伽耶 加羅の言語

伽耶

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/12 09:59 UTC 版)

加羅の言語

加羅の前身である弁韓の言語については、『三国志』東夷伝は辰韓の言語(新羅語の前身)と似ている(相似)と記すが、『後漢書』東夷伝は違いがある(有異)と述べており、矛盾する記述となっている。加羅語について具体的に記述したものとしては、『三国史記』巻44・斯多含伝に「栴檀梁城門名。加羅語謂門為梁。」とあるものが唯一の例である。「梁」は新羅語の訓読字で「tur(tol)」と読むことから、加羅語では門のことを「tur(tol)」と言ったことがわかる。李基文は本例を日本語の「to(戸・門)」や満洲語の「duka」と結び付け、高句麗語夫余系言語の影響を示唆している。

その他では、『三国史記』の加羅地域の地名表記から加羅語を再構する試みも行われている。李基文は、「玄驍県、本推良火県。一云三良火。」(巻34)から「推」の訓「mir」に基づき数詞「mir(三)」を、「漆隄県、本漆吐県。」(同)から普通名詞「to(堤)」を、それぞれ再構し、前者については高句麗語及び日本語と、後者については高句麗語と、それぞれ結び付けることができるのではないかと指摘している。

加羅研究史

日本における、明治以降の任那と加羅の研究は、明治期の那珂通世菅政友らの研究に始まり、津田左右吉を経て戦後の末松保和『任那興亡史』において大成された。

考古学調査によると、狗邪韓国と金官国があった金海市には、数多くの日本の様式やそれに類似した遺物が発見されている。甕棺は、吉野ケ里遺跡をはじめ、弥生時代の北部九州甕棺だけに見られる特徴的な埋葬形態だが、鳳凰台遺跡に隣接する金海貝塚からは多くの甕棺が出土している。しかし最近の考古学調査では、弥生時代より早い3世紀に、大型の甕棺が栄山江流域に多く発見されることが分かった。栄山江流域は馬韓の領域だった。加羅の甕棺は馬韓の古墳様式とよく似ていて、加羅は馬韓と交流があったと見ている[27]。吉野ケ里遺跡から鋳型が出土した巴形銅器や、吉野ケ里遺跡の出土品に酷似した細形銅剣など、金海貝塚の出土品は国立金海博物館に展示されている[28]。 また、弥生時代にあたる韓国靭島遺跡から、抜歯をした人骨やイモガイの腕輪や日本の弥生土器(須玖I式、II式土器など)が多数出土し、恐らくは、日本の土器が搬入されたのではなく、「日本人が移住していた」と考えられるという研究結果が出ている[29]

民族史観に基づいた解釈の流行

第二次世界大戦後の研究は、日本の出先機関を否定する前提に立つものであり、現代韓国の政治的欲求に解釈が左右されることが多い[30][31]

1970年代以降、全く調査されていなかった洛東江流域の旧加羅地域の発掘調査が進み、文献史料の少ない加羅史を研究するための材料が豊富になってきたが、現代韓国の政治的欲求に基づいた新民族史観に沿う仮説が盛んに主張されている[30][31]

高麗大学教授で日本古代史学者の金鉉球は、「『日本書紀』には倭が任那日本府を設置して、朝鮮半島南部を支配しながら、百済・高句麗・新羅三国の三国文化を搬出していったことになっているのに、韓国の中学校・高校の歴史教科書では、百済・高句麗・新羅三国の文化が日本に伝播される国際関係は説明がなされず、ただ高句麗・新羅・百済の三国が日本に文化を伝えた話だけを教えており、さらに百済・高句麗・新羅三国の文化を日本に伝えたとされる話は、朝鮮最古の史書は12世紀の『三国史記』であり朝鮮の古代の史書は存在しないため、すべて『日本書紀』から引用している。しかし、日本の学者が『日本書紀』を引用して、倭が朝鮮半島南部を支配したという任那日本府説を主張すると、韓国の学界はそれは受け入れることができないと拒否するのは、明白な矛盾であり、こうしたダブルスタンダードゆえに日本の学界が韓国の学界を軽く見ているのではないか」と指摘している[32]

