洋食屋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 10:06 UTC 版)
尾道は瀬戸内海随一の海運および商業の町として栄え、一時は広島県経済の中心地であった。尾道の中心街に近い久保町”渡瀬橋”東詰に1902年(明治35年)西洋料理屋「竹村家」として開店した。「アサヒビアホール」の看板を掲げていたがビアホールの形態ではなく、洋食屋であった。尾道初の洋食屋。 志賀直哉『暗夜行路』の草稿にこの店のことが書かれている。主人公は思うところがあって”田舎にしては立派な床屋”で丸坊主にし、そのあとぶらぶらしていると正午を過ぎ腹が減ったため宛もなく東へと店を探していく。そこで見つけたのがこの店だった。 海岸の方に出て見た。海に面した所に大きな、料理屋があつて、此所では盛んに三味線太鼓の音がしてゐた。小さい橋を渡ると、矢張り海へ面した川口にアサヒビールの看板を出した西洋料理屋があった。そこで晝食をした。細々した事を書くとキリがないが、ライスカレーをいふと、それに生玉子を一つつけて來たりした。 暗夜行路草稿4(校正後) , 原稿19-20 なお暗夜行路草稿4は志賀の日記と同等のものであるという説があり、つまり志賀がここでカレーを食べた可能性がある。 またアイスクリームも売られていた。当時はアイスクリームの工業生産化前で一般には普及しておらず、更には冷凍庫もまだ誕生していない時代で、アイスは大変貴重なものだった。現在、竹村家で出されるデザートのアイスは当時と同じ製法のもので出されている。 ただ、この洋食屋は火事により全焼した。
※この「洋食屋」の解説は、「竹村家」の解説の一部です。
「洋食屋」を含む「竹村家」の記事については、「竹村家」の概要を参照ください。
「洋食屋」の例文・使い方・用例・文例
- 洋食屋のページへのリンク