インドネシアの歴史 インドネシアの形成

インドネシアの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/25 18:23 UTC 版)

インドネシアの形成

インドネシア民族主義運動の展開

20世紀初頭にオランダは従来の植民地政策を転換し、現地住民の福祉向上と、本国から植民地政府へ権限委譲をすすめる方針をとった。前時代の純益政策によって、植民地からオランダ本国に莫大な富がもたらされた一方で、過酷な搾取と「愚民化政策」のもとで、現地住民による初等教育の機会や産業の復興が制限され、その結果植民地の現地住民の窮乏化がすすんだことを反省し、これまでより多くの恩恵を現地住民にもたらすことで、植民地における経済の復興を目指すという意図で始められたのが「倫理政策」と総称される一連の施策である。

これによって、現地住民には初等教育の機会があたえられ、また、親オランダ的な一部の住民エリートの子弟には、オランダ語での専門教育(行政学経済学医学など)の機会もあたえられた。彼らの多くは、植民地政府の末端を担う下層行政官や、現地住民の福祉向上を担う医師となって、オランダ人の下で植民地統治の運営の一翼を担った[10]。しかし、これらの一部の親オランダ的なエリートを除く現地住民は、その後も初等教育以上のものを受ける機会は与えられなかった。

そのようにしてオランダ語で教育され、東インドに創設された大学や留学を許されたオランダ本国の大学で学んだ、親オランダ的な一部の学生たちのなかから、民族の独立を志す者たちがあらわれた。その最初期には、ジャワの医学校で学ぶ学生たちを中心に、1908年に結成されたブディ・ウトモジャワ語で「至高の徳」を意味する)のように、教育を通じてジャワ人の社会的地位を向上させようという、穏健な活動がはじめられた[11]。また宗主国オランダでも、東インド出身の学生たちが東インド協会 (Indische Vereniging) を結成し、出身地方の枠を超えた東インドの民族的一体感に目覚めていった[12]

1911年に結成されたサレカット・イスラーム(イスラム同盟)は、当初は中国革命の進展によって東インドでの商業活動をにわかに活発化させた華僑商人に対抗して、ジャワのバティック商人が結成したものであったが、組織の主導権が商人層からオランダ語で教育を受けた知識人層に移ると、ジャワ島外にまで支部を結成して、東インド全体に広がる最初の大衆組織となった。サレカット・イスラームの指導者チョクロアミノト英語版は各地で集会を催し、熱気のこもった演説とカリスマ性で熱狂的な人気を博した[13]

第一次世界大戦を経て、サレカット・イスラームの会員数は200万人をこえ、独立と社会主義を掲げるようになった。このように組織の性格が変わった要因として、ロシア革命の成功も挙げられよう。1920年にはアジア初の共産党としてインドネシア共産党(前身は1914年スマランで結成された東インド社会民主主義同盟)が成立し、コミンテルンに加盟した。インドネシア共産党は原住民党員をサレカット・イスラームに加入させ、その組織内部で共産党の影響力を強めていくという方針を立てた[14]。その結果、サレカット・イスラーム内の主流派と共産派の対立が激化し、民族主義運動の潮流は分裂し、大衆の運動離れを招いた[15]。サレカット・イスラームから排除されたインドネシア共産党は、その地方支部が1926年から1927年にかけて散発的に起こした武装蜂起によって、植民地政府による弾圧を招いた。党の指導者は海外へ逃亡するか、東インドに潜伏するなどしたため、以後の民族主義運動は、スカルノらが1927年に結成したインドネシア国民党など、世俗主義を掲げる民族主義団体によって担われていくことになった。

戦前のインドネシア民族主義運動の頂点となったのは、1928年10月27日に開催されたインドネシア青年会議における「青年の誓い」採択だった[16]

  1. われわれインドネシア青年男女は、インドネシア国というただ一つの祖国をもつことを確認します
  2. われわれインドネシア青年男女は、インドネシア民族というただ一つの民族であることを確認します
  3. われわれインドネシア青年男女は、インドネシア語という統一言語を使用します

ここにいたって、独立を求める人々は、オランダ領東インドの国名として、「インドネシア」の名を選び取り、この地域に住むさまざまな民族をインドネシア人として統一し、独立を達成する、という決意を内外に示したのである。

第二次世界大戦と日本軍政

太平洋戦争大東亜戦争)最中の1942年2月、日本軍の侵攻によってオランダの植民地支配は崩壊した。東インドを占領した日本は、日本陸軍の今村均中将により全域を軍政支配下に置いた。石油をはじめとする天然資源の確保のため、軍政に現地住民の協力をとりつける必要があったこともあり、今村中将による軍政下ではインドネシア人に対する緩和政策を基本とし、大東亜政略指導大綱にもとづき東インドを大日本帝国領土とすることが決定された[要出典]

そのため、オランダによって捕らえられ、流刑先にあったスカルノハッタらの民族主義運動の指導者を解放し、またナフダトゥル・ウラマーなどイスラーム系諸団体の宗教指導者らに協力を要請し、彼らの指導力を利用して、物的・人的資源の調達をはかろうとした。一方の民族主義運動の指導者たちも、軍政当局によってあたえられた地位を活用して民衆に語りかけ、その民族意識を鼓舞した[要出典]。そうした活動によって、スカルノらは民族の指導者としての地位を確立していった。

これに併せて日本は、オランダ支配下で迫害されていたイスラム教の存在を認め、イスラム教徒による活動を自由化した他、オランダが行っていたオランダ語による初等教育、高等教育に変わって、インドネシア語と日本語による教育を行った[要出典]

1942年4月、日本は、それまでオランダ領東インドで設置されていた人種別の複数種類の第一審裁判所のうち地方裁判所(Tihoo Hooin(地方法院)=Landraad)のみを残して一本化し、他は廃止した[17][18]。欧州人専用の訴訟法も無効となった[19]

また、軍政当局は東インドにおける兵力不足を解消するために、兵補郷土防衛義勇軍を設立して、現地住民の子弟たちに軍事教練を施した。その訓練は苛烈を極めたが、これらの軍事教育を受けた青年たちが、次の独立戦争でオランダと戦うインドネシアの軍事組織の将校団を形成していくことになった[要出典]

インパール作戦の失敗によって戦況が悪化すると、日本はインドネシアの独立を認める方針に変更した。それまでは大東亜会議にインドネシア代表を招かないなど帝国領土への編入を前提とした方針をとっていたが、1944年9月にはインドネシア国旗の掲揚と国歌の斉唱を解禁した他、1945年3月には独立準備委員会を発足させた。同委員会は同年8月19日にスカルノとハッタ、ラジマンによって独立宣言するという方針を決定し、軍政当局や日本政府もこれを承認した[要出典]

独立戦争

しかし、1945年8月15日に日本がオランダを含む連合国軍に降伏し、念願の独立が反故になることを恐れたスカルノら民族主義者は同月17日にジャカルタのプガンサアン・ティムール通り56番地のスカルノ邸の前でインドネシア独立を宣言し(独立宣言文の日付は皇紀を用いている)、スカルノが大統領に選出された。独立宣言は他民族によるインドネシアの民族および国に対するあらゆる形の植民地支配から独立し、自由になることの声明であった。[20]

1945年8月18日、インドネシアは憲法を制定・公布・施行し、その経過規定第2条において、日本軍政期に有効であった法制度は引き続き有効である旨規定された[19]。いいかえると、日本軍の侵攻前のオランダ領東インドの法制度に戻ることはなかった[21]

しかしオランダはこの独立宣言とスカルノの大統領就任を無効とし、独立を目指すスカルノやハッタらの民族主義者やブントモらの軍人と、日本軍の武装解除を行ったイギリス軍、および植民地支配再開を願って戻って来たオランダ軍の間で4年にわたってインドネシア独立戦争が展開された。

