シュヴァーベン戦争 背景

シュヴァーベン戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/07 14:58 UTC 版)

背景

従来の神聖ローマ帝国とスイスの関係

紛争の原因の1つは、原初同盟とハプスブルク家のあいだの根深い相互不信、対立心、敵意にあった。13世紀後半から、原初同盟の同盟員は、かつてハプスブルク家に属していた領土を徐々に支配するようになっていった。スイスは元々神聖ローマ帝国のなかで帝国直属身分英語版を獲得しており、皇帝にのみ臣従し、皇帝の臣下である諸侯や諸身分の人々に従う必要はなかった。このような立場のため、スイスは神聖ローマ帝国内で広大な自治領を獲得しており、特に皇帝がハプスブルク家から遠く離れた土地の大領主であるときは、彼らの独立性にいっそう拍車がかかった。皇帝たちはハプスブルク家を強力なライバルとみなしていたため、帝国直属身分の原初同盟を支援した。そうしてスイスは特権的地位を守ることに成功してきたのだった。しかし、1438年からハプスブルク家による神聖ローマ皇帝位の世襲が始まると、帝国と皇帝のスイスに対する扱いはそれまでと真逆になった。

15世紀におけるハプスブルク家の神聖ローマ帝国支配

皇帝フリードリヒ3世

フリードリヒ3世の統治

1452年、ハプスブルク家のフリードリヒ3世が帝位に就くと、スイスはもはや帝国からの支援には頼れなくなった。ハプスブルク家の公爵たちとの対立は、神聖ローマ帝国全体との対立となる可能性があった。しかし、フリードリヒ3世の治世下でこの不安は杞憂に終わった。フリードリヒ3世は1442年の古チューリッヒ戦争で原初同盟に反発してチューリッヒ市を支援したり、また原初同盟員の帝国直属身分を再確認を拒否したものの、彼の統治には問題が多くスイスに対して軍事行動を行う余裕はなかった。オーストリアではまず弟のアルブレヒト6世と対立し、その後マーチャーシュ1世圧迫を受けた。フリードリヒ3世はウィーンから追い出され、彼の宮廷は国中を放浪しなければならなくなった[2]

フリードリヒ3世はバイエルンヴィッテルスバッハ家と、チロル伯、フォアアールベルク公並びに前方オーストリア大公を務めていた従兄弟のジークムントの反発に直面した。原初同盟はジークムントとも対立していた。チロル司教の指名をめぐる紛争で教皇ピウス2世にジークムントが破門されると、スイスは以前のハプスブルク家の領土トゥールガウを併合した。1468年にジークムントはヴァルツフートの戦いでスイスと衝突した。ジークムントは莫大な身代金を支払って戦いを終わらせた。重要な領地を失わずに済んだが、身代金は1469年ブルゴーニュ公シャルルにスンドゴーとアルザス地方を担保とし借り入れたものだった[3]。シャルルはスイスと対立するジークムントを助けず、結局1474年にジークムントは領土を買い戻し、永久協定英語版と呼ばれる原初同盟との平和条約を締結した。だが、皇帝フリードリヒ3世はこの協定を認めなかった[2]。続くブルゴーニュ戦争では、スイスとジギスムントはともにブルゴーニュ公シャルルと戦った。

1487年、ジークムントはフリードリヒ3世の娘クニグンデ・フォン・エスターライヒを父王の意志に反してバイエルン公アルブレヒト4世と結婚させ、義理の甥となった彼にチロルと前方オーストリアの領土の一部を割譲した。1488年、これに対しフリードリヒ3世はシュヴァーベン同盟を設立し、軍事介入を行った。同盟はシュヴァーベンの諸都市、聖ゲオルギウスの盾連盟に所属するシュヴァーベン騎士たち、ヴュルテンベルクとチロル、フォアアールベルク伯爵たちから成っていた。彼らの助けを借りて、フリードリヒ3世はヴィッテルスバッハ家にジークムントが割譲した領土を返還するように迫った[2]

