りっ‐こう【立后】
読み方:りっこう
三后(皇后・皇太后・太皇太后)を正式に定めること。きさきだち。
立后
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/18 13:48 UTC 版)
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立后(りっこう、りつごう)とは、天皇または皇帝が皇后を立てることである。
太皇太后・皇太后・皇后の三后を冊立することも立后と言う場合がある。
日本
立后は、皇后の称号が採用されるようになった大宝律令以降行われるようになった。天平元年(729年)に聖武天皇の妻である藤原安宿媛が初めて皇后に立てられ、光明皇后となった。
明治時代までは立后に伴い立后の儀が行われていたが、一夫一妻制により天皇の妻が必ず皇后となるようになると、立后の儀は行われなくなった。
中国
中国王朝では立后が非常に重視され、天下に勅令で知らせ、天に奏上し、盛大で厳粛に立后の儀式が行われた。
関連項目
立后
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 06:36 UTC 版)
7月2日、鳥羽法皇が崩御する。直後に起こった保元の乱で崇徳上皇は配流となり、後白河帝・守仁親王の体制が確立した。信西が政治の主導権を握り、保元新制・記録所の設置・内裏再建などの国政改革を推進する。保元2年(1157年)正月23日、姝子内親王は准三宮となり、10月8日、再建された大内裏に後白河帝・守仁親王・忻子・統子内親王とともに移った。保元3年(1158年)2月3日、後白河帝は統子内親王の准母立后を行って政治基盤の強化に務めるが、8月11日に突然、守仁親王に譲位する(二条天皇)。これは「仏と仏との評定」(『兵範記』保元3年8月4日条)によるもので、美福門院が信西に強く要求して実現したものであった。ここに後白河院政派と二条親政派が形成される。ただし、二条帝はいまだ16歳で政治に未熟であり、後白河院の政治活動も引き続き認められたため、当初から両派の間に確執があったわけではなかった。 姝子内親王は婚姻後も統子内親王の三条高倉邸を訪れ、後白河院が譲位した直後の宇治御幸にも後白河院・統子内親王に同行した。平治元年(1159年)2月3日、後白河院の御所・高松殿に行啓し、21日に立后して中宮に冊立される(『山槐記』)。後白河院と二条帝は実の親子でありながら疎遠な関係にあり、後白河院は姝子と緊密な関係を築くことで影響力の確保を目指したと考えられる。二条帝も姝子の背後に父の影を感じていたと思われるが、表面上は何事もなく年も暮れようとしていた。 平治元年(1159年)12月9日、平治の乱が勃発する。25日夜、二条帝と姝子内親王は藤原信頼・源義朝が占拠していた大内裏を脱出して、平清盛の六波羅邸に遷幸した。翌26日に乱は鎮圧されるが大内裏の荒廃のため、29日、二条帝は清盛の警護により美福門院の八条殿に行幸する(『百錬抄』)。戦乱からの復興と体制の立て直しが緊急の課題であったが、翌永暦元年(1160年)から後白河院政派と二条親政派の亀裂は徐々に拡大していくことになる。
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