戦前のオランダによる峻烈な搾取を排除し独立を目指す人々の戦意は高く、刀剣、竹槍、棍棒、毒矢、罠などの武器の他、降伏後に日本軍が去ってオランダやイギリスの管理下に置かれた兵器庫から奪ったり、降伏を潔しとしない日本軍人の一部が横流しした武器・弾薬で武装し、様々の手段で連合軍を苦しめた。なお独立派には、日本軍政下で独立派への軍事教練を行っていた日本軍人が2000人加わり、訓練や教育、宣撫に活躍し、その半数は戦死したものの戦闘に参加した者もいた。

この戦争の結果、疲弊消耗の極に達したオランダ軍はようやく再植民地化をあきらめ、1949年12月国連の斡旋でデン・ハーグで行なわれたオランダ-インドネシア円卓会議(通称、ハーグ円卓会議)によりオランダは正式にインドネシア連邦共和国 (Republik Indonesia Serikat) 独立を承認した。


  1. ^ 深見純生「古代の栄光」、池端編、山川出版社、1999年、18-19頁。
  2. ^ 石井・桜井、講談社、1985年、26-27頁。
  3. ^ イ・ワヤン・バドリカ著、明石書店 2008年 8ページ
  4. ^ 弘末雅士「交易の時代と近世国家の成立」、池端、1999年、94-95頁。
  5. ^ 今永清二「ジャワのイスラム化に関する一試論」、『史学研究』177号、1987年9月、1頁。
  6. ^ トメ・ピレス 『東方諸国記』、岩波書店<大航海時代叢書Ⅴ>、1966年、305頁。
  7. ^ 今永、同上、9-10頁。
  8. ^ 今永、同上、2頁。
  9. ^ 弘末、同上、95頁。
  10. ^ Robert van Niel, The Emergence of the Indonesian Elite, Dordrecht and Cinnaminson : Foris Publications, 1984.
  11. ^ 永積昭「ブディ・ウトモの成立と発展 -ジャワの民族的自覚の源流- (1)・(2)」、『史学雑誌』76巻2号、1967年2月、76巻3号、1967年3月。
  12. ^ 永積昭「オランダにおけるインドネシア留学生の活動(1908-17年)- 「インドネシア協会」成立前史 - 」、『アジア経済』18巻3号、1977年3月。
  13. ^ サレカット・イスラーム(イスラム同盟)については次の深見純生の研究を参照。深見純生「成立期イスラム同盟に関する研究 - イスラム商業同盟からイスラム同盟へ - 」、『南方文化』2号、1975年9月、同「初期イスラム同盟 (1911-16) に関する研究 (1)・(2)」、『南方文化』3号、1976年10月、同4号、1977年7月。
  14. ^ こうした方針を立てたのは、東インド社会民主主義連連盟結成に携わったオランダ人社会主義者スネーフリートの発案によるものであった。のちにスネーフリートは、中国における共産党と国民党の連携(国共合作)にも携わった。
  15. ^ 永積昭 『インドネシア民族意識の形成』、東京大学出版会、1980年、229-230頁。
  16. ^ 1928年10月27日から28日にかけて開催されたこの会議は、この組織が1927年に発足してから2回目の会議だった。この会議にはジャワ人青年だけでなく、東インド各地に結成された青年組織(青年スマトラ同盟、青年アンボン)やムスリム青年組織、そしてオランダから帰国した留学生たちも加わった。永積昭、1980年、254-261頁。
  17. ^ Abdulkadir(2012)p.6
  18. ^ Taufik.(2009)p.4
  19. ^ a b Abdulkadir(2012)p.7
  20. ^ イ・ワヤン・バドリカ著、264ページ
  21. ^ この点、オランダ政府も2005年に至り、インドネシアの独立日が1949年12月27日ではなく、1945年8月17日であることを認める表明を行った(http://www.thejakartapost.com/news/2005/08/18/dutch-govt-expresses-regrets-over-killings-ri.html )。