1990年代になると加羅研究の対象が従来の金官国・任那加羅(いずれも金海地区)の倭との関係だけではなく、田中俊明の提唱になる大伽耶連盟の概念でもって、高霊地域の大加羅を中心とする加羅そのものの歴史研究に移行していった。また1990年代後半からは、主に考古学的側面から、卓淳(昌原)・安羅(咸安)などの諸地域への研究が推進される一方で、前方後円墳の発見[19] を踏まえて一部地域への倭人の集住を認める論考が出されている。

井上秀雄は、任那日本府は『日本書紀』が引用する逸書『百済本記』における呼称であり、『百済本記』とは百済王朝が倭国(ヤマト王権)に迎合的に書いた史書だとの主張した。これ基づき、井上は日本の従来研究を否定しようと試みている[33]。任那日本府について近代での朝鮮総督府のようなものが想定されることが多いが、実態は、半島南部の倭人の政治集団だとした[33]三国志『魏志』韓伝に倭について記載があるが、この倭は、百済や新羅が加羅諸国を呼称していたもので、百済・新羅に国を奪われた加羅諸国の政治集団を指すとする[33]。逸書『百済本記』の編者は、この加羅諸国の別名と、日本列島の倭国(ヤマト王権)とを結びつけたのであり、任那日本府とヤマト王権は直接的には何の関係も持たないとする仮説を打ち出した[33]。2010年、日本と韓国政府の支援を受けた共同調査チームは、朝鮮半島南部と加耶は古代日本の植民地ではなかったが、日本人は6世紀に活動を開始したと発表した。 『朝鮮日報』は今回の声明が両国外交関係の転換点になると考えている。[34]

高句麗・新羅に対抗するために百済・倭国と結び、倭国によって軍事を主とする外交機関(後に「任那日本府」と呼ばれた)が設置されていたとする説もある。吉田孝によれば、「任那」とは、高句麗新羅に対抗するために百済・倭国(ヤマト王権)と結んだ任那加羅(金官加羅)を盟主とする小国連合で政治的領域を指し、地理的領域である伽耶地域とは重なり合うが一致しないこと、倭国が置いた軍事を主とする外交機関を後に「任那日本府」と呼んだと主張し、百済に割譲した四県は任那加羅が倭人を移住させた地域であったとした。また、532年の任那加羅滅亡後は安羅に軍事機関を移したが、562年の大加羅の滅亡で拠点を失ったという(→吉田1997 pp.74-78.)。

倭国および任那との関連

加羅地域にヤマト朝廷から派遣された倭人の軍人・官吏、或いはヤマト朝廷に臣従した在地豪族が、当地で統治権・軍事指揮権・定期的な徴発権を有していたとする説もある[35]

倭国の半島での活動については、『日本書紀』『三国史記』など日本、中国や朝鮮の史書にも記されており、3世紀末の『三国志』魏書東夷伝倭人条には、朝鮮半島における倭国の北限が狗邪韓国(くやかんこく)とある。または「韓は南は倭と接する」とある。

また高句麗の広開土王碑について改竄説が否定されたことで[36]、倭が391年に新羅や百済や加羅を臣民としたことがあらためて確認された。高句麗は新羅の要請を受けて、400年に5万の大軍を派遣し、新羅王都にいた倭軍を退却させ、さらに任那・加羅に迫った。ところが任那加羅の安羅軍などが逆をついて、任那加羅の従抜城を守らせた[37][38]

日本列島での事例が大半である墓形式の「前方後円墳」が朝鮮半島でも幾つか発見されている[19]

朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉に成立したもので、百済が南遷する前は任那であり、金官国を中心とする任那の最西部であった地域のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物、遺構をともなう[39]。そのほか、新羅百済任那で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土(高句麗の旧領では稀)しており、朝鮮半島にはヒスイ(硬玉)の原産地がなく、東アジア地域においても日本とミャンマーに限られること[40] や、化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じであることが判明した[41] ことなど、倭国との交易、半島における倭国の活動などが研究されている。

ギャラリー


註釈

  1. ^ 永楽10年(400年)条
  2. ^ 『日本書紀』(720年成立)崇神天皇条から天武天皇条にかけて「任那」が多く登場する。欽明天皇23年の条には、加羅国(から)、安羅国(あら)、斯二岐国(しにき)、多羅国(たら)、率麻国(そつま)、古嵯国(こさ)、子他国(こた)、散半下国(さんはんげ)、乞飡国(こつさん、さんは、にすいに食)、稔礼国(にむれ)の十国の総称を任那と言う、とある。
  3. ^ 438年条には「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記
  4. ^ 翰苑』新羅条で「任那」が見え、その註(649年 - 683年成立)に「新羅の古老の話によれば、加羅と任那は新羅に滅ばされた」とある。
  5. ^ 通典』辺防一新羅の条に「加羅」と「任那諸国」の名があり、新羅に滅ぼされたと記されている
  6. ^ 巻1000
  7. ^ a b 上垣外憲一『倭人と韓人』 講談社学術文庫2003年,39-41頁
  8. ^ 石丸あゆみ、「朝鮮半島出土弥生系土器から復元する日韓交渉 : 勒島遺跡・原ノ辻遺跡出土事例を中心に」『東京大学考古学研究室研究紀要』 2011年3月 第25号 pp.65-96, NCID AA11190220, 東京大学大学院人文社会系研究科・文学部考古学研究室
  9. ^ 宋讃燮、洪淳権(著)「概説 韓国の歴史 (世界の教科書シリーズ)(世界の教科書シリーズ(9))」藤井正昭(訳)ISBN 978-4750318424
  10. ^ 浜田耕策 (2005年6月). “共同研究を終えて” (PDF). 日韓歴史共同研究報告書(第1期) (日韓歴史共同研究): p. 375. オリジナルの2020年7月15日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200715223533/https://www.jkcf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2019/11/1-11j.pdf 
  11. ^ 韓国の旅-金海博物館-
  12. ^ a b c d e 広開土王碑
  13. ^ a b 三国史記
  14. ^ 南斉書での表記は加羅。伽羅(高霊)
  15. ^ 三国史記中の靺鞨とは、殆どの場合濊貊を指している。
  16. ^ 大伽耶王陵展示館
  17. ^ 伴跛の現在地はかつては星州郡だと考えられていた。
  18. ^ 卓淳の現在地はかつては大邱広域市だと考えられていた。
  19. ^ a b c これまで全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳が確認されている(國學院大學「韓国全羅道地方の前方後円墳調査」)。1983年慶尚南道の松鶴洞1号墳(墳丘長66メートル)が前方後円墳であると嶺南大学の姜仁求教授が実測図を発表した(『歴史通』2014年1月号 ironna)。姜仁求教授によると、全長66メートル、後円径37・5メートル、前方部が若干丸みを帯びているが、円墳2基ではなく前方後円墳であるという。後円部上に石材が露呈するが、それは鳥居龍蔵が1914年に発掘した竪穴式石室の一部である。(『韓国の古代遺跡 2百済・伽耶篇』中央公論社ISBN 978-4120016912)。後の調査により、松鶴洞1号墳は、築成時期の異なる3基の円墳が偶然重なり合ったもので前方後円墳ではないとする見解を韓国の研究者が提唱した(沈奉謹編『固城松鶴洞古墳群 第1号墳 発掘調査報告書』東亜大学校博物館、2005年)。