二本松の戦い
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二本松の戦い
本宮を抑えた新政府軍は続いて二本松城を攻め落とす方針をとる。この時、新政府軍の南の郡山には数を減らしたとはいえ仙台藩の兵力が駐屯していたため、二本松攻めが長引けば挟撃される恐れのある作戦だった。補訂戊辰役戦史をまとめた大山柏はこれまで合理的な戦略を続けてきた新政府軍には珍しい作戦とその非合理性に考察を加え、その背景には積極策を好む薩摩藩兵が派閥の異なる板垣を「手ぬるい」と突き上げて攻勢に出させたものと見ている[13]。
新政府軍は本宮に忍藩、大垣藩ら280名[14]を置いて郡山を警戒させるとともに、郡山の南にある守山藩に柳川藩と大村藩の計440名を配置し、有事の先は白河城にある部隊と合同して敵を背後から攻める方針をとる。これは28日に仙台藩兵と交戦し、旧態依然の機動力を確認したためにとられた措置だった[13]。
二本松城へ向かう部隊は二隊に分かれ、一つは二本松城と阿武隈川を挟んで至近に位置する小浜から出撃する長州藩3中隊、薩摩藩4中隊に砲兵1隊、備前藩665名の編成[注釈 5]であり、もう一隊は板垣自らが率いる本宮の主力部隊(薩摩6中隊、砲兵2隊、土佐藩、彦根藩、佐土原藩)であり、小浜隊は東から、板垣支隊は南から二本松城を目指して7月29日午前6時に出陣した。実際には郡山の旧幕府軍は本宮の戦闘後の夜間に仙台藩領へと撤退しており、二本松藩を救援できる戦力を有していなかった[15]。
二本松藩は軍師小川平助の指揮の元、防戦の支度を始めていた。二本松城は丘陵と阿武隈川という天然の地形を利用した山城で、高地に二本松の12小隊が展開し、後方には仙台藩3小隊、会津藩5小隊が後詰として待機していた。だが、二方面から攻める新政府軍に対しては4kmの防衛線を守らねばならず、二本松藩には根本的に兵力が不足していた[16]。そのため、老年の予備兵に加えて少年からなる二本松少年隊までも[注釈 6]が動員された。さらに小川は不利を補うべく、自ら1小隊と共に本陣から南に離れた位置にある絶竣で知られる尼子平に突出する形で陣地を形成し、本宮からの板垣支隊への妨害を図った。二本松の戦いに先立つ28日、病を患いながらも城に留まろうとする藩主長国を無理に駕籠に乗せて二本松の北15kmにある水原に撤去させる。二本松城には軍事総督として家老の富穀が残った。
板垣支隊
29日、本宮を出た板垣支隊(土佐藩迅衝隊)は一路二本松城へ向かっていたが、尼子平にさしかかると小川の1小隊から一斉に射撃を受けて行軍が停止した。すぐに先陣を行く薩摩藩11番隊がこれに反撃しようと尼子平に向かうが、切り立った地形を利した小川を崩すことができずにいた。代わって砲隊に任せようとするも、薩摩藩に随行して近づきすぎたために射角が大きくなりすぎて砲撃が叶わない。使用できない山砲に変えて威力が劣るものの使用可能な130ミリの携臼砲を使うしかない場面だったが、射撃の中でその作業は容易に進まなかった[16]。後続の薩摩藩12番隊は先行する11番隊の苦境を見て援護を開始し、佐土原藩、土佐藩、彦根藩もそれぞれ尼子平の包囲に動く。
砲隊は支援を受けてようやく砲撃の体勢が整い、板垣支隊は尼子平の小川の部隊に総攻撃を仕掛けた。尼子平は抗戦の末に陥落し、小川も戦死する[注釈 7]。これにより、板垣支隊は二本松城の目前の大壇陣地へ砲撃が届く距離に移動し、激戦の末に大壇陣地を攻略[注釈 8]してついに二本松城に到達する。しかし、板垣支隊が尼子平に手間取っているうちに、東から攻め込んだ小浜支隊がいち早く二本松城に突入し、街の随所からは火の手があがっていた。
小浜支隊
小浜支隊は阿武隈川を越える必要があったが、二本松までわずか12kmの距離にあり、薩摩藩1番隊を先頭にして板垣支隊よりも一時間早い29日午前5時に出発した。それにもかかわらず濃霧の中で船舶を確保するのに手間取り、舟を確保できた後も敵前渡河を強いられることになった。しかし、二本松城に東を守る守備隊は老年の予備兵であり、彼らの武装はほとんどが鎧兜に槍といった出で立ちで、火器はわずかに足軽が火縄銃を持つ程度だった。そのため、新政府軍の渡河を妨げる手段はなく、かえって砲撃が加えられると足軽隊は動揺して城に逃げ込んでしまった。残された老年兵も浮き足立ち、城に戻る者や、新政府軍に斬り込んでは射殺される者が相次いだ。小浜支隊はほとんど抵抗を受けないまま市街戦へと突入する。
落城