  22. ^ 首藤もと子 『インドネシア - ナショナリズム変容の政治過程』、勁草書房1993年、127頁、脚注26。
  23. ^ 深見純生・早瀬晋三「脱植民地化の道」、池端編、1999年、374頁。
  24. ^ 首藤、同上、118頁。
  25. ^ 深見・早瀬、354-375頁、増田与 『インドネシア現代史』、中央公論社1971年、237-238頁。
  26. ^ 首藤、同、149頁。なお、ハーグ協定ではオランダ女王の首長としての地位は象徴的なものとされ、オランダ政府にも具体的な権限はなかった。
  27. ^ この1955年選挙についての分析は、Herbert Feith, The Indonesian Elections of 1955, Cornell Modern Indonesia Project, Cornell University Press, 1957、を参照。
  28. ^ プルメスタ(Permesta - Perjuangan Semesta = 全体闘争)は西スマトラを中心にした反中央政府運動。1958年2月に革命政府の樹立を宣言し、これにはマシュミインドネシア社会党の有力指導者も加わっていた。これに呼応して東インドネシアでも運動が広がった。
  29. ^ 首藤、同、168-169頁。
  30. ^ その後、スカルノ失脚後の1969年に西イリアンで住民投票がおこなわれ、西イリアンはインドネシアに帰属することが決まった。
  31. ^ 後に反政府側に、ラスカー・ジハード英語版も加わった。
  32. ^ スカルノが国連脱退を決意した直接の原因は、1965年1月からマレーシアが国連安保理非常任理事国になることが決まったことへの不満が挙げられる。インドネシアの国連脱退は、中国、北ベトナム北朝鮮などに支持され、インドネシアはジャカルタプノンペンハノイ北京平壌を枢軸とする共産主義諸国との紐帯を強化していった。その後、インドネシアは中国からの経済・技術援助のみならず、軍事援助も受けていくことになった。永井、1986年、301-303頁。
  33. ^
    これらに先立ち、1963年2月、インドネシアは国際オリンピック委員会 (IOC) からも離脱している。
    1962年8月にジャカルタで開催された第4回アジア競技大会で、インドネシア政府がイスラエル中華民国台湾)の選手団にビザを発行しなかったことで、IOCがインドネシア政府を非難し、同国のオリンピック参加資格を停止するとしたため。首藤もと子「ガネフォ」、石井米雄監修『インドネシアの事典』、同朋舎出版、1991年、110頁。
  34. ^ 三平則夫「マクロ経済の成果」、安中章夫・三平則夫編 『現代インドネシアの政治と経済 -スハルト政権の30年- 』、アジア経済研究所、1995年、200-203頁。
  35. ^ 永井、1986年、381頁。白石隆「国軍 -その世代交代と変貌- 」、安中・三平編、同上書、106-107頁。
  36. ^ 大形利之「ゴルカル -スハルトと国軍のはざまで- 」、安中・三平編、同上書、146-152頁。
  37. ^ Taufik.(2009)p.5
  38. ^ 建物多数が海中に沈む インドネシア地震被害『朝日新聞』1979年(昭和54年)9月13日夕刊 3版 15面
  39. ^ 松井和久「ハビビ新政権の特徴」、尾村敬二編 『緊急リポート スハルト体制の終焉とインドネシアの新時代』、アジア経済研究所<アジ研トピックリポート>、1998年
  40. ^ 鏡味治也「地方自治と民主化の進展 バリの事例から」、杉島敬志中村潔編 『現代インドネシアの地方社会 ミクロロジーのアプローチ』、NTT出版2006年、89頁。
  41. ^ 笹岡正俊 『流血のマルク インドネシア軍・政治家の陰謀』、インドネシア民主化支援ネットワーク、2001年 ISBN 490664094X 。
  42. ^ 高橋奈緒子ほか著 『東ティモール 奪われた独立・自由への闘い』、明石書店<明石ブックレット7>、1999年 ISBN 4750312215





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