しかし、松鶴洞1号墳は、日本の痕跡を消すために、改竄工事を行った疑惑が持たれている(『歴史通』2014年1月号 ironna)。森浩一によると、1983年に訪ねた際はダブルマウンドが丘陵上に造営されており、前方後円墳であることに躊躇なく、その後鳥居龍蔵が戦前に撮影した側面写真が発見されたことで確認できたが、その後、現在の形が近年の変形であるという噂話があったが、その噂話が意図的に流されていると感じていたという。松鶴洞古墳の発掘は、「発掘もある種の遺跡の破壊」という考古学の事例であり、近年の変形を示す兆候は存在しないが、原形がダブルマウンドなのかの前提を抜いて、円墳連続説が発掘開始直後から提出され、結論ありきの結果が流布されており、「これは学問の手順として明らかに間違っているし、学問の名において文化財を変形・改変することになる。」と批判している。これに関して1996年撮影写真は前方後円墳であったものが、2012年撮影写真では3つになっているという指摘がある(出典に写真あり『歴史通』2014年1月号 ironna
  20. ^ a b 李 2005, p. 228
  21. ^ 『朝鮮史』巻2第3編第6章、p24-p25
  22. ^ 「加羅の起源続考」『史学雑誌』5編3号、p68
  23. ^ 『朝鮮史』巻2第3編、p24-p25
  24. ^ 李 2005, p. 234
  25. ^ 「朝鮮の古伝説考」『史学雑誌』5編12号、p15-p16
  26. ^ a b c d e f 中央日報 2004
  27. ^ [1]
  28. ^ 大型土器、埋葬習俗…北部九州文化の確かな足跡
  29. ^ 韓国勒島出土人骨に関する形質人類学的研究
  30. ^ a b http://yayoi.senri.ed.jp/research/re11/KKim.pdf
  31. ^ a b http://japanese.joins.com/article/024/139024.html
  32. ^ 鄭大均『日本のイメージ』中央公論社中公新書 1439〉、1998年10月。ISBN 978-4121014399 p177
  33. ^ a b c d 井上2004 pp.106-107.
  34. ^ 韩日“共同研究历史”分歧大 https://archive.md/hdCZE.
  35. ^ 宮脇淳子は、「かつて朝鮮半島南部にあった『任那日本府』とはどういうものであったかというと、商業ルートの洛東江沿いに建設された都市同盟である『任那』諸国の中に、倭人の『将軍府』、つまり軍団司令部と屯田兵部落があったと考えられる。」とする。宮脇淳子『世界史のなかの満洲帝国』PHP研究所PHP新書 387〉、2006年2月。ISBN 978-4569648804 
  36. ^ 従来、日本軍の改竄の可能性があるとされてきたが、2006年4月に中国社会科学院の徐建新により、1881年に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表された。
  37. ^ 自倭背急追至任那加羅從拔城城即歸服安羅人戍兵拔新羅城鹽城倭寇大潰城内逃拔城安羅人戍兵
  38. ^ 井上秀雄「古代朝鮮」講談社学術文庫、2004年,85頁
  39. ^ 國學院大學「韓国全羅道地方の前方後円墳調査」。他韓国報道等の資料 [2][3]
  40. ^ 門田誠一「韓国古代における翡翠製勾玉の消長」『特別展 翡翠展 東洋の神秘』2004、及び『日本考古学用語辞典』学生社
  41. ^ 早乙女雅博/早川泰弘 「日韓硬玉製勾玉の自然科学的分析」 朝鮮学報 朝鮮学会
  1. ^ 『三國史記』列傳 第一:金庾信 上
    金庾信 王京人也 十二世祖首露 不知何許人也 以後漢建武十八年壬寅 登龜峯 望駕洛九村 遂至其地 開國 號曰加耶 後改爲金官國 其子孫相承 至九世孫仇亥 或云仇次休 於庾信爲曾祖 羅人自謂少昊金天氏之後 故姓金 庾信碑亦云 軒轅之裔 少昊之胤 則南加耶始祖首露 與新羅同姓也






伽耶と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「伽耶」の関連用語

伽耶のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



伽耶のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの伽耶 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS