北部諸州
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奴隷制度廃止運動はどの州でも奴隷制度を廃止する方向に進行して行った。1804年までに北部の全州は奴隷制度を廃止した。ただし、奴隷の解放については段階的であり、1860年の国勢調査でも「永久奉公」の者が少なからず残っていった。この改革を主唱する主要な組織はキリスト友会(クエーカー)、ペンシルベニア反奴隷制協会およびニューヨーク奴隷解放協会であった。ニューヨーク奴隷解放協会は、権勢ある連邦党政治家ジョン・ジェイとアレクサンダー・ハミルトンおよび民主共和党のアーロン・バーが指導していた。ニューヨーク奴隷解放協会の相当な努力により、ニューヨーク州は1799年に奴隷制度を(段階的に)廃止した。奴隷の数に関しては1863年以前のアメリカの歴史で最大の解放となった。1804年のニュージャージー州における奴隷制度廃止が北部では最後のものになった(これも段階的ではあった)。しかし、1787年の憲法制定会議において、連邦政府が国際的な奴隷貿易を1808年に廃止することを容認する合意が形成されていたが、この頃でも奴隷貿易は続いていた。この時、1798年までに、ジョージア州を除く全ての州が個別に奴隷貿易を廃止するか制限する法律を成立させていた。 1830年代の初め頃、アメリカ合衆国郵政長官が奴隷制度廃止運動のパンフレットを南部の州に届けさせることを拒否した。北部の教師達は奴隷制度廃止運動のかすかな兆候も南部からは排除されるのではないかと疑い、奴隷制度廃止運動に関わる文学も禁じられたと思った。南部の者達は奴隷制度廃止論者だということを共和党が否定したことをはねつけ、1859年のジョン・ブラウンによる奴隷蜂起の試みを証拠として、北部の多重の陰謀が血なまぐさい奴隷の反乱を起こそうとしていると指摘した。奴隷制度廃止論者の中には奴隷の反抗を要求した者もいたが、ブラウンのような陰謀が露見したという証拠はなかった。北部でも脅威を感じ、エリック・フォーナーは、「北部の者は良き社会の対極にあるものとして、またその基本的な価値観や利益に対する脅威として奴隷制度を見るようになった」と結論付けた。しかし、多くの保守的な北部人は、突然巨大な数の自由労働者が仕事待ちの人の中に入ってきて、しかも彼らは報酬などなくて働いて来ており、喜んで労賃相場を下げると見られていることに不安を感じていた。
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北部諸州
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アメリカ合衆国にとどまった州は以下の通り: カリフォルニア州 コネチカット州 デラウェア州* イリノイ州 インディアナ州 アイオワ州 カンザス州 ケンタッキー州* メイン州 メリーランド州* マサチューセッツ州 ミシガン州 ミネソタ州 ミズーリ州* ネバダ州 ニューハンプシャー州 ニューヨーク州 ニュージャージー州 オハイオ州 オレゴン州 