ハンガリー動乱 経緯

ハンガリー動乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/21 14:45 UTC 版)

経緯

10月23日から11月3日

穴が開けられたハンガリーの国旗。ハンガリー人達は、抗議の意を込めて、国旗の中央に施されたソ連式の国章を切り抜いた。

1956年10月23日、ゲレーの退陣を求めて学生たちがブダペストをデモ行進し、多数の労働者もそれに加わった。夜になりデモ隊と秘密警察との間で衝突が始まると、ハンガリー勤労者党指導部は急遽、大衆に人気のあった前首相のナジ・イムレを復職させる決定をした。

翌24日、ナジは正式に首相に任命されたが、その頃ブダペストの町はすでに民衆とソ連軍の戦闘状態にあった。他の地域はソ連軍と革命派との間の停戦が行われたりソ連軍が革命の動きを阻止した管区もあるなど、平穏な状態が保たれていた。その後ブダペストのソ連軍も結局は戦闘を停止した。

夜のうちに労働者評議会[7] と国民評議会[8] が組織された。また1945年や1949年の弾圧以来、初めて政治的な要求を行う政党が結成されたが、大多数の民衆は社会主義を維持しようとする政党を支持した[9]。このような中で教会の名士たちを含む多くの政治囚たちが釈放された。また大衆はワルシャワ条約機構からの脱退をナジ政府に迫ったが、このことは再びソ連邦の介入を招くこととなった。

10月25日、ナジは戒厳令を取り下げた。街の人々の中にはソ連軍の戦車に近付き、兵士と話し合う者もいた。説得に応じたソビエト兵らは、ハンガリー人を戦車に載せ、国会前広場へと移動し約700人が集まった。しかし、突然発砲が始まった。国会前広場は血の海と化し約100人が死亡、約300人が負傷した。この事件については国家保衛庁の発砲が原因であるとの見解もある。

最も激しい戦闘はコルビン劇場のあるコルビン広場で起こった。民衆は火炎瓶を用いてソ連軍部隊に抵抗した。ミシュコルツでは労働者によるストが起きブダペストでナジと直談判をおこなっている。

10月27日夜には、ミコヤンの報告によると、ミコヤンとナジとの会談が行われ、その結果ソ連軍の撤退が宣言された。

10月29日には警察、軍隊、市民による国民防衛隊が結成、翌10月30日にはミコヤンが、ハンガリー軍に統制を任せるべきと報告している。これを受けて、ソ連軍の撤退が開始された。しかし同日午前9時頃共産党ブダペスト地区本部で秘密警察隊員と民衆との間で衝突が始まり、建物から出る武器を持たない秘密警察隊員らが次々と民衆により射殺された。その後も命乞いをしながら出てくる秘密警察隊員や勤労者党書記らがリンチされた挙句、遺体が街路樹に晒し者にされる事態になった。この事件を聞いたミコヤンは10月31日に反ソビエト活動の活発化を報告している。

フルシチョフはユーゴスラビアヨシップ・ブロズ・チトー大統領との会談で軍事介入の可能性に言及し、ナジは中立を宣言したが、国連や西側諸国からの具体的支援はなかった。

11月4日以降

ブダペスト、ジグモンド・モーリツ広場で破壊されたソ連軍のT-34-85戦車。砲塔は車体の後ろに下ろされている。

11月4日に新たなソ連軍部隊(戦車2500両・15万人の歩兵部隊)が侵攻した[10]。11月10日に労働者評議会や学生・知識人たちが休戦を呼びかけるまで、ハンガリーの労働者階級はソ連軍との戦闘で重要な役割を演じた。11月10日から12月19日の間、労働者評議会はソ連の占領軍と直接交渉し、結果として何人かの政治犯の釈放はできたが、ソ連軍を撤退させることはできなかった。加えて、ソ連邦に支援されたカーダール・ヤーノシュ(hu:Kádár János)が新しい共産主義政府を組織し、1956年以降ハンガリーを統治していくこととなった。散発的な武力抵抗やストライキは1957年の中頃まで続いた。

一方で、ナジはユーゴスラビア大使館に避難したが、安全確保を保障されて大使館を出たところをソ連軍に捕まり、ルーマニアに連行されて2年後に処刑されたほか、政権の閣僚や評議会を指導していた多くの市民がカーダール政府によって処刑された。1960年代に発表されたCIAの推定によると、およそ1200人が処刑。このとき逮捕された政治囚は1963年までにカーダール政府によってほとんどが釈放された。この一連の戦闘の結果として、ハンガリー側では死者が17000人に上り、20万人が難民となって亡命した[11]。ソビエト側も1900人の犠牲者を出した。