マクシミリアン1世の統治

マクシミリアンは、皇帝フリードリヒ3世の子である。ブルゴーニュ戦争中にナンシーの戦いでブルゴーニュ公シャルルが亡くなると、マクシミリアンは1477年にマリー・ド・ブルゴーニュと結婚してブルゴーニュ公国ブルゴーニュ伯領、ネーデルラントを継承した。ブルゴーニュ政権を中央集権的な政府として拡大しようとしたが、1482年、ネーデルラントの都市と伯爵たちの反乱を引き起こすこととなった。彼らを裏で扇動していたのはマクシミリアンに対抗してブルゴーニュ公国の継承権を主張していたフランス王シャルル8世とその姉である[4]。1488年、マクシミリアンは敵に囚われ、ブルッヘに4か月間監禁された。父王フリードリヒ3世がマクシミリアンの従兄弟のザクセン公アルブレヒト(勇敢公)指揮下の軍隊を送ってくれたため、ようやく解放された。この紛争の第一段階は1489年まで続き、マクシミリアンはネーデルラントを占領されたままだったが、その後ドイツに戻り、アルブレヒトを彼の代理人として残した。アルブレヒト3世はその後数年かかって、ネーデルラントにおけるハプスブルクの中央集権的統治を確立させた[5]

1486年、マクシミリアンは父王フリードリヒ3世の主導でローマ王に選ばれ、それ以来共同統治を行っていた。1490年にジークムントは退位してすべての領土をマクシミリアンに引き渡すよう強いられ、また1493年にフリードリヒ3世の死に際して、マクシミリアンは皇帝マクシミリアン1世として即位し、父親の財産を引き継いで全てのハプスブルク家領を手中に収めた。こうしてほとんど同時に多くの権力が神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世のもとに集まったのであった。一方同年、サンリスの和約英語版でブルゴーニュの所有権をめぐるフランスとの戦争の終結が宣言されたが、これによってハプスブルク家とフランスの対立は決定的になった。マクシミリアン1世はネーデルラントとブルゴーニュ伯領を維持したが、ブルゴーニュ公国はフランス王に譲らなければならなかった[6]。このようなことがありつつも、マクシミリアン1世は東はチロルとフォアアールベルク、北は前方オーストリア、西はブルゴーニュ伯領に及ぶ、原初同盟をほぼ取り囲む地域を支配することになった。

イタリア戦争とグラウビュンデン

前述のように、マクシミリアン1世はブルゴーニュ公シャルルの娘マリー・ド・ブルゴーニュと結婚してブルゴーニュ領を継承したため、ヴァロワ朝フランス王家との権力闘争に入り込むこととなった。さらに、マクシミリアン1世は1493年にミラノのスフォルツァ家の公女ビアンカと再婚し、ミラノ公を自負するフランス王と真っ向から対立した。こうしてハプスブルク家はイタリア戦争に直接的に関与せざるを得なくなった[1]グラウビュンデン、特にヴァル・ミュシュタイアー英語版は、チロルミラノの直接ルートである。ヴァル・ミュシュタイアーのウンブライルパス英語版はチロル南部のフィンシュガウ渓谷とイタリア北部のヴァルテッリーナを結んでおり、これらの地は当時のハプスブルク家にとって非常に重要であった。

しかし、この地域はハプスブルク家とクール司教が司法権をめぐって長年争っていた。1363年、ハプスブルク家は配下のチロル伯を使って、クール司教のみならず渓谷全体の支配を画策したが、そのためにグラウビュンデンの民衆の抵抗組織が成立した。それがゴッテスハウス同盟であり、後にグラウビュンデンの三同盟へと発展した。三同盟も原初同盟のように広範囲に及ぶ自治を達成したが、グラウビュンデン地方への影響力を保ち続けようとするハプスブルク家との絶え間ない闘争に巻き込まれることとなった。1470年代から1480年代の間に、オーストリア大公ジークムントは徐々に十裁判区同盟[注釈 1]の多くのコミューンで高度司法権を獲得することに成功し、皇帝マクシミリアン1世も領土拡張主義的戦略を継続した。三同盟はハプスブルク家に対抗し、1497-1498年に原初同盟と緊密な軍事同盟を結ぶようになった[7]

