インドネシアの歴史 独立後のインドネシア

インドネシアの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/25 18:23 UTC 版)

独立後のインドネシア

議会制民主主義期

インドネシア連邦共和国(赤い部分がインドネシア共和国領)

1949年12月27日、ハーグ協定の署名式がおこなわれ、この日に主権オランダからインドネシア連邦共和国に委譲された。この連邦共和国は、16の国・自治地域から構成され、各構成国・自治地域は以下のとおりである:インドネシア共和国、東インドネシア国パスンダン国東ジャワ国マドゥラ国東スマトラ国インドネシア語版英語版南スマトラ国インドネシア語版中部ジャワ自治国バンカ自治国ビリトン自治国リアウ自治国西カリマンタン特別地域インドネシア語版大ダヤク自治国インドネシア語版バンジャル地域インドネシア語版東南カリマンタンインドネシア語版東カリマンタンインドネシア語版[22]。そのうちインドネシア共和国は、ジャワの約半分とスマトラの大部分を有し、人口でも、連邦共和国全体で4600万人のうち、3100万人を占めていた[23]

インドネシア共和国以外の構成国の多くは、独立戦争のさなかにオランダが自らを利するために現地支配者層と結んで作った傀儡国家であった。しかし、独立戦争末期にはこれらの諸国でも「オランダ離れ」がすすんでおり、政治指導者たちのあいだでも、オランダよりもインドネシア共和国と協調したほうが現実的であると考えられるようになっていた[24]。自治国の一つだったパスンダン国のバンドンで、元蘭印軍大尉ウェステルリンク英語版の私兵Legioen van Ratu Adil(APRA)が破壊活動をおこなうなどの逆行する流れもあったが(en:APRA Coup d'état)、1950年1月、このパスンダン国は解散し、共和国に合流した。同年3月には他の11国がこれにならい、最終的には同年8月15日、連邦共和国は解散されて、残りの国もふくめた単一のインドネシア共和国が発足した[25]。同日にインドネシア共和国暫定憲法(以下、1950年憲法と略す)を公布・施行し、議会制民主主義のもとで国政を運営していくことになった。

なお、ハーグ協定によって、インドネシア連邦共和国とオランダは、オランダ女王を首長とするオランダ・インドネシア連合オランダ語版 (Uni Belanda-Indonesia) を形成すると規定されていたが、1951年1月にはインドネシア国民党をはじめとする諸政党が連合破棄をもとめ[26]1954年8月、このオランダとの連合国家の解消が宣言された。

1956年にはハーグ協定を正式に破棄して、西側に属するオランダと決別し、非同盟中立国家として歩むことを目指した。さらに1957年12月には、植民地時代から蓄え続けていた自らの利権を死守すべくインドネシア国内に残っていたオランダ人を追放した。

インドネシアは、オランダによる地域の統合をそのまま引き継いだ為、民族文化に統一的なアイデンティティを求めることは難しかった。1955年9月29日に実施されたインドネシアでの国民議会議員選出の最初の総選挙(および12月15日の制憲議会議員選挙)には、さまざまな支持母体をもつ政党が参加し、3900万人以上のインドネシア国民が投票を行った。その結果は、インドネシア国民党マシュミ、NUナフダトゥル・ウラマー党インドネシア共産党の4大政党が票を分け合い、複雑な政治的対抗軸を形成した。民族宗教イデオロギーを異にする政党同士に妥協の余地は少なく、議会は空転し、この時期の内閣はいずれも短命に終わった[27]

また、独立戦争期をとおして、行政や国軍の内部では権力の分散化が進み、中央政府あるいは軍中枢からの統制は、かならずしも地方に及んでいなかった。イスラーム国家の樹立を目指すアチェ州ダウド・ブルエの反乱は独立戦争のさなかから1965年まで続き、西ジャワのセカルマジ・マリジャン・カルトスウィルヨダルル・イスラーム運動英語版1962年銃殺)、南スラウェシ州カハル・ムザカル英語版の反乱、そして1956年から1958年まで続いた西スマトラプルメスタの反乱英語版および同年から1961年まで継続して活動したインドネシア共和国革命政府[28]など、インドネシアは国家分裂の危機に瀕していた。

