今川義元 生涯

今川義元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/07 15:30 UTC 版)

生涯

太平記英勇伝三:今川治部大輔義元(落合芳幾作)

内乱と家督相続

永正16年(1519年)、今川氏親の三男として生まれる[注釈 2]。母は父の正室である中御門宣胤の娘(寿桂尼)。ただし、義元は本来は側室の子で花倉の乱後に寿桂尼と養子縁組をしたとする説もある(後述)。生まれた時は既に跡継ぎとして、同母兄の氏輝、および彦五郎がいたために4歳で仏門に出され[注釈 3]駿河国富士郡瀬古善得寺の琴渓承舜に預けられた。享禄2年(1529年)に承舜が没したために、彼の弟子であった九英承菊(後の太原雪斎)がその役割を継承した[7]。その後、雪斎と共に建仁寺に入り常庵龍崇[注釈 4]の元で得度し栴岳承芳(せんがくしょうほう)[注釈 5]となった。さらに雪斎と共に妙心寺大休宗休に学び学識を深めた[9]

その後、氏輝の命を受けて京都から駿河に戻るが、その直後の天文5年(1536年)に氏輝が急死する。この時点ではまだ兄の彦五郎がいたために継承権はなかったが、彦五郎までもが氏輝と同日に死亡したために継承権が巡ってきた。氏輝・彦五郎と同じ寿桂尼所生であることも後押しとなり、重臣たちから還俗を乞われた承芳は主君であり本流に当たる征夷大将軍足利義晴から偏諱を賜り、義元と名乗った。[注釈 6]だが当主継承は有力家臣の福島(くしま)氏の反対で混迷化し、最終的に福島氏は自家の血を引く義元の異母兄・玄広恵探を当主として掲げて反旗を翻した(花倉の乱)。

恵探側は今川館に攻め寄せる等攻勢をみせたが太原雪斎・岡部親綱ら義元側の家臣団の奮戦の前に苦戦が続いた。加えて義元が伊豆国静岡県伊豆半島)・相模国神奈川県西南部)を領する後北条氏からの支援を得ることに成功すると一層敗色は濃厚となり、花倉城の陥落を以って恵探は自害した。内乱を鎮めて家督相続を果たした義元は今川氏当主となり、自らに忠義を示した家臣を重用して支配体制を整えた。

統治初期の事績

戦国時代の甲信越

天文6年(1537年)2月、氏輝期まで抗争状態にあった甲斐国の守護・武田信虎の娘(定恵院)を正室に迎え、武田氏と同盟を結ぶ(甲駿同盟)。周囲の守りを固めんとして行われた甲駿同盟の成立は、結果的に旧来の盟友(駿相同盟)として自らの当主継承にも助力した北条氏綱の怒りを買い、同年同月、北条軍は駿河国富士郡吉原に侵攻した(第一次河東一乱)。花倉の乱による内部対立を引き摺ったまま家臣団の統制がとれなかった今川軍は、北条軍に対して適切な反撃が行えず河東(現在の静岡県東部)を奪われてしまう。義元は武田の援軍と連帯して領土奪還を試みたが、花倉の乱で恵探側に組した堀越氏井伊氏といった遠江に基盤を置く反義元派の武将らが義元から離反したため、家臣の反乱と北条氏の侵攻との挟撃状態に陥り、河東は北条氏に占領されたまま長期化の様相を見せた。

さらに追い討ちをかけるが如く、尾張国愛知県西部)の織田信秀が天文9年(1540年)に三河国(愛知県東部)に侵攻を開始した。義元は三河に援軍を送り三河の諸侯軍と連合して天文11年(1542年)に織田軍との一大決戦に臨むが、その猛攻の前に敗れたとされている(第一次小豆坂の戦い。ただしこの戦いは後世の創作である可能性もあり)。天文10年(1541年)、苦杯を嘗めさせられた北条氏綱が死去、北条氏は氏康が家督を継いだ。『高白斎記』によれば、同年5月25日に甲斐国の武田信虎は嫡男の武田晴信(信玄)を伴い、信濃国の諏訪頼重村上義清とともに信濃佐久郡侵攻を行う(海野平の戦い)。信虎は6月4日に甲斐へ帰国すると、6月14日に義元訪問のため駿州往還を経て駿河へ出立するが、晴信により路地を封鎖されるクーデターが発生する。義元は信虎の身柄を預かりつつ、家督を相続した晴信とも同盟関係を続け、高遠合戦では武田に援軍を派遣した。

苦しい状況が続く中、天文14年(1545年)、義元は氏康と敵対する山内上杉憲政と同盟を結び、北条氏を挟み撃ちにする策を立てた(第二次河東一乱)。同年8月22日、義元と憲政との同盟によって河東と関東方面に戦力が分断される形となった北条軍に対して、義元は武田の援軍を得て河東に侵攻し、同じく関東においては両上杉氏(上杉憲政・上杉朝定)が古河公方足利晴氏らと連合し8万の大軍で河越城を包囲した。河東では今川軍が北条軍を打ち破り、関東では上杉連合軍が河越城を包囲し続け、北条軍は西の今川軍と東の上杉連合軍との挟撃状態に陥り、窮地に立たされた。進退窮まった氏康は武田晴信に仲介を頼み、義元との交渉で河東の地を今川家に返還するという条件で和睦、今川氏は北条氏との争いに実質的に勝利した。これにより一先ず西方に安堵を得た氏康は関東方面に戦力を集中させ、河越城の戦いにおいて苦境から一転、逆転勝利を収めた。河東の地の遺恨を巡って両者の緊張関係は続いたが、北条氏が関東方面への侵攻に集中していったことで徐々に両者の緊張関係は和らいでいった。

一方、三河においては西三河の松平広忠の帰順を受け、嫡男・竹千代(後の徳川家康)を人質に迎え入れる約束を交わし、尾張の織田家の妨害を受けつつも、着実に三河勢の従属化に努めていった。この際、護送を請け負った三河田原城(愛知県田原市)の国人領主・戸田康光が裏切って竹千代を敵方の織田氏に送り届けてしまうという事件が起こった。これは前年に義元が戸田氏の一族である戸田宣成、戸田吉光の一族を滅ぼしたため、戸田宗家の当主であった康光が反乱を起こしたものであった。これに対して義元は戸田宗家を武力でもって徹底的に滅ぼし、その居城であった田原城に有力家臣である朝比奈氏を入れた。ただし、これについては近年、松平広忠・戸田康光連合軍と松平家内部の反主流派であった松平信孝酒井忠尚の要請を受けて介入した今川義元・織田信秀連合軍の戦いであり、その結果戸田氏は義元に滅ぼされ、松平氏は信秀に岡崎城を奪われて竹千代を人質に出すことで許されたとする新たな見方も浮上している[12]

天文17年(1548年)、義元の三河進出に危機感を覚えた織田信秀が侵攻してくるが、義元の軍師である雪斎と譜代重臣である朝比奈泰能らを大将とした今川軍は織田軍に大勝した。(第二次小豆坂の戦い)。またこの頃までに松平信孝を滅ぼした松平広忠も再び今川方に帰属している。

領国拡大

天文18年(1549年)に松平広忠が死去すると、義元は領主が死去して不在となった松平家に対して支配していた西三河地域を今川家の領土にしようとした。嫡子の竹千代は織田の人質となっていた事から、岡崎付近に向けて今川軍を派遣した。岡崎城(現在の愛知県岡崎市)に家臣を送り込み、事実上松平家の所領を領有した。松平家の支配下にあった三河国の国人領主を直接今川家の支配下に取り込んでいった。また、織田方の三河安祥城を攻略(現在の愛知県安城市)して、織田家の勢力を事実上三河から駆逐した。これにより継承直後から続いた西の織田氏との争いは今川氏勝利の形で決着した。また、このおり信秀の庶長子にあたる城将・織田信広を捕らえ、人質交換によって竹千代を奪還、実質自らの配下とすることで尾張進出への足掛かりを着々と築いていく[注釈 7]。天文20年(1551年)に織田信秀が死去すると尾張への攻勢を一段と加速させる。

更に天文22年(1553年)には亡父の定めた今川仮名目録に追加法(仮名目録追加21条)を加えたが、ここにおいて現在の今川領国の秩序維持を行っているのは足利将軍家ではなく今川氏そのものであることを理由に、室町幕府が定めた守護使不入地の廃止を宣言し、守護大名としての今川氏と室町幕府間に残された関係を完全に断ち切った。これは、今川氏は既に室町幕府の権威によって領国を統治する守護大名ではなく、自らの実力によって領国を統治する戦国大名であることを明確に宣言したものでもあった。

天文23年(1554年)、嫡子・今川氏真に北条氏康の娘(早川殿)を縁組し、武田氏・北条氏と互いに婚姻関係を結んで甲相駿三国同盟を結成した(この会談は善徳寺の会盟とも呼ばれている)。これにより後顧の憂いを断った。

また弘治元年(1555年)に行われた第二次川中島の戦いでは武田晴信と長尾景虎の仲介を行って両者の和睦を成立させた。駿河・遠江・三河で検地も実施している。その一方で、三河を巡る織田氏との対立が激化し、これに触発された吉良氏奥平氏などが今川氏に叛旗を翻した。これを三河忩劇(みかわそうげき)と呼ぶ。

永禄元年(1558年)には、支配下においていた松平元康をして、三河加茂郡寺部城の鈴木重教を攻めさせて下した。

同年、義元は氏真に家督を譲り隠居する。これ以後、今川氏の本国である駿河・遠江に発給される文書の著名は氏真名となる。一方、義元は新領土である分国の三河の鎮圧および経営に集中し、それが成るとさらには尾張以西への侵攻に力をそそぐこととなる。

最期

永禄3年(1560年)5月には那古野城を目指し駿・遠・三2万余の軍を率いて尾張国への侵攻を開始[注釈 8]。織田方に身動きを封じられた大高城(現在の名古屋市緑区大高)を救うべく、大高周辺の織田方諸砦を松平元康などに落とさせる。幸先良く前哨戦に勝利した報せを受けて沓掛城で待機していた本隊を大高城に移動させる。ところがその途上、桶狭間(おけはざま)山で休息中に織田信長の攻撃を受け、松井宗信らと共に奮戦するも、織田家家臣・毛利良勝に愛刀・義元左文字と首級を奪われた。享年42。

その後、残存した今川兵によって駿府まで連れ帰ろうと試みられたが、首の無い義元の遺体は想像以上に腐敗の進行が早く、三河国宝飯郡埋葬された。

死後

織田方に討ち取られた首級は、鳴海城に留まり奮戦する義元の重臣・岡部元信と信長との開城交渉により後に返還され、駿河に戻った。義元の戦死により氏真が後を継いだが、この混乱に乗じて松平元康(後の徳川家康)が西三河で自立(独立)した。この動きに追従する様に東三河でも戸田氏・西郷氏などが離反、松平氏の傘下へ転属していく。この様な三河の動揺が隣国・遠江に伝播すると、正誤の判別がつかない噂が飛び交い、遠江領内は敵味方の見極めさえ困難な疑心暗鬼の状態に陥ってしまった(遠州錯乱)。この動揺期において氏真は若輩だったこともあり人心掌握の才に欠け、井伊直親飯尾連龍などを粛清することで事態の収拾を試みたが、逆に人心の離反を加速させてしまい家臣(国人領主)の離脱が相次いだ。多くの国人領主の支持を失い自国領内すらまともに統治できない状態となった今川氏は、見る見るうちに衰退していき義元の死から9年後の永禄12年(1569年)、氏真は信玄と家康によって駿河・遠江を追われ、大名としての今川家は滅亡した。

駿河追放後、氏真は妻・早川殿の実家北条家に身を寄せたが武田・北条の同盟が復活すると徳川家康の家臣となる。江戸期に今川氏は高家旗本として幕臣に列した。


注釈

  1. ^ 一説には妹ではなく井伊直平の娘で、義元の側室となり後に関口親永に嫁いだという。また、別の説では親永の実兄である瀬名氏俊の室との誤認とする説もある。
  2. ^ 「護国禅師三十三回忌香語写」の記述より[3][4]。ただし、今川彦五郎を義元の兄とみるか弟とみるかで見解が異なり、黒田基樹は四男説を採る[5]
  3. ^ 江戸時代の元禄頃に成立した説話集『武家雑記』によると、寺に預けられた理由について「義元は足が短く胴長の障害者であったため寺に入れられた」と記されている。しかし、武将の子が寺に入るのは、学問を身に付けるため、さらには兄弟間の家督争いを避けるためであり、珍しいことではなかった(上杉謙信も、幼少期には仏門に出されている)ため、これは義元を貶めるため、少年時代までさかのぼり、事実を歪曲したものと思われる[6]。もっとも、近年出された義元庶出説に従えば、嫡子ではないために家督相続が最初から想定されていなかったから、という説明も可能である。
  4. ^ 建仁寺262世。東常縁の子。兄に駿河・最勝院の素純がおり、その縁で駿河を訪れて雪斎とも交流があった[8]
  5. ^ 梅岳承芳(ばいがくしょうほう)とも。
  6. ^ 今川家側の史料に彦五郎の名を記したものはなく、『今川記』『今川氏系図』には彦五郎の記載はない。彦五郎に関する史料は、いずれも今川家以外の人物によって記されたものである。大永6年(1526年)に行われた今川氏親の葬儀には「今川氏親公葬記」という詳細な記録が残されているが、彦五郎が出席して記録に残されてしかるべき状況にも名はない[10]。こうした不可解な状況から、今川義元が家督継承後に記録を書き換え、彦五郎の存在を抹消したという推測さえある[10]。その後、玄広恵探の方が彦五郎よりも年長であることが確定したことをきっかけとして、氏親が死去したときに彦五郎は幼少で参列を許されなかったとする説[4]、一方で栴岳承芳(義元)は僧籍を有していたため幼少でありながら特別に参列を許されたとする説[5]が出されている。また、今川氏真が彦五郎の菩提を弔ったことを示す文書も発見されている[11]
  7. ^ ただし、親族の後見のない幼少の竹千代を岡崎城に置いて松平家を存続させるのは事実上不可能であり、義元が竹千代を人質としたのは事実上保護を加えて今川傘下の国衆として同家の存続を図ったとする見方もある[13][14]
  8. ^ 桶狭間合戦当時の最盛期の義元の領国は、駿河・遠江・三河の3カ国69万石(太閤検地)である。なお、尾張国は領国化されておらず、尾張国内に、反織田方として山口氏・服部氏などが今川に呼応する動きを見せている。日本軍参謀本部作成の日本戦史における桶狭間役の分析では、石高の低い駿河・遠江・三河が水増しされ、さらに尾張が領国に組み入れられ、100万石と推定され、1万石につき250人の兵役で、総兵力2万5千とされているが、信長公記では4万5千となっており、正確な実数は不明である。
  9. ^ かつては富春院の北側に氏真が父の菩提を弔うために建立した陽光山天澤院(開山は臨済寺三世・東谷宗杲和尚)があったが、江戸時代末期に衰退したため、木像を臨済寺に移し、明治24年(1892)には廃寺となり、墓も臨済寺に移した。その跡地に慰霊塔が建立された。また、富春院には義元の位牌(高さ58cm)がある。
  10. ^ 岡部家は代々岸和田藩主。
  11. ^ 今川氏親の次女で寿桂尼の甥である中御門宣綱の正室。夫と共に度々駿河に下向して寿桂尼を頼っていたため、彼女の実娘と考えられる。なお、氏親の長女である徳蔵院(吉良義堯室)も寿桂尼の実娘と考えられる[20]
  12. ^ 軍師の太原雪斎が桶狭間前に亡くなったことも影響している。詳しくは本人の欄を参照。
  13. ^ 異本の金吾利口書および宗滴夜話には、今川殿となっており、義元も指すかは不明瞭である。

