ハンガリー動乱 ハンガリー動乱の概要

ハンガリー動乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/03 15:12 UTC 版)

ハンガリー動乱

首都ブダペストを制圧するソ連軍
戦争冷戦
年月日1956年10月23日 - 11月10日
場所ハンガリー人民共和国
結果ソビエト連邦の勝利
  • 革命の失敗
交戦勢力
ソビエト連邦
ハンガリー人民共和国
ハンガリー革命軍
指導者・指揮官
ニキータ・フルシチョフ
ユーリ・アンドロポフ
イワン・コーネフ
イワン・セーロフ
ゲオルギー・ジューコフ
ワシーリー・ソコロフスキー
ゲレー・エルネー
カーダール・ヤーノシュ
ナジ・イムレ 
マレーテル・パール英語版 
ティルディ・ゾルターン
戦力
部隊31,550人
戦車1,130台[注釈 1]
不明
兵士・民兵・武装民間人
損害
ソ連軍死傷者:
722人死亡
1,251人負傷[3]
民間人2,500–3,000人[4]死亡(推定)
13,000人負傷(推定)
難民200,000人
冷戦
ハンガリーの歴史

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ハンガリー ポータル

注釈

  1. ^ ソ連側の参加兵力は情報源によって大きく異なる。国連総会のハンガリー問題特別委員会 (1957) の推定では兵士75,000-200,000人、戦車1,600-4,000両としている[1]が、21世紀に公開されたソ連側の記録では、ソ連側の兵力を31,550人、戦車・自走砲1,130両としている[2]
  2. ^ ソ連軍は1956年10月23日と停戦を挟んだ1956年11月1日の2回、動乱に介入した。
  3. ^ 名称については発言者の事件への評価によっても変化する[6]
  4. ^ 1905年ロシア1917年ロシア革命で結成されたソビエトと酷似し、1919年クン・ベーラが率いた革命政権でも主導的な役割を果たした。
  5. ^ 国民評議会は労働者評議会と似ていたが、地理的な面で統治を行った。
  6. ^ ほとんどの人民は、ソ連軍の撤退・伝統的な民族のシンボルの使用・民主的な議会・カトリック教会の自由・法整備を要求したが、一方で社会主義体制自体については継続を望んでいた。
  7. ^ 戦車2,500両・15万人の歩兵部隊。なお、侵攻作戦に参加した兵士の多くは読み書きができないかロシア語が話せない中央アジア出身の者であり、 彼らはベルリンナチスの反乱を壊滅しに来たのだと信じていた。また、1956年に起こっていた第二次中東戦争エジプトイギリスフランスと戦っていると信じていた兵士すら存在した。
  8. ^ 1960年代に発表されたCIAの推定によると、およそ1,200人が処刑された。
  9. ^ ラカトシュ・イムレヘッレル・アーグネシュ英語版リゲティ・ジェルジアンドルー・グローヴら。
  10. ^ この傾向は革命について書かれた多くの文書で見受けられる。
  11. ^ a b なお、日本社会主義協会は非難声明を出している。
  12. ^ この見方はアメリカで一般的で、特に『TIME』誌は1956年マン・オブ・ザ・イヤーにハンガリー動乱で蜂起に参加した市民をノミネートしている。
  13. ^ なお、呼称に関する論争については、「ハンガリー1956」50周年シンポ・ニュースNo.1(2006年6月14日) - ウェイバックマシン(2007年3月28日アーカイブ分)を参照のこと。
  14. ^ 当時のハンガリーの日本における呼称。
  15. ^ 小島はこれは「驕り」であるとしている[15]
  16. ^ 「ハンガリー事件でのソ連の軍事介入は、社会主義の大義、民族自決権に反する干渉行為であった[18]
  17. ^ 小島亮は「ニューレフト」と称している。
  18. ^ ソ連崩壊後の1990年代に入ると研究者の間で「ルネッサンス」とも例えられるほどソ連時代の公文書がロシア政府によって大量に開示され、ハンガリー動乱に関する歴史研究が大きく動き始めた。しかし、2000年代にプーチン政権が誕生すると開示されていた資料が再び非開示となった[20]
  19. ^ 鉄のカーテン撤去。汎ヨーロッパ・ピクニックへの協調。

出典

  1. ^ MOSZK.hu”. p. 56, para. 183. ?閲覧。
  2. ^ Maksim Moshkow's Library”. Lib.ru (2010年2月9日). ?閲覧。アーカイブ 2010年2月9日 - ウェイバックマシン(ロシア語)
  3. ^ Györkei, Kirov & Horvath 1999, p. 350
  4. ^ Bercov & Jackson 1997, p. [要ページ番号]
  5. ^ Special Committee on the Problem of Hungary” (1.47 MB). UN General Assembly (1957年). ?閲覧。 “Chapter V footnote 8”
  6. ^ a b c 小島 2003, p. [要ページ番号]
  7. ^ フルシチョフ, p. [要ページ番号]
  8. ^ 世界4月号 1957, p. [要ページ番号]
  9. ^ a b c 小島 2003, p. 100
  10. ^ 小島 2003, p. 101
  11. ^ 1957年1月号『世界』より
  12. ^ 世界2月号 1957, p. [要ページ番号]
  13. ^ 小島 2003, p. 103
  14. ^ 小島 2003, p. 62
  15. ^ 小島 2003, p. 130
  16. ^ 小島 2003, p. 104
  17. ^ 小島 2003, p. 156
  18. ^ 日本共産党 1989, p. 251
  19. ^ 小島 2003, p. 208
  20. ^ a b 奥村盛人. “「歴史を善悪で判断しない」日本人研究者が続けるウクライナ難民支援の覚悟と慟哭 - 奥村盛人 | Yahoo! JAPAN クリエイターズプログラム”. creators.yahoo.co.jp. 2022年5月29日閲覧。






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