二本松藩の預かり城の白河小峰城(白河口の戦い参照)、棚倉藩(棚倉町)、守山藩(郡山市)、三春藩・小野新町(田村郡三春町と小野町)等の各地に転戦し釘付けにされていた遊撃隊隊長大谷志摩を始め一千数百余りの二本松藩兵たちは二本松城に帰城した。軍事総裁丹羽丹波の指揮に従いほぼ休み無く半日で体制を立て直した。7月上旬から26日〜27日[17]までに不足していた卒(兵士)を補うために62名[18]の少年兵[19]の徴兵を行った。大壇口を始めとする城外の陣地をほぼ攻略され、二本松藩の指揮官らは二本松城に撤退して最後の抵抗に移ろうとしていた。長国を米沢藩に脱出させた際に仙台藩の護衛がついたが、それはそのまま同盟に対する人質となって二本松藩は降伏を選ぶことができなかった[15]。二本松藩の望みは会津藩と仙台藩の援軍だが、両藩とも大軍を割ける状態ではなく、派遣された援軍も二本松城にたどり着く前に要所に置かれた新政府軍によって半壊の被害を受けて撤退してしまっていた。また、城内の仙台藩兵、会津藩兵も城を脱出し、後には逃げ場所のない二本松藩兵のみが残された。
29日の正午、二本松城にこもる重臣らは抵抗をついに断念する。城に自ら火を放つと、家老の富穀以下7名は次々と自刃して城と運命をともにした。この時、城内と城外が新政府軍によって隔てられ、城外にあった二本松少年隊に指示を送ることができなかったことがさらなる悲劇をもたらす。激戦の最中に二本松少年隊の隊長と副隊長が相次いで戦死し、指揮できる者がいない中、二本松少年隊40名は最前線に放置される事態に陥っていた。彼らは戦場を彷徨う果てに1人ずつ離れ離れになり、ついに新政府軍との戦闘に巻き込まれて1人1人命を落としていく。その中には13歳になる少年兵と遭遇した土佐藩兵が、幼さに驚愕して生け捕りにしようとするも、抵抗されたために射殺するしかなかったケースもあった[15]。
この落城により、二本松藩は家老以下18名の上級職全てが戦死した。二本松藩の死者は218名におよび、その中には13歳から17歳までの少年兵18名も含まれている。会津藩は39名、仙台藩は19名の死者を出し、対する新政府軍は17名の死者に留まったが、二本松藩の激しい抵抗により多くの戦傷者が発生し、その戦いぶりは当時一部隊の隊長だった野津道貫によって「戊辰戦争中第一の激戦」と賞された。
注釈
- ^ 阿部正外は開明派の1人で、慶応元年(1865年)に日米和親条約の締結と交易の必要性を説く建白書を朝廷に奏上したため、攘夷思考の孝明天皇の不興を招き、勅令という形で白河城主を追放された。すでに幕府の権威は凋落しており、孝明天皇からの干渉は人事におよんでいた。
- ^ この時、二本松藩の兵士のみが白河城に留まっており、新政府軍と誤認した会津藩兵の砲撃を受けて2名の戦死者を出している
- ^ 5月30日の段階で朝廷に陳情書を提出して自らの立場を弁明していた
- ^ 守山藩も勤王派であり、思想的には新政府に同調していた
- ^ このうち備前藩には郡山から仙台藩が全兵力で救援に来た場合、反転して守山、三春を支援する役目を負っていた。
- ^ 20代の隊長と30代の副隊長の二名以外は15歳前後の少年たちで、最年少は12歳
- ^ 『丹羽家記』および『復古記』によれば、小川の奮戦に感じ入った薩摩藩兵らは、その武勇にあやかろうと其の肝を食した。当時としては、敬意の表し方の一つであり、異常な行動ではない。
- ^ 太田俊穂の著作は「陣地を制圧した際に民家から2名の藩士が抜刀して襲いかかり、薩摩藩兵数名を斬り伏せ、その部隊の指揮官である野津道貫も白兵戦で応じて負傷して後退し、ついに二本松藩士2名は周囲の兵士によって射殺された」というエピソードを紹介している。一方、戊辰役戦史の大山は「野津は格闘の末に、終に敵を倒した」として、その具体的な内容は明らかにしていない。しかし、野津は戦後、二人の冥福を祈る碑を立ててその武勇を嘆賞した。
出典
- ^ (二本松少年隊を参照)
- ^ 大山(1968:488)
- ^ 大山(1968:489)
- ^ 二本松藩兵は後に全軍が二本松城に帰城することになる。落城を参照
- ^ 「背後から撃ってはいない」大山(1968:472)
- ^ 「三春藩は西軍に転じ、仙台藩兵へ背後から銃撃を加えた。三春藩はこれを誤射として仙台藩に謝罪した」太田(1980:249)
- ^ 大山(1968:473)
- ^ a b 太田(1980:248)
- ^ 大山(1968:475)
- ^ 大山(1968:477)
- ^ 太田(1980:249)
- ^ 石川(1998:68-69)
- ^ a b 大山(1968:490)
- ^ 石川(1998:68)
- ^ a b c 石川(1998:70)
- ^ a b 大山(1968:492)
- ^ 26日説と27日説の二つの説がある。
- ^ (紺野庫治氏の最終調査研究結果報告、1981年(昭和56)に刊行された『絵でみる二本松少年隊』参照)
- ^ (二本松藩は幼年隊幼年兵とする)
- 1 二本松の戦いとは
- 2 二本松の戦いの概要
- 3 二本松の戦い
- 4 戦後
固有名詞の分類
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