  1. ^ ソ連側の参加兵力は情報源によって大きく異なる。国連総会のハンガリー問題特別委員会 (1957) の推定では兵士 75,000-200,000 人、戦車 1,600-4,000 両としている (OSZK.hu (p. 56, para. 183) が、最近に公開されたソ連側の記録 (Lib.ru, Maksim Moshkow's Library (リンクは末尾)で閲覧できる) では、ソ連側兵力を 31,550 人、戦車・自走砲 1,130 両としている。 Lib.ru Archived 2010年2月9日, at the Wayback Machine. (ロシア語)
  2. ^ Györkei, Jenõ; Kirov, Alexandr; Horvath, Miklos (1999). Soviet Military Intervention in Hungary, 1956. New York: Central European University Press. p. 350. ISBN 963-9116-35-1 
  3. ^ UN General Assembly Special Committee on the Problem of Hungary (1957) Chapter V footnote 8 (PDF, 1.47 MB)
  4. ^ "B&J": Jacob Bercovitch and Richard Jackson, International Conflict : A Chronological Encyclopedia of Conflicts and Their Management 1945–1995 (1997)
  5. ^ 事件の名称については発言者の事件への評価によっても変化する。小島亮 『ハンガリー事件と日本-1956年・思想史的考察』 現代思潮新社、2003年 ISBN 978-4329004291/旧版中公新書、1987年参照
  6. ^ 草思社「フルシチョフ 封印されていた証言」
  7. ^ 1905年のロシアや1917年ロシア革命で結成されたソビエトと酷似し、1919年クン・ベーラが率いた革命政権でも主導的な役割を果たした
  8. ^ 国民評議会は労働者評議会と似ていたが、地理的な面で統治を行った
  9. ^ 殆どの国民は、ソ連軍の撤退・伝統的な民族のシンボルの使用・民主的な議会・カトリック教会の自由・法整備を要求したが、一方で社会主義体制自体については継続を望んでいた
  10. ^ なお、侵攻作戦に参加した兵士の多くは中央アジア出身の読み書きのできないかロシア語の話せない者であり、 彼らはベルリンにナチスの反乱を壊滅しに来たのだと信じていた。また、1956年に起こっていた第二次中東戦争エジプトイギリスフランスと戦っていると信じていた兵士すら存在した
  11. ^ ラカトシュ・イムレ、ヘッレル・アーグネシュ、リゲティ・ジェルジアンドルー・グローヴなど
  12. ^ この傾向は革命について書かれた多くの文書で見受けられる
  13. ^ a b なお、日本社会主義協会は非難声明を出している。
  14. ^ この見方はアメリカで一般的で、特にTIME誌は1956年のマン・オブ・ザ・イヤーにハンガリー動乱で蜂起に参加した市民をノミネートしている
  15. ^ なお、呼称に関する論争については、シンポジウム を参照のこと。 Archived 2007年3月28日, at the Wayback Machine.
  16. ^ a b 小島亮『ハンガリー事件と日本』
  17. ^ 小島亮『ハンガリー事件と日本』P62
  18. ^ 小島亮『ハンガリー事件と日本』P130(小島はこれは「驕り」であるとしている)
  19. ^ 「歴史のなかで」『世界』1957年4月号
  20. ^ a b c 小島亮『ハンガリー事件と日本』P100
  21. ^ 小島亮『ハンガリー事件と日本』P101
  22. ^ 『世界』1957年2月号「ハンガリア動乱をめぐって」
  23. ^ 小島亮『ハンガリー事件と日本』P103
  24. ^ 小島亮『ハンガリー事件と日本』P104
  25. ^ 小島亮『ハンガリー事件と日本』P156
  26. ^ 『日本共産党の六十五年(一)』(新日本文庫、1989年9月10日、251頁)第4章「敗戦後の党の再建から第7回党大会まで」(ソ連共産党第20回大会、ハンガリー事件)において、「ハンガリー事件でのソ連の軍事介入は、社会主義の大義、民族自決権に反する干渉行為であった」と総括している。
  27. ^ 小島亮『ハンガリー事件と日本』P208
  28. ^ 小島亮は「ニューレフト」と称している







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