正典化
正典化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/08/18 11:29 UTC 版)
正典化(せいてんか)、とは、宗教的な文書が何らかの権威によって正典化されていくことを指す。宗教一般において多くは他宗教や同じ宗教内で異なる教義を奉じる派から、自派を差別化するために正典を定める動きが生じる。段階的にこの正典が定まっていく過程を正典化と呼ぶことがある。正典化に際して、最終的に正典に含まれないものとして排除された文書を外典(経外典)という。
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ユダヤ教
「モーセ五書」は、紀元前4世紀頃には正典的な権威が与えられていた。「ヨシュア記」「士師記」「サムエル記」「列王記」の4書は、その後まもなく正典的な扱いを受けた。これをユダヤ教では「前の預言書」という。「後の預言書(イザヤ書など預言者の記録)」「諸書(詩歌、知恵文学など)」は、紀元前2世紀頃に正典的な地位が確立され、ユダヤ戦争後にユダヤ教を再編した1世紀の終わりごろのヤムニア会議で正典が確認された。このヘブライ語本文を、8世紀以降、マソラ学者が母音記号等を加えて編集したものがマソラ本文で、全24書である。現在のところ、これを印刷体で出版したBHS(Biblia Hebraica Stuttgartensia、1967/1977年の略)が最も標準的なテキストとして利用されている。
キリスト教
これとは別に、紀元前250年頃からギリシア語に翻訳された「七十人訳聖書(セプトゥアギンタ)」があるが、現代残されている複数の写本はその数が一致しているわけではない[1]。パウロを含めたキリスト教徒が日常的に用い、新約聖書に引用されているのも主としてこのギリシア語の七十人訳であり、キリスト教は伝統的にこれを正典として扱ってきたが、外典と正典は区別されていた。マソラ本文系の写本からは失われたと思われる古い形態を残している可能性が認められる点で文献学上にも重要とされている[2]。マソラ本文と七十人訳聖書では構成と配列が異なる。また「七十人訳聖書」に基づいたラテン語訳の「ヴルガータ」では、収められている文書は同じだが、正典を39書としている。
3段階正典化説では、聖書は三段階で正典化されていったのであり、旧約よりも新約の正典化の方が早かったとされる。
自由主義神学の聖書学者は、人間的な基準によって聖書正典が決定されたとする[3]。聖書信仰の福音派では、聖書は聖書記者によって書かれたときから正典としての権威があったと認め、人間的な会議、公会議に権威をおかずに、聖書のみに最終的権威をおくため、正典化説が退けられている[4][5][6][7][8]。
ローマ・カトリック教会が聖書に対する外的権威を教会が付与したとするのに対し、プロテスタント教会は聖書の内的権威を教会が承認したと考えている[9][10]。
東方教会も西方教会も長らくこの七十人訳聖書を旧約聖書の正典と基本的にみなしてきたが、その配列や数え方には一部異なるものがある。また西方教会では正教会が正典とみなす文書の一部を外典とした。
イスラム教
脚注
- ^ ローマ・カトリック教会は旧約聖書の12巻を正典としているが、バチカン写本(AD350年)はマカバイ記1、2を含まず、エズラ記(ギリシア語)を含んでいる。シナイ写本(AD350年)はバルク書を含まず、マカバイ記4を含んでいる。アレクサンドリヤ写本(AD450年)はエズラ記とマカバイ4を含んでいる。尾山令仁『聖書の権威』羊群社
- ^ 秦剛平著 『乗っ取られた聖書』 京都大学学術出版会、2006年、ISBN 4-87698-820-X
- ^ 『新聖書辞典』p.722
- ^ R. D. Wilson, The Rule of Faith and Life, in The Princeton Theological Review
- ^ 『キリスト教神学入門』p.224
- ^ 『新聖書辞典』いのちのことば社
- ^ 尾山令仁 『聖書の権威』日本プロテスタント聖書信仰同盟
- ^ 内田和彦『神の言葉である聖書』近代文芸社
- ^ アリスター・マクグラス『キリスト教神学入門』p.224教文館
- ^ 尾山令仁『聖書の権威』羊群社
参考文献
- 『書物としての新約聖書』田川建三 勁草書房 1997年
- 『旧約新約聖書時代史』教文館 山我哲雄 2008
- 『キリスト教大辞典』日本キリスト教協議会NCC
- 『私たちにとって聖書とは何なのか-現代カトリック聖書霊感論序説』和田幹男 女子パウロ会
- 『旧約聖書の生い立ちと成立』榊原康夫 いのちのことば社
- 『新聖書辞典』いのちのことば社
- 『聖書の権威』尾山令仁 日本プロテスタント聖書信仰同盟
正典化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/29 09:29 UTC 版)
牧会書簡への最古の言及とされることがあるのは、使徒教父文書に含まれる『クレメンスの第一の手紙』(ローマのクレメンス、96年頃)、『ポリュカルポスへの手紙』(アンティオキアのイグナティオス、2世紀初頭)、『ポリュカルポスの手紙』(ポリュカルポス、2世紀初頭)などである。たとえば、『ポリュカルポスの手紙』の「一切の悪しきことのはじまりは金銭欲なのです」(4章1節)は、第一テモテ書6章10節「金銭を愛することは、すべての悪の根である」と対応している。これを引用と見なす論者は、当然、牧会書簡をこれら使徒教父文書よりも前の成立と見ている。それに対し、これを引用ではなく牧会書簡の著者とポリュカルポスの思想的近さを示すに過ぎないとする見解もあるが、さすがにハンス・フォン・カンペンハウゼン(ドイツ語版)のようにポリュカルポス自身が牧会書簡の著者であるとする説は、広い支持を受けるには至っていない。また、第一テモテ書の6章10節の起源を当時の格言と見なす見解も複数見られ、フィロンも同様の格言を引用している。 前述のように、140年頃のマルキオン聖書や200年頃のチェスター・ビーティ・パピルスには収録されていないが、この事実をどう評価するかは論者によって様々である。2世紀末から3世紀初頭とされる『ムラトリ正典目録』では、正典に含められている。 直接的な引用で最古のものはエイレナイオスの『異端駁論』(180年頃)で、この冒頭に第一テモテ書1章4節からの引用が掲げられている。このエイレナイオスの影響もあって、3世紀になるとテルトゥリアヌスらにも引用されるようになった。それ以降、19世紀になって真正性に疑問が投げかけられるまで、特にその真正性が疑われることはなかった。
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