この当時のスカルノは、1955年に開催された第1回アジア・アフリカ会議(バンドン会議)を主催するなど、国際政治の場面では非同盟諸国のリーダーとして脚光を浴びていたが、国内政治においては、大統領に強大な権限をあたえない1950年憲法のもとで、リーダーシップを発揮できない状態にあった[29]

議会制民主主義の機能不全や、政党政治家たちの腐敗を目の当たりにして、スカルノは国軍司令官スディルマンの協力を得て、1959年7月、制憲議会の解散と、大統領に強大な権限をあたえる1945年憲法への復帰を宣言した。

スカルノ・指導される民主主義期

スカルノ大統領。

1945年憲法を復活させたスカルノが、自らのリーダーシップを維持しようとしていたこの時期、さかんに唱えていたのが「ナサコム NASAKOM」というスローガンである。これは民族主義 (Nasionalisme)、宗教 (Agama)、共産主義 (Komunisme) の各勢力に支持を訴え、挙国一致して国難を乗り切ることをめざすものであった。

「民族独立の父」としての地位、民衆を熱狂させたという弁舌の才とカリスマ性をもちながら、スカルノは自らの特定の支持基盤をもっていなかった。また、独立後から内紛を続けてきたインドネシア国軍は、ナスティオンらによる合理化によって組織の求心力を高めることに成功しつつあり、スカルノにとって国軍は政治的脅威をあたえる存在となっていた。これを牽制するために、スカルノはインドネシア共産党に接近し、その大衆動員力を頼りにした。国軍と共産党は対立関係にあり、スカルノはその両者の調停役としてふるまうことによって、みずからのリーダーシップを維持しようとした。

1961年12月、オランダの植民地として維持されていたニューギニア島西部(イリアンジャヤ)に「西イリアン解放作戦」として空挺部隊を派遣し、オランダとの戦闘の挙句これを占領した。国際連合の調停の結果停戦し、国連の暫定統治の後、1963年5月、その施政権がインドネシアに移管された[30]。この併合に反対する自由パプア運動en:National Committee for West Papuaがインドネシア政府に反旗を翻し、パプア紛争1963年–現在)が起こった[31]

また、1963年マラヤ連邦北ボルネオ(現在のサバ州)をイギリスから譲り受けてマレーシアが建国されると、スカルノはこれをイギリスによる新植民地主義のあらわれであると非難し、「対決政策」を宣言した。インドネシアは「マレーシア粉砕」をスローガンに掲げて、マレーシア領へ侵入するなど、一触即発の事態となった。翌年に領有を主張するフィリピンも含めた3者が東京で会談するなどの外交的解決が模索されたが、最終的に現状維持で決着するには後述のスハルトの政権掌握を待たなければならなかった。

この対決政策によって、インドネシアはアメリカ合衆国IMFからの経済援助を停止され、国際社会から孤立していった。スカルノは急速に中国に接近する。
1965年1月7日国連を脱退した[32]
1965年の独立記念日(8月17日)には、世界銀行IMFからの脱退も宣言した[33]。 そのようにして対外政策が進んでいるあいだにも、インドネシア国内の経済状態は悪化し、インフレによる物資高騰は民衆の生活を苦しめた。

6将軍の葬儀に出席するスハルト(1965年10月2日)

