正典作者たる資格
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 01:56 UTC 版)
「シェイクスピア別人説」の記事における「正典作者たる資格」の解説
ベーコンが正典の作者にふさわしい適性をもっていたことを示す証拠が存在する。シェイクスピアの豊かな語彙に関連した一例を挙げるならば、最初の英語辞典を編纂したサミュエル・ジョンソンによる次のような言葉がある。「英語の辞典は、ベーコンの著書からだけでも編纂が可能であるかもしれない」。詩人のP・B・シェリーは、ベーコンの飾り気のない正式な文体について証言している。 ベーコン卿は詩人であった。彼の言葉は甘美で堂々としたリズムをもって感官を満たし、同様にほとんど超人的とさえいえるその知識は知性を満足させる……。 — P・B・シェリー Defense of Poetry ベン・ジョンソンは、ファースト・フォリオにおいてシェイクスピアに宛てた献辞で「あの横柄なギリシアや傲慢なローマが生み出したすべての作品(Of all, that insolent Greece, or haughtie Rome...)」よりもシェイクスピアの作品を高く評価しているが、後年の著作において、ジョンソンはベーコンを讃えるのに同じ表現を用いている。 ベーコンは横柄なギリシアや傲慢なローマに比肩しうる、もしくはそれにもまさるすべての作品を我らの言語で生み出した。 ([Bacon] performed that in our tongue which may be compared or preferred either to insolent Greece or to haughty Rome...) — ベン・ジョンソン ベーコンが国家の歴史を書くことに関心を抱いていたことは、1621年の著書"History of the Reign of Henry VII"や、1608年の論文"Memorial of Elizabeth"、グレート・ブリテンの歴史を書くための財政支援を無心した1610年のジェームズ国王宛の書簡などからも明らかである。 ベーコンとシェイクスピアはいずれも1377年から1603年の君主とその治世を(ベーコンは歴史学として、シェイクスピアは史劇として)、互いに歴史観を重ねることなく描き出した。そして1623年、ベーコンはチャールズ王太子(後の国王チャールズ1世)に対して、ヘンリー8世に関する論文の執筆依頼を辞退するという返事を出している(シェイクスピアは1613年の時点で既に『ヘンリー八世』を脱稿していた)。
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