1495年の帝国の改革

皇帝マクシミリアン1世(1519年、アルブレヒト・デューラー画)

また、マクシミリアン1世は先代及び後世の他の神聖ローマ皇帝と同様、帝国の強力な諸侯との闘争に直面しなければならなかったため、中央集権化を促進することで皇帝としての地位と帝室を確固たるものにしようとした[6][8]。1495年にヴォルムスで開催された帝国議会で部分的には成功したが、一方で諸侯に有利な譲歩もしなければならなかった。帝国の改革においては数多の確執と強盗騎士の無法に終止符を打つために「永久ラント平和令」が宣言され、その平和を実施するために新しい帝国常備軍を設置した。これによって帝国等族(”Reichsstand”)たちはそれぞれ兵隊を供出しなければならなくなったと考えられている。またこの軍隊に資金を捻出するための新たな人頭税である「コモン・ペニー」(”Reichspfennig”)を義務付けた。しかし、一方でマクシミリアン1世は新しい最高裁判所である帝室裁判所英語版制度を定めるという譲歩を見せなければならなくなった。したがって最高司法権は民衆と皇帝の居場所から分離することになった。また帝国統治院と呼ばれる諸侯による政府評議会の設立にも同意しなければならなかった[注釈 2]

しかしスイスは帝国議会のこれらの決議を受け入れず、コモン・ペニーの支払いも明確に拒否した[10]。スイスは自分たちの領土内で国民の平和を十分合理的に確保することに成功していたので、ハプスブルク家の権力下の軍隊に兵を送ることも、税金を払うことにも、外国の裁判所の司法権を受け入れることにも全く興味を持たず、むしろ帝国の提案は自分たちの自由を制限するものでしかないと考えたのだった。決議の受け入れを拒否したのはスイス人だけではなかったが[11]、のちに皇帝マクシミリアン1世は原初同盟に帝国アハト刑を下す口実として、スイスがこのように帝国の決議を拒否した事実を利用した[9]

シュヴァーベン人とスイス人

対立感情

皇帝フリードリヒ3世からシュヴァーベン同盟にも参加するよう頼まれたとき、原初同盟は断固として拒否していた。なぜならハプスブルク家の利益を促進するために作られた同盟に参加する理由は何もないと考えていたからであり、この比較的緊密かつ強固な北の辺境の新しい同盟をむしろ警戒していたのであった。さらに強力な貴族集団としてのシュヴァーベン同盟を、過去200年間、まさにそのような貴族支配を否定しながら成長してきた原初同盟は全く異質なものだと考えていたため、快く思っていなかった。

シュヴァーベン同盟側でも同様の懸念が生じた。シュヴァーベンの民衆にとってスイス連合の自由と独立の精神は強力かつ魅力的な手本のようなものだった。そのため南シュヴァーベンの多くの貴族たちは民衆が反乱を起こし、原初同盟への支持を求めることを恐れていた[11]。このような恐れは荒唐無稽なものではなく、実際スイスはライン川の北部で同盟を形成し始めて、1454年にはシャフハウゼンと最初の条約を締結し、さらにロットヴァイル(1463年)またはミュルーズ(1466年)などの都市と条約を締結していった。

スイス傭兵(Reisläufer)とシュヴァーベン人傭兵(Landsknechte)の間の競争心は、互いにヨーロッパ中の戦争である時には対立し、またある時には手を携えるなどを重ねるうちに激化していった。現代では、ブルゴーニュ戦争における勝利の後にヨーロッパで最高の兵士だという評価を与えられたと考えられているスイス傭兵も、当時のランツクネヒトに取っては冷やかしと罵倒の対象であったという報告が認められている。一方のランツクネヒトたちも「クーシュワイザー(Kuhschweizer)」と呼ばれて嘲笑されていた[注釈 3][12]。そのような侮辱は決して軽率なやりとりなどではなく、頻繁に流血の事態を招いた。そのような事態がどちらの側の軍司令部も望まない、あるいは予期もしない衝突や略奪的遠征を引き起こして、シュヴァーベン戦争自体を長期化させたのは確かである[15]