こうした状況に国軍主流派や一部の政党政治家、経済テクノクラートらは危機感を強め、スカルノと共産党に対する不満が高まっていった。このように緊張した政治環境の中で発生したのが9月30日事件だった。この事件は、1965年9月30日深夜から翌未明にかけて、共産党シンパの国軍部隊と、共産党傘下の組織が国軍幹部の6将軍を殺害したことに端を発する。陸軍戦略予備軍司令官だったスハルトがこれをすぐに鎮圧したため、左派勢力による政権奪取は失敗し、クーデター未遂事件として終わった。共産党に肩入れしていたスカルノは苦しい立場に追い込まれ、事態を回復するための一切の権限をスハルトにあたえることになった。これを受けてスハルトは共産党員およびそのシンパを殺害、拘束し、国内の左派勢力を物理的に解体した。東南アジアで最大規模を誇ったインドネシア共産党が壊滅したことは、国内政治のみならず、冷戦期におけるこの地域の勢力図を一変させた。
1966年9月にインドネシアは国連に復帰した。その後、スカルノは事件への関与を疑われるきびしい立場に追い込まれ、国軍が煽動する反スカルノの民衆運動によって辞任への圧力をうけた。
1967年3月、スカルノは終身大統領の地位を剥奪された。

スハルト・新体制期

スハルトの大統領就任式

1968年3月、スハルトが第2代大統領に就任した。スハルトはスカルノ政権の外交路線を覆し、反共の姿勢を明らかにして西側諸国に接近、規制緩和と開放経済体制を旨とする経済再建策を打ち出した。

スカルノ体制から引き継いだ累積債務の処理について検討する IGGI (Inter-Governmental Group on Indonesia) が1966年に結成され、以後、この債権国グループと世界銀行を中心として、インドネシアへの経済援助を討議する枠組みが形成された[34]1967年2月にIMFへ再加盟、同年4月には世界銀行にも再加盟した。

インドネシア共産党をはじめとする国内の左派勢力を一掃し、スカルノと同様に、大統領に強大な権限を付与する1945年憲法体制を引き継いだスハルトであったが、政権初期には政治的ライバルが少なくなかった。国軍内部にはなおもスカルノ派将校が存続しており、これらの将校を左遷したり粛清したりしつつ、スハルトが国軍をみずからの支持母体として確立するのは1969年になってからのことだった[35]

また、スハルトは政権の正統性を内外に示すために、1971年に総選挙を実施することを決定した。この選挙に臨むにあたって、スハルトは1969年に新しい選挙法を制定し、みずからの支持母体としてゴルカルを選挙に参加させることにした。1971年7月3日に実施された選挙はゴルカルの圧勝に終わり、政党勢力の後退を決定づけた。その後、政権のイニシアチブによって既存の諸政党はインドネシア民主党開発統一党英語版のいずれかに統合されることになり、党としての凝集性を失い、内紛の絶えない万年野党としての地位に甘んじるほかなくなった[36]

このようにしてスハルトは政権基盤を安定化させることに成功し、「安定と秩序」のもとで経済発展を目指す「開発独裁」を推し進めていった。

司法権の基本制度に関する1970年第14号法律により、日本軍政時代に一本化された裁判所の系列は、通常裁判所、宗教裁判所、軍事裁判所、国家行政裁判所の4系列となった[37]

1974年4月にポルトガルで左派政権が成立し、海外植民地の放棄を宣言すると、東ティモールでも、インドネシアとの併合を主張するティモール人民民主主義協会を押さえて、完全独立派の東ティモール独立革命戦線(フレテリン)が全土を制圧し、1975年11月28日、東ティモール民主共和国として独立を宣言した。これにインドネシア政府が武力介入し、東ティモールの併合派を支援して、インドネシアとの併合を宣言させ、1976年7月17日、東チモールは27番目の州となった。その後、フレテリンはゲリラ戦に移り、地下活動を継続しながら、東ティモールの独立をめざしていくことになった。

