伽耶 伽耶の概要

伽耶

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/12 09:59 UTC 版)

伽耶
各種表記
ハングル 가야
漢字 伽耶
発音 カヤ
日本語読み: かや
RR式 Gaya
MR式 Kaya
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三国時代の朝鮮半島
教科書で一般的な範囲(375年頃)とその他の解釈(4世紀から5世紀頃)
半島西南部の解釈には諸説がある。

朝鮮の歴史
考古学 朝鮮の旧石器時代朝鮮語版
櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 BC
伝説 檀君朝鮮
古朝鮮 箕子朝鮮
辰国 衛氏朝鮮
原三国 辰韓 弁韓 漢四郡
馬韓 帯方郡 楽浪郡

三国 伽耶
42-
562
百済
高句麗
新羅
南北国 熊津都督府安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892
安東都護府
668-756
渤海
698-926
後三国 新羅
-935

百済

892
-936
後高句麗
901-918
女真
統一
王朝
高麗 918-
遼陽行省
東寧双城耽羅
元朝
高麗 1356-1392
李氏朝鮮 1392-1897
大韓帝国 1897-1910
近代 日本統治時代の朝鮮 1910-1945
現代 朝鮮人民共和国 1945
連合軍軍政期 1945-1948
アメリカ占領区 ソビエト占領区
北朝鮮人民委員会
大韓民国
1948-
朝鮮民主主義
人民共和国

1948-
Portal:朝鮮

呼称

414年に高句麗が建立した広開土王碑文にある「任那加羅」が史料初見とされている[1]

中国梁国の時の537年に蕭子顯が編纂した史書の南齊書によると、加羅國,三韓種也。建元元年,國王荷知使來獻。詔曰:「量廣始登,遠夷洽化。加羅王荷知款關海外,奉贄東遐。可授輔國將軍、本國王。 と記録されている。

720年に成立した『日本書紀』では、加羅任那が併記される[2]

中国の史書では、『宋書』で「任那、加羅」と併記される[3]。その後の『南斉書』、『梁書』、660年に成立した『翰苑[4]801年成立の『通典[5]、『太平御覧』(983年成立)、『冊府元亀』(1013年成立)も同様の併記をしている。唯一、清代に編纂された『全唐文』に於いてのみ伽耶の表記が用いられている[6]

古くは「加羅」表記が一般的であったが、現在の日本ではもっぱら「伽耶」表記が用いられている。「三国史記」新羅本紀の奈解尼師今6年(202年)条に「伽耶」という表記があるが[7]、「三国史記」同14年(210年)条には「加羅」と表記されていた[7]

概要

三国史記』『三国遺事』などの文献史料は、3世紀までは加羅諸国の神話・伝承を伝えるに過ぎないが、農耕生産の普及と支石墓を持った社会形態などの考古学資料からの推定により紀元前1世紀頃に部族集団が形成されたと推測されてきている。1世紀中葉に中国正史の『三国志』や『後漢書』で「其(倭国?)の北岸」または「倭の西北端の国」の『狗邪韓国』(慶尚南道金海市)とその北に位置する弁韓諸国と呼ばれる小国家群が出現している。後に狗邪韓国(金官国)となる地域は、弥生時代中期(前4、3世紀)以後になると従来の土器とは様式の全く異なる弥生式土器が急増し始めるが、これは後の狗邪韓国(金官国)に繋がる倭人が進出した結果と見られる[8]首露王により建国されたとされる「金官国」が統合の中心とする仮説が主張されている。4世紀初めに高句麗が勢力を拡張すると、馬韓は大部分が百済に統合されたが、弁韓の諸国は一体化することなく存続した。

加羅と関係の深い任那諸国は6世紀になると百済や新羅の侵略を受け、西側諸国は百済へ武力併合され、東側の諸国は新羅により滅ぼされていった[9]。532年には南部の金官国が新羅に滅ぼされ、また562年には洛東江流域の加羅諸国を新羅が滅ぼした。

