連邦解体後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/08 02:38 UTC 版)
「ヴラジミール・メチアル」の記事における「連邦解体後」の解説
メチアルは1993年1月1日に誕生したスロバキア共和国の初代首相に就任したが、強引な政権運営に対して内部から反発が起き、1993年3月には議員8人が民主スロバキア運動を脱退。メチアルは1994年3月に首相を辞任し、代わってヨゼフ・モラウチーク(英語版)による大連立内閣が成立したが、同年10月の総選挙では民主スロバキア運動が勝利して再びメチアルが首相に返り咲いた。 政治手法は非民主的で権威主義的なものだったため、欧米諸国から絶えず強い批判を受けた。また市場経済の仕組みを無視した経済政策にも失敗し、実質的な経済低迷が続いて高い失業率が続いたため、次第に国民の支持を失った。このため1998年9月の総選挙では敗北し、反メチアル政党「スロバキア民主連合」(SDK)の党首であるミクラーシュ・ズリンダ首相の大連立政権が発足した。メチアルは引き続き民主スロバキア運動(のち「人民党・民主スロバキア運動」に改称)の党首を務め、2004年の大統領選にも立候補したが敗北した。 2006年6月に行われた総選挙で人民党・民主スロバキア運動は、得票率が史上最低の8.79%にとどまり改選前に比べ議席を半数近い15議席にまで減らしたが、民族主義政党のスロバキア国民党(SNS)とともに、第1党となった中道左派の方向・社会民主主義(SMER-SD)と連立政権を樹立。スメル党首のロベルト・フィツォ内閣に閣僚2人を送り込んだ。 その後メチアルは2009年の大統領選立候補を見送ったが、人民党・民主スロバキア運動は2010年国民議会選挙で得票率が前回をさらに下回る4.32%にとどまり、議席阻止条項の5%を超えられなかったため、ついに全議席を失った。国内では民主化以降20年間に及ぶ党首メチアルの経歴に一定の区切りがついたものと受け止められる一方、メチアルは選挙直後に出した声明で民主スロバキア運動の解散を否定し、議席の奪還に意欲を示した。しかし、民主スロバキア運動は2012年国民議会選挙でも議席を回復することができず、党勢は低迷。2013年12月、メチアルは同党を離党し、翌2014年1月11日、解散した。
※この「連邦解体後」の解説は、「ヴラジミール・メチアル」の解説の一部です。
「連邦解体後」を含む「ヴラジミール・メチアル」の記事については、「ヴラジミール・メチアル」の概要を参照ください。
- 連邦解体後のページへのリンク