1495年の帝国の改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 10:14 UTC 版)
「シュヴァーベン戦争」の記事における「1495年の帝国の改革」の解説
またマクシミリアン1世は先代及び後世の他の神聖ローマ皇帝と同様、帝国の強力な諸侯との闘争に直面しなければならなかったため、中央集権化を促進することで皇帝としての地位と帝室を確固たるものにしようとした。 1495年にヴォルムスで開催された帝国議会で部分的には成功したが、一方で諸侯に有利な譲歩もしなければならなかった。帝国の改革においては数多の確執と強盗騎士の無法に終止符を打つために「永久ラント平和令」が宣言され、その平和を実施するために新しい帝国常備軍を設置した。これによって帝国等族(”Reichsstand”)たちはそれぞれ兵隊を供出しなければならなくなったと考えられている。またこの軍隊に資金を捻出するための新たな人頭税である「コモン・ペニー」(”Reichspfennig”)を義務付けた。しかし一方でマクシミリアン1世は新しい最高裁判所である帝室裁判所(英語版)制度を定めるという譲歩を見せなければならなくなった。したがって最高司法権は民衆と皇帝の居場所から分離することになった。また帝国統治院と呼ばれる諸侯による政府評議会の設立にも同意しなければならなかった。 しかしスイスは帝国議会のこれらの決議を受け入れず、コモン・ペニーの支払いも明確に拒否した。 スイスは自分たちの領土内で国民の平和を十分合理的に確保することに成功していたので、ハプスブルク家の権力下の軍隊に兵を送ることも、税金を払うことにも、外国の裁判所の司法権を受け入れることにも全く興味を持たず、むしろ帝国の提案は自分たちの自由を制限するものでしかないと考えたのだった。決議の受け入れを拒否したのはスイス人だけではなかったが、のちに皇帝マクシミリアン1世はスイス同盟に帝国アハト刑を下す口実として、スイスがこのように帝国の決議を拒否した事実を利用した。
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