報復行為
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 18:48 UTC 版)
「パルチザン (ユーゴスラビア)」の記事における「報復行為」の解説
終戦直後の時期、一部地域の住民やパルティザン兵士による枢軸勢力の同調者、協力者、ファシストに対する報復行為が発生した。その顕著な例がブライブルクの虐殺(Bleiburg massacre)、フォイベの虐殺(foibe massacres)、バチュカ虐殺(killings in Bačka)などであった。 ブライブルクの虐殺では、英米軍に降伏するためにオーストリア南部に向かったチェトニクやスロヴェニア人のドモブランツィ(Slovene Home Guard)、クロアチア独立国軍の兵士に対して報復行為が行われた。フォイベの虐殺とは、パルティザンの第8ダルマティア軍団やファシストに憤る市民らによって、イタリア人ファシストやその協力者、同調者、分離主義者と目された人々が殺害され、フォイベ(foibe)と呼ばれる洞穴に投げ込まれた事件である。それまでイストラ半島は長くイタリアの統治下に置かれ、非イタリア人は抑圧下に置かれていた。1993年に発足したイタリア人とスロヴェニア人の混成の歴史家委員会はイタリア領およびスロヴェニア領で発生した事件を調査した。それによると、虐殺の対象は、各個人の責任よりも立場上のファシズムとの近さに基づいたもので、共産主義政府にとって真に有害な者のみならず、その疑いのある者や潜在的な可能性を持つ者を一掃することに重点を置いたものであったとしている。バチュカの虐殺は、ハンガリー人のファシストや協力者、その疑いのあるものを対象とした同種の虐殺である。 また、各地のパルティザンの命令系統の整合性にも問題があった。例えば、スロヴェニア・アイドフシュチナのパルティザンは退却中のドイツ軍との間でこれ以上の戦闘をしないことを合意し、ドイツ軍は武装解除した。しかし、その後ユーゴスラヴィアの別の地域から来たパルティザン部隊が、非武装化されたドイツ軍を銃殺した。 しかし、ドイツ人やイタリア人、ファシスト協力者らに対するこうした報復殺害の数は、最大限に多く見積もっても枢軸勢力による死者数よりははるかに少ないものであった。ドイツやイタリア、ウスタシャやチェトニクなどと異なり、パルティザンはジェノサイドの戦略を持たず、全てのユーゴスラヴィアの諸民族の「兄弟愛と統一」を基本原則に掲げていた。枢軸勢力による占領の期間中、軍人・民間人あわせて90万人から150万人がファシストの犠牲となっている。 このパルティザンの暗黒史は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国では1980年代末期までタブーであり、公的機関がパルティザンの犯罪行為に対して沈黙を貫いた。これによりユーゴスラビア内戦から連邦解体後にかけて、各国の民族主義者らがプロパガンダ目的で好き勝手に数字を誇張できる状態になってしまった。 犠牲者の多くは森や炭鉱、洞窟に埋められ、そうした地点はスロベニアでは約600カ所と推計されている。2000年代に入り、断続的に発掘と遺体の収容が進められている。
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