加羅の権力層には倭系のを帯びる集団が検出される。浜田耕策は「朝鮮半島からの『渡来人』が古代日本の国家形成に果たした成果を評価する『渡来人』史観は近年注目されている百済や伽耶にも倭人の『渡来人』がいたことが見られるように、この相互の移住民国家の形成史のなかでどのように評価するかの問題にも発展して新たに考察される課題であろう」と指摘している[10]


註釈

  1. ^ 永楽10年(400年)条
  2. ^ 『日本書紀』(720年成立)崇神天皇条から天武天皇条にかけて「任那」が多く登場する。欽明天皇23年の条には、加羅国(から)、安羅国(あら)、斯二岐国(しにき)、多羅国(たら)、率麻国(そつま)、古嵯国(こさ)、子他国(こた)、散半下国(さんはんげ)、乞飡国(こつさん、さんは、にすいに食)、稔礼国(にむれ)の十国の総称を任那と言う、とある。
  3. ^ 438年条には「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記
  4. ^ 翰苑』新羅条で「任那」が見え、その註(649年 - 683年成立)に「新羅の古老の話によれば、加羅と任那は新羅に滅ばされた」とある。
  5. ^ 通典』辺防一新羅の条に「加羅」と「任那諸国」の名があり、新羅に滅ぼされたと記されている
  6. ^ 巻1000
  7. ^ a b 上垣外憲一『倭人と韓人』 講談社学術文庫2003年,39-41頁
  8. ^ 石丸あゆみ、「朝鮮半島出土弥生系土器から復元する日韓交渉 : 勒島遺跡・原ノ辻遺跡出土事例を中心に」『東京大学考古学研究室研究紀要』 2011年3月 第25号 pp.65-96, NCID AA11190220, 東京大学大学院人文社会系研究科・文学部考古学研究室
  9. ^ 宋讃燮、洪淳権(著)「概説 韓国の歴史 (世界の教科書シリーズ)(世界の教科書シリーズ(9))」藤井正昭(訳)ISBN 978-4750318424
  10. ^ 浜田耕策 (2005年6月). “共同研究を終えて” (PDF). 日韓歴史共同研究報告書(第1期) (日韓歴史共同研究): p. 375. オリジナルの2020年7月15日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200715223533/https://www.jkcf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2019/11/1-11j.pdf 
  11. ^ 韓国の旅-金海博物館-
  12. ^ a b c d e 広開土王碑
  13. ^ a b 三国史記
  14. ^ 南斉書での表記は加羅。伽羅(高霊)
  15. ^ 三国史記中の靺鞨とは、殆どの場合濊貊を指している。
  16. ^ 大伽耶王陵展示館
  17. ^ 伴跛の現在地はかつては星州郡だと考えられていた。
  18. ^ 卓淳の現在地はかつては大邱広域市だと考えられていた。
  19. ^ a b c これまで全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳が確認されている(國學院大學「韓国全羅道地方の前方後円墳調査」)。1983年慶尚南道の松鶴洞1号墳(墳丘長66メートル)が前方後円墳であると嶺南大学の姜仁求教授が実測図を発表した(『歴史通』2014年1月号 ironna)。姜仁求教授によると、全長66メートル、後円径37・5メートル、前方部が若干丸みを帯びているが、円墳2基ではなく前方後円墳であるという。後円部上に石材が露呈するが、それは鳥居龍蔵が1914年に発掘した竪穴式石室の一部である。(『韓国の古代遺跡 2百済・伽耶篇』中央公論社ISBN 978-4120016912)。後の調査により、松鶴洞1号墳は、築成時期の異なる3基の円墳が偶然重なり合ったもので前方後円墳ではないとする見解を韓国の研究者が提唱した(沈奉謹編『固城松鶴洞古墳群 第1号墳 発掘調査報告書』東亜大学校博物館、2005年)。