このときソ連と交渉にあたったのは、フィンランド内戦終結後に首相経験をもち、駐ソ特命大使であったパーシキヴィである[3]。翌12日にスターリンが出席した会談で提示されたソ連側の要求は、さらに厳しくなっており、おおよそ以下の条件であった。

  • レニングラード湾(フィンランド湾)の4つの島嶼の割譲
  • カレリア地峡のフィンランド国境(レニングラードから32 km)を、ヴィープリの東30 kmまで西へ移動
  • カレリア地峡の防衛線(マンネルヘイム線)の撤去
  • ハンコ半島の30年間の租借および海軍基地の設置と約5,000人のソ連軍の駐留
  • 上記、駐留赤軍の交代の為のフィンランド領内の鉄道による通行権
  • 以上の代償として、ソ連は、東カレリアのレポラ、ポラヤルヴィを割譲する。

ちなみに割譲要求地域は2,200 km2、交換条件の東カレリアの面積は5,000 km2である[4]。このソ連側の要求については、フィンランド側では2つの考えがあった。

ユホ・エルッコ外相らはこの要求が最後という保証はなく、マンネルヘイム線を撤去してしまえば、次の要求に対して軍事的に抵抗するすべもなくなる。よって、ソ連側の要求には、応じられないと結論づけた。

一方、パーシキヴィ(モスクワ派遣交渉団代表)、ベイノ・タンネル(蔵相、フィンランド社会民主党党首)、マンネルヘイムらは、フィンランド国防軍の現状や欧州の情勢からして、ソ連の要求を峻拒することは出来ないので、ソ連の要求を受け入れよ、という意見であった。

結局、フィンランド政府はレニングラード湾口の島嶼の割譲とカレリア地峡の国境線を若干西へ移動させる、譲歩案を示したもののソ連側はそれには応ぜず、10月14日には第二会談が行われたが、議論はまとまらず交渉団はソ連の提案を直接協議するため一旦帰国する[5]。10月23日にソ連との会談は再開されたが、交渉は難航した。フィンランドはフィンランド湾東部に位置する諸島の割譲は認めたものの、ハンコ半島の要求は拒絶した[5]。これに対しソ連はソ連自身が介入しない形でのオーランド諸島のフィンランドによる武装化を提案した。ハンコ半島についても、駐留する兵力は4000人に限り、期間もドイツとイギリスの戦争状態が終結するまでとし、カレリア地峡の国境も、以前のソ連案よりもわずかに南にずらすとした[5]。この提案はフィンランド政府にとって予想外であり、交渉団は再び帰国する。この際ソ連の要求に対してフィンランドが強く反対できたのは、ソ連との戦争が始まってもスウェーデンや、西ヨーロッパ諸国が自国を支援してくれるという思惑があるためである。実際、北欧各国への支援を求めるため、スウェーデンで北欧首脳会談が開かれているが、この会談では北欧の団結力を確認しただけで支援の決定などは無かった[5]。またこの時マンネルヘイムや、パーシキヴィはソ連の要求をある程度呑むことを主張したが、フィンランド政府はさらなる要求がくると考え二人の主張を拒絶した[6]。11月3日にモスクワで交渉が再開された会談でも、平行線を辿った。フィンランドはハンコ半島の要求については終始拒否したが、ソ連はこれの代わりにその東に位置するヘンマンソー、コー、ハスト、ブソの島々の割譲あるいは租借を求めた。これに対し交渉団はフィンランド政府の回答を待ったが、11月8日に届いた回答はソ連案の全面的拒絶だった。これにより交渉は決裂し、11月13日に交渉団は帰国した[7]

マンネルヘイムは交渉の決裂後も政府に再交渉を求めていたが、11月26日にはとても現政権の国防外交政策について責任は持てないとして、国防評議会座長職の辞表を政府に提出した。




  1. ^ a b Trotter, William R. Chapter 24 Aftershocks
  2. ^ 石野裕子 2017, p. 147.
  3. ^ 石野裕子 2017, p. 148.
  4. ^ a b c d e 高田理孝「冬戦争 : 何故、小国の人々は大国の横暴に屈しなかったのか」『都留文科大学研究紀要= 都留文科大学研究紀要』第66巻、都留文科大学、2007年、25-37頁、doi:10.34356/00000197ISSN 0286-3774CRID 13900092248737592322023年7月6日閲覧 
  5. ^ a b c d 石野裕子 2017, p. 150.
  6. ^ 石野裕子 2017, p. 151.
  7. ^ 石野裕子 2017, p. 151-152.
  8. ^ フィンランドとの不可侵条約廃棄を通告『朝日新聞』昭和14年11月30日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p382 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  9. ^ 国際連盟がソ連に撤兵を求める最後通告『東京日日新聞』昭和14年12月13日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p383
  10. ^ ソ連、連盟の調停を拒否『東京日日新聞』昭和14年12月14日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p383)
  11. ^ 連盟総会、ソ連除名を決議『東京朝日新聞』昭和14年12月15日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p383)
  12. ^ 除名は連盟の敗北とタス通信『東京日日新聞』昭和14年12月17日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p383)
  13. ^ Trotter, William R. (2002) [1991]. The Winter War: The Russo–Finnish War of 1939–40 (5th ed.). pp. 237-238. New York (Great Britain: London): Workman Publishing Company (Great Britain: Aurum Press). ISBN 1-85410-881-6.
  14. ^ Trotter, William R. (2002) [1991]. The Winter War: The Russo–Finnish War of 1939–40 (5th ed.). Aurum Press. ISBN 1-85410-881-6. pp. 237–238
  15. ^ a b c d マルッティ・ハイキオ, 藪長千乃, 岡沢憲芙『フィンランド現代政治史』早稲田大学出版部、2003年、25頁。ISBN 465703409X全国書誌番号:20416373https://id.ndl.go.jp/bib/000004117593 
  16. ^ 『『雪中の奇跡』』梅本弘、1994年新装版、268頁。 






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