二本松の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/13 21:41 UTC 版)
戦後
二本松城には明治新政府軍が入り、新政府軍は会津、仙台を戦略目標とした東北戦争において大きな前進を遂げた。北の福島藩に向かえば、中村へ進出した平潟方面軍と合同して仙台藩を直接攻撃可能であるし、西に向かえば会津藩の領地へついに足を踏み入れることができる。その2つの選択肢のどちらかを選ぶか、板垣退助と大村益次郎の討議の末に会津攻めが決定し、母成峠の戦いへつながっていった。
戊辰戦争終結後、二本松藩は改易の対象となって多くの人材、資産を失った上に、10万石から5万石へ領地が減少した。しかし、長国は自ら隠居することで婿養子の丹羽長裕を後継とし、家の存続には成功した。版籍奉還後は長裕が二本松藩知事となり、廃藩置県により二本松県となるまでその任に当たった。
二本松の戦いの影響として、三春藩の「裏切り」から派生した悪感情が、「会津と長州」「秋田と仙台」の対立同様に地域社会に残される形となった。しかし、時代が下るにつれて対立感情は和らいでおり、現在では当時の歌にその名残が残る程度とされている。
参考文献
- 大山柏、1968、『補訂 戊辰役戦史』、時事通信社 ISBN 4-7887-8840-3
- 太田俊穂、1980、『幕末維新戊辰戦争事典』、新人物往来社
- 石川林、1998、『事件で綴る幕末明治維新史 下』、朝日新聞名古屋本社編集制作センター
- 東雲さくら原作/まきお作画、2013、『二本松少年隊物語――霞の天地』、幻冬舎
脚注
関連項目
注釈
- ^ 阿部正外は開明派の1人で、慶応元年(1865年)に日米和親条約の締結と交易の必要性を説く建白書を朝廷に奏上したため、攘夷思考の孝明天皇の不興を招き、勅令という形で白河城主を追放された。すでに幕府の権威は凋落しており、孝明天皇からの干渉は人事におよんでいた。
- ^ この時、二本松藩の兵士のみが白河城に留まっており、新政府軍と誤認した会津藩兵の砲撃を受けて2名の戦死者を出している
- ^ 5月30日の段階で朝廷に陳情書を提出して自らの立場を弁明していた
- ^ 守山藩も勤王派であり、思想的には新政府に同調していた
- ^ このうち備前藩には郡山から仙台藩が全兵力で救援に来た場合、反転して守山、三春を支援する役目を負っていた。
- ^ 20代の隊長と30代の副隊長の二名以外は15歳前後の少年たちで、最年少は12歳
- ^ 『丹羽家記』および『復古記』によれば、小川の奮戦に感じ入った薩摩藩兵らは、その武勇にあやかろうと其の肝を食した。当時としては、敬意の表し方の一つであり、異常な行動ではない。
- ^ 太田俊穂の著作は「陣地を制圧した際に民家から2名の藩士が抜刀して襲いかかり、薩摩藩兵数名を斬り伏せ、その部隊の指揮官である野津道貫も白兵戦で応じて負傷して後退し、ついに二本松藩士2名は周囲の兵士によって射殺された」というエピソードを紹介している。一方、戊辰役戦史の大山は「野津は格闘の末に、終に敵を倒した」として、その具体的な内容は明らかにしていない。しかし、野津は戦後、二人の冥福を祈る碑を立ててその武勇を嘆賞した。
出典
- ^ (二本松少年隊を参照)
- ^ 大山(1968:488)
- ^ 大山(1968:489)
- ^ 二本松藩兵は後に全軍が二本松城に帰城することになる。落城を参照
- ^ 「背後から撃ってはいない」大山(1968:472)
- ^ 「三春藩は西軍に転じ、仙台藩兵へ背後から銃撃を加えた。三春藩はこれを誤射として仙台藩に謝罪した」太田(1980:249)
- ^ 大山(1968:473)
- ^ a b 太田(1980:248)
- ^ 大山(1968:475)
- ^ 大山(1968:477)
- ^ 太田(1980:249)
- ^ 石川(1998:68-69)
- ^ a b 大山(1968:490)
- ^ 石川(1998:68)
- ^ a b c 石川(1998:70)
- ^ a b 大山(1968:492)
- ^ 26日説と27日説の二つの説がある。
- ^ (紺野庫治氏の最終調査研究結果報告、1981年(昭和56)に刊行された『絵でみる二本松少年隊』参照)
- ^ (二本松藩は幼年隊幼年兵とする)
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