正典化への流れとは? わかりやすく解説

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正典化への流れ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 21:55 UTC 版)

ペトロの手紙二」の記事における「正典化への流れ」の解説

第二ペトロ書を正典とするかどうかは、古くから多く議論があり、正典組み込まれたのは最も遅かったローマのクレメンスポリュカルポスといった使徒教父文献には第二ペトロ書への言及見られないまた、エイレナイオステルトゥリアヌス正典認めた文書中に第二ペトロ書は挙げられていなかった。さらに、いわゆるムラトリ正典目録』(2世紀末から3世紀初頭)でも挙げられておらず、ラテン教会4世紀半ばまでこの手紙を知らなかったと言われている。 現存する最古写本3世紀初頭パピルス72英語版)である。第二ペトロ書に最初に言及したのはオリゲネス253年歿)とされるが、「疑わしいもの」として扱う立場であったエウセビオスまた、議論のある書として否定的に言及している。 363年ラオディキア会議では正典として認められたとされ、この判断アレクサンドリアのアタナシオスの『第三十九復活祭書簡』(367年)、ヒッポ会議393年)、カルタゴ会議397年)などでも堅持された。ヒエロニムス420年歿)の場合、疑う学者多さ言及しつつも、正典性認めていた。4世紀にはエルサレムのキュリロスナジアンゾスのグレゴリオスヒッポのアウグスティヌスらも正典認めていた。 シリア地方教会受け入れられたのは6世紀初頭以降のことであったが、東方でもトゥルルス会議692年)で正典であることが認められている。その後カトリック教会では、16世紀トリエント公会議正典であることが確定した同時代マルティン・ルター正典含まれる一部文書否定的評価下したが、その中に第二ペトロ書は含まれていなかった。ただし、最重要文献比べて一段落ちるとしていた。他方で、デジデリウス・エラスムスジャン・カルヴァン真正性疑問視した。

※この「正典化への流れ」の解説は、「ペトロの手紙二」の解説の一部です。
「正典化への流れ」を含む「ペトロの手紙二」の記事については、「ペトロの手紙二」の概要を参照ください。

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