しかし、松鶴洞1号墳は、日本の痕跡を消すために、改竄工事を行った疑惑が持たれている(『歴史通』2014年1月号 ironna)。森浩一によると、1983年に訪ねた際はダブルマウンドが丘陵上に造営されており、前方後円墳であることに躊躇なく、その後鳥居龍蔵が戦前に撮影した側面写真が発見されたことで確認できたが、その後、現在の形が近年の変形であるという噂話があったが、その噂話が意図的に流されていると感じていたという。松鶴洞古墳の発掘は、「発掘もある種の遺跡の破壊」という考古学の事例であり、近年の変形を示す兆候は存在しないが、原形がダブルマウンドなのかの前提を抜いて、円墳連続説が発掘開始直後から提出され、結論ありきの結果が流布されており、「これは学問の手順として明らかに間違っているし、学問の名において文化財を変形・改変することになる。」と批判している。これに関して1996年撮影写真は前方後円墳であったものが、2012年撮影写真では3つになっているという指摘がある(出典に写真あり『歴史通』2014年1月号 ironna
  20. ^ a b 李 2005, p. 228
  21. ^ 『朝鮮史』巻2第3編第6章、p24-p25
  22. ^ 「加羅の起源続考」『史学雑誌』5編3号、p68
  23. ^ 『朝鮮史』巻2第3編、p24-p25
  24. ^ 李 2005, p. 234
  25. ^ 「朝鮮の古伝説考」『史学雑誌』5編12号、p15-p16
  26. ^ a b c d e f 中央日報 2004
  27. ^ [1]
  28. ^ 大型土器、埋葬習俗…北部九州文化の確かな足跡
  29. ^ 韓国勒島出土人骨に関する形質人類学的研究
  30. ^ a b http://yayoi.senri.ed.jp/research/re11/KKim.pdf
  31. ^ a b http://japanese.joins.com/article/024/139024.html
  32. ^ 鄭大均『日本のイメージ』中央公論社中公新書 1439〉、1998年10月。ISBN 978-4121014399 p177
  33. ^ a b c d 井上2004 pp.106-107.
  34. ^ 韩日“共同研究历史”分歧大 https://archive.md/hdCZE.
  35. ^ 宮脇淳子は、「かつて朝鮮半島南部にあった『任那日本府』とはどういうものであったかというと、商業ルートの洛東江沿いに建設された都市同盟である『任那』諸国の中に、倭人の『将軍府』、つまり軍団司令部と屯田兵部落があったと考えられる。」とする。宮脇淳子『世界史のなかの満洲帝国』PHP研究所PHP新書 387〉、2006年2月。ISBN 978-4569648804 
  36. ^ 従来、日本軍の改竄の可能性があるとされてきたが、2006年4月に中国社会科学院の徐建新により、1881年に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表された。
  37. ^ 自倭背急追至任那加羅從拔城城即歸服安羅人戍兵拔新羅城鹽城倭寇大潰城内逃拔城安羅人戍兵
  38. ^ 井上秀雄「古代朝鮮」講談社学術文庫、2004年,85頁
  39. ^ 國學院大學「韓国全羅道地方の前方後円墳調査」。他韓国報道等の資料 [2][3]
  40. ^ 門田誠一「韓国古代における翡翠製勾玉の消長」『特別展 翡翠展 東洋の神秘』2004、及び『日本考古学用語辞典』学生社
  41. ^ 早乙女雅博/早川泰弘 「日韓硬玉製勾玉の自然科学的分析」 朝鮮学報 朝鮮学会
  1. ^ 『三國史記』列傳 第一:金庾信 上
    金庾信 王京人也 十二世祖首露 不知何許人也 以後漢建武十八年壬寅 登龜峯 望駕洛九村 遂至其地 開國 號曰加耶 後改爲金官國 其子孫相承 至九世孫仇亥 或云仇次休 於庾信爲曾祖 羅人自謂少昊金天氏之後 故姓金 庾信碑亦云 軒轅之裔 少昊之胤 則南加耶始祖首露 與新羅同姓也






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