出典

  1. ^ 二本松市史. 第5巻 (資料編 3 近世 2) 、著者 二本松市 編集・発行、出版者 二本松市、出版年 昭和 54.2 1979-2002 第二編 25 世臣伝 一之上/604〜616頁より引用
  2. ^ 【戦国こぼれ話】桶狭間の戦いで無念の死を遂げた戦国大名今川義元は、公家化した軟弱大名だったのか(渡邊大門)”. Yahoo!ニュース (2021年4月28日). 2021年9月29日閲覧。
  3. ^ 大石 2019, pp. 10–11, 「総論 今川義元の生涯」.
  4. ^ a b 黒田 2019, p. 101, 大石泰史「花蔵の乱再考」.
  5. ^ a b 黒田 2017, pp. 58–61.
  6. ^ 『桶狭間の戦い』小学館〈新説 戦乱の日本史 第10号〉、2008年。 
  7. ^ 今枝愛眞「戦国大名今川氏と禅宗諸派」『静岡県史研究』14号、1997年。 /所収:黒田基樹 編『今川氏親』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第二六巻〉、2019年4月、264-265頁。ISBN 978-4-86403-318-3 
  8. ^ 大石 2019, p. 12, 「総論 今川義元の生涯」.
  9. ^ 小和田哲男『週刊ビジュアル戦国王』第77号、2017年12月19日、23頁。 
  10. ^ a b 小和田 2004, p. 68.
  11. ^ 永禄11年3月10日付円良寺宛氏真判物:「円良寺文書」所収/『戦国遺文』今川氏編2186号
  12. ^ 黒田 2019, 柴裕之「松平元康との関係」「桶狭間合戦の性格」.
  13. ^ 黒田 2019, p. 278, 柴裕之「松平元康との関係」.
  14. ^ 黒田 2019, pp. 298–300, 柴裕之「桶狭間合戦の性格」.
  15. ^ 「今川義元もっと知って/来年生誕500年祭/静岡 地元で票世紀再評価・発信」『日本経済新聞』夕刊2018年7月7日掲載の共同通信記事(2018年7月12日閲覧)
  16. ^ 『読売新聞』令和元年6月5日水曜日25面記事
  17. ^ 笹間良彦『イラストで時代考証 日本合戦図図典』雄山閣、1997年。 
  18. ^ 小川剛生『武士はなぜ歌を詠むのか 鎌倉将軍から戦国大名まで』角川学芸出版、2008年7月、241-242頁。 
  19. ^ 軟弱もの、公家かぶれ…負のイメージ根強い今川義元 復権へ地元が全力”. 産経ニュース (2020年5月19日). 2022年8月27日閲覧。
  20. ^ a b c d 黒田 2017, pp. 37–63.
  21. ^ a b c d 黒田 2019, pp. 86–108, 大石泰史「花蔵の乱再考」
  22. ^ a b c 黒田 2019, pp. 213-218・228-229, 浅倉直美「北条氏との婚姻と同盟」
  23. ^ 浅倉直美「花蔵の乱をめぐって」『戦国史研究』77号、2019年5月。 
  24. ^ 『NHK大河ドラマストーリーガイド「風林火山」前編』NHK出版、2006年12月、57頁。ISBN 4-14-923345-4 
  25. ^ 大石 2019, pp. 35–36, 「総論 今川義元の生涯」.
  26. ^ 今川義元「一度の敗北だけで…」静岡市長ら復権宣言 - 『毎日新聞』朝刊2017年5月20日






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