また、もともと人口の多かったジャワ島バリ島人口過密が問題になると、これらの住民をスマトラ島ボルネオ島(カリマンタン)、ニューギニア島モルッカ諸島といった周辺島嶼への移住・入植を奨励した。ジャワ島の住民が各島嶼へ散らばったことによって、ジャワを中心とする統一したインドネシアの観念が広がったが、入植した各地で元の住民との軋轢が生じた。

1979年9月12日イリアンジャヤ西部でマグニチュード6.7の強い地震があり、沿岸地域の多数の建物が水没するなどの被害が出た[38]

スハルト政権は30年の長きにわたって続いたが、1997年アジア通貨危機が起こって経済が危機に瀕すると国民の不満が爆発、民主化を求める市民の群れは、ジャカルタを中心に暴動に発展し、中華街が暴徒によって破壊されるなど、大混乱に陥った(翌1998年5月のジャカルタ暴動英語版)。そのためスハルトは1998年に大統領辞任に追い込まれた。


  1. ^ 深見純生「古代の栄光」、池端編、山川出版社、1999年、18-19頁。
  2. ^ 石井・桜井、講談社、1985年、26-27頁。
  3. ^ イ・ワヤン・バドリカ著、明石書店 2008年 8ページ
  4. ^ 弘末雅士「交易の時代と近世国家の成立」、池端、1999年、94-95頁。
  5. ^ 今永清二「ジャワのイスラム化に関する一試論」、『史学研究』177号、1987年9月、1頁。
  6. ^ トメ・ピレス 『東方諸国記』、岩波書店<大航海時代叢書Ⅴ>、1966年、305頁。
  7. ^ 今永、同上、9-10頁。
  8. ^ 今永、同上、2頁。
  9. ^ 弘末、同上、95頁。
  10. ^ Robert van Niel, The Emergence of the Indonesian Elite, Dordrecht and Cinnaminson : Foris Publications, 1984.
  11. ^ 永積昭「ブディ・ウトモの成立と発展 -ジャワの民族的自覚の源流- (1)・(2)」、『史学雑誌』76巻2号、1967年2月、76巻3号、1967年3月。
  12. ^ 永積昭「オランダにおけるインドネシア留学生の活動(1908-17年)- 「インドネシア協会」成立前史 - 」、『アジア経済』18巻3号、1977年3月。
  13. ^ サレカット・イスラーム(イスラム同盟)については次の深見純生の研究を参照。深見純生「成立期イスラム同盟に関する研究 - イスラム商業同盟からイスラム同盟へ - 」、『南方文化』2号、1975年9月、同「初期イスラム同盟 (1911-16) に関する研究 (1)・(2)」、『南方文化』3号、1976年10月、同4号、1977年7月。
  14. ^ こうした方針を立てたのは、東インド社会民主主義連連盟結成に携わったオランダ人社会主義者スネーフリートの発案によるものであった。のちにスネーフリートは、中国における共産党と国民党の連携(国共合作)にも携わった。
  15. ^ 永積昭 『インドネシア民族意識の形成』、東京大学出版会、1980年、229-230頁。
  16. ^ 1928年10月27日から28日にかけて開催されたこの会議は、この組織が1927年に発足してから2回目の会議だった。この会議にはジャワ人青年だけでなく、東インド各地に結成された青年組織(青年スマトラ同盟、青年アンボン)やムスリム青年組織、そしてオランダから帰国した留学生たちも加わった。永積昭、1980年、254-261頁。
  17. ^ Abdulkadir(2012)p.6
  18. ^ Taufik.(2009)p.4
  19. ^ a b Abdulkadir(2012)p.7
  20. ^ イ・ワヤン・バドリカ著、264ページ
  21. ^ この点、オランダ政府も2005年に至り、インドネシアの独立日が1949年12月27日ではなく、1945年8月17日であることを認める表明を行った(http://www.thejakartapost.com/news/2005/08/18/dutch-govt-expresses-regrets-over-killings-ri.html )。