コンスタンツ市の事例

コンスタンツ市とその司教はこれらシュヴァーベン同盟と原初同盟という2つの勢力の間に挟まれた。彼らはシュヴァーベンに領地を保持していた一方で、1460年の併合以来トゥールガウではスイスが低度司法権[注釈 4]を引き継いでいたにもかかわらず、コンスタンツ市が依然として高度司法権[注釈 5]を行使し続けていたという事実もあったため、シュヴァーベン同盟の存在を危惧し、スイス同盟のチューリッヒ州ベルン州はコンスタンツ市の受け入れを提案した。しかし特にウーリ州をはじめ、同盟の創設メンバーである州が反対したため交渉は失敗に終わった。それでもやはりトゥールガウ州を分割した司法権は市と同盟間の多くの論争の原因となっていた。そのような対立、さらにトゥールガウが原初同盟の共同主権地域であり、ウーリ州はその管理に関与する州の1つであったことなどが影響して、1495年にはウーリ州兵のトゥールガウ遠征を招いてしまった。この結果コンスタンツ市は略奪を止めさせて退却させるために合計3,000ギルダーを支払わなければならなくなった。

このような原初同盟間での諍いをよそに、ついにコンスタンツ市は1498年11月3日に正会員としてシュヴァーベン同盟に参加した。この時はまだ都市の同盟における位置づけが明確に定義されていなかったが、これがスイス人とシュヴァーベン人の間の対立を拡大させたもう一つの要因であることは間違いない[9]。その後、宗教改革中にチューリッヒ州とベルン州と再び同盟し、1548年のシュマルカルデン同盟に敗北した後にこの同盟との緊密な関係は最終的に断ち切られた。




  1. ^ 十裁判区同盟は三同盟のうちの一つ。三同盟のうちでは一番遅く、1436年に設立された。
  2. ^ ただしこれが重要な役割を果たすことはほとんどなく、実際1500年に初めて開催されたが、2年後に皇帝によって解散された[9]
  3. ^ ”Kuhschweizer'”は文字通りにはおおよそ「スイスの牛飼い」を意味する。しかし実際に侮蔑用語として使われる時には「臆病者」という意味を持ち、そこに意味的なつながりはない。スイス人のこれに対する暴力的な反応と「牛」に関係した侮辱を説明するものとして挙げられるのは、これらはソドミー、そして異端を暗示しているというものである[12][13]。ちなみに、シュヴァーベン人はまた”Schwyzer”という言葉を、当時 ”Eidgenossen(同盟市民)”を自称するスイス人全体を侮蔑的にさすものとして使った。しかしながらスイス人はこの言葉を吸収して、自ら誇称として用い始めたのである。詳しくは「シュヴィーツ」の項目を参照[14]
  4. ^ 日常的な軽犯罪への軽い罰則の行使など。
  5. ^ 死刑、拷問、公開処刑などをも含む。
  6. ^ 名前は"Schwaderloo" や "Schwaderloch"などとも呼ばれた。
  7. ^ シュヴァーダーローの戦いは、実際はトリボルティンゲンの付近で行われた。
  8. ^ ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンは若き騎士としてこの戦役に加わり、自身の回顧録でこの出来事について述べている。ウィルリバルト・ピルクハイマーも同様に著書「De bello Suitense sive Eluetico」の中で詳しい記述を残している。
  1. ^ a b The main references used are Morard in general and Riezler for the detailed chronology in the section on the course of the war.
  2. ^ a b c Wilhelm Baum: Friedrich III. von Habsburg, römisch-deutscher Kaiser (1440–1493). In: Biographisch-Bibliographisches Kirchenlexikon (BBKL). Band 24, Bautz, Nordhausen 2005, ISBN 3-88309-247-9, Sp. 635–648.
  3. ^ Peter Schmid: Sigismund, Erzherzog von Österreich. In: Biographisch-Bibliographisches Kirchenlexikon (BBKL). Band 10, Bautz, Herzberg 1995, ISBN 3-88309-062-X, Sp. 269–274.
  4. ^ N.N.: Maximilian I Archived 2009-03-14 at the Wayback Machine., Haus der Bayrischen Geschichte. URL last accessed 2006-10-06.
  5. ^ Thieme, A.: Albrecht (der Beherzte) Archived 2007-03-21 at the Wayback Machine., Sächsische Biografie; Institut für Sächsische Geschichte und Volkskunde e.V. URL last accessed 2006-10-06
  6. ^ a b Inge Wiesflecker-Friedhuber: Maximilian I., Römischer König, Erwählter Römischer Kaiser. In: Biographisch-Bibliographisches Kirchenlexikon (BBKL). Band 18, Bautz, Herzberg 2001, ISBN 3-88309-086-7, Sp. 879–893.
  7. ^ Würgler, A.: Eidgenossenschaft – 3. Konsolidierung und Erweiterung in German, French and Italian in the online Historical Dictionary of Switzerland, 2004-09-08.. URL last accessed 2006-10-09.
  8. ^ Sachse, G.: Kaiser Maximilian I – Bewahrer und Reformer, Kulturberichte 2/02, AsKI 2002. URL last accessed 2006-10-06.
  9. ^ a b c Morard, N.: Die Eidgenossen auf der europäischen Bühne, pp. 316 – 326 in Schwabe & Co. (eds.): Geschichte der Schweiz und der Schweizer, Schwabe & Co. 1986/2004; ISBN 3-7965-2067-7. Comprehensive general overview and explanation of the larger context.
  10. ^ Braun, B.: Heiliges Römisches Reich – 3. Von der Reichsreform zum Westfälischen Frieden in German, French and Italian in the online Historical Dictionary of Switzerland. URL last accessed 2006-10-06.
  11. ^ a b Maissen, Th.: Worum ging es im Schwabenkrieg?, NZZ of September 18, 1999. In German; reprint at historicum.net. URL last accessed 2006-09-17.
  12. ^ a b Walter, H.: Der Topos vom "Kuhschweizer" Archived 2011-07-07 at the Wayback Machine.; University of Zürich, 2000. URL last accessed 2006-09-17.
  13. ^ Sieber-Lehmann, C.: Spätmittelalterlicher Nationalismus, pp. 204ff. Vandenhoeck & Ruprecht, Göttingen, 1995. ISBN 3-525-35430-4; in German.
  14. ^ Schweizerisches Idiotikon, vol 9, p. 2268, 1929. Entry "Schwizer".
  15. ^ Stüssi-Lauterburg, J.: Der Schwabenkrieg 1499, 1999. (PDF file, 37kB.) In German. URL last accessed 2006-09-17.
  16. ^ a b William E. Rappard, Collective Security in Swiss Experience 1291-1948 (London, 1948) pp. 88-89
  17. ^ Riezler, S.: Die Grafen von Fürstenberg im Schweizerkriege 1499; Tübingen 1883. In German, from historicum.net. Detailed chronological account of events.
  18. ^ Wendler, U.: Der dritte Hegauzug und König Maximilian I.; in German. URL last accessed 2006-10-09.
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  20. ^ a b Scheck, P.: Der Schwabenkrieg 1499; Municipal Archives of Schaffhausen, 1999. In German. URL last accessed 2006-09-08.
  21. ^ a b Meles, B.: Das Entschwinden des Reichsadlers, pp. 147 – 162 in Jorio, M.: 1648: Die Schweiz und Europa: Aussenpolitik zur Zeit des Westfälischen Friedens, Chronos Verlag, Zürich 1999; ISBN 3-905313-14-6. In German.
  22. ^ State Archive of Basel-Country: Vertrag zwischen Basel und der Eidgenossenschaft 1501; August 2000. Also see the Bundesbrief of Basel itself (PDF file, 553 kB). In German.
  23. ^ Holenstein, A.: Ewiger Frieden in German, French and Italian in the online Historical Dictionary of Switzerland, 2004-12-07.
  24. ^ Braun, B., Sieber-Lehmann, C.: Ewige Richtung and Erbeinungen in German, French and Italian in the online Historical Dictionary of Switzerland, 2004-12-07.





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