  22. ^ 首藤もと子 『インドネシア - ナショナリズム変容の政治過程』、勁草書房1993年、127頁、脚注26。
  23. ^ 深見純生・早瀬晋三「脱植民地化の道」、池端編、1999年、374頁。
  24. ^ 首藤、同上、118頁。
  25. ^ 深見・早瀬、354-375頁、増田与 『インドネシア現代史』、中央公論社1971年、237-238頁。
  26. ^ 首藤、同、149頁。なお、ハーグ協定ではオランダ女王の首長としての地位は象徴的なものとされ、オランダ政府にも具体的な権限はなかった。
  27. ^ この1955年選挙についての分析は、Herbert Feith, The Indonesian Elections of 1955, Cornell Modern Indonesia Project, Cornell University Press, 1957、を参照。
  28. ^ プルメスタ(Permesta - Perjuangan Semesta = 全体闘争)は西スマトラを中心にした反中央政府運動。1958年2月に革命政府の樹立を宣言し、これにはマシュミインドネシア社会党の有力指導者も加わっていた。これに呼応して東インドネシアでも運動が広がった。
  29. ^ 首藤、同、168-169頁。
  30. ^ その後、スカルノ失脚後の1969年に西イリアンで住民投票がおこなわれ、西イリアンはインドネシアに帰属することが決まった。
  31. ^ 後に反政府側に、ラスカー・ジハード英語版も加わった。
  32. ^ スカルノが国連脱退を決意した直接の原因は、1965年1月からマレーシアが国連安保理非常任理事国になることが決まったことへの不満が挙げられる。インドネシアの国連脱退は、中国、北ベトナム北朝鮮などに支持され、インドネシアはジャカルタプノンペンハノイ北京平壌を枢軸とする共産主義諸国との紐帯を強化していった。その後、インドネシアは中国からの経済・技術援助のみならず、軍事援助も受けていくことになった。永井、1986年、301-303頁。
  33. ^
    これらに先立ち、1963年2月、インドネシアは国際オリンピック委員会 (IOC) からも離脱している。
    1962年8月にジャカルタで開催された第4回アジア競技大会で、インドネシア政府がイスラエル中華民国台湾)の選手団にビザを発行しなかったことで、IOCがインドネシア政府を非難し、同国のオリンピック参加資格を停止するとしたため。首藤もと子「ガネフォ」、石井米雄監修『インドネシアの事典』、同朋舎出版、1991年、110頁。
  34. ^ 三平則夫「マクロ経済の成果」、安中章夫・三平則夫編 『現代インドネシアの政治と経済 -スハルト政権の30年- 』、アジア経済研究所、1995年、200-203頁。
  35. ^ 永井、1986年、381頁。白石隆「国軍 -その世代交代と変貌- 」、安中・三平編、同上書、106-107頁。
  36. ^ 大形利之「ゴルカル -スハルトと国軍のはざまで- 」、安中・三平編、同上書、146-152頁。
  37. ^ Taufik.(2009)p.5
  38. ^ 建物多数が海中に沈む インドネシア地震被害『朝日新聞』1979年(昭和54年)9月13日夕刊 3版 15面
  39. ^ 松井和久「ハビビ新政権の特徴」、尾村敬二編 『緊急リポート スハルト体制の終焉とインドネシアの新時代』、アジア経済研究所<アジ研トピックリポート>、1998年
  40. ^ 鏡味治也「地方自治と民主化の進展 バリの事例から」、杉島敬志中村潔編 『現代インドネシアの地方社会 ミクロロジーのアプローチ』、NTT出版2006年、89頁。
  41. ^ 笹岡正俊 『流血のマルク インドネシア軍・政治家の陰謀』、インドネシア民主化支援ネットワーク、2001年 ISBN 490664094X 。
  42. ^ 高橋奈緒子ほか著 『東ティモール 奪われた独立・自由への闘い』、明石書店<明石ブックレット7>、1999年 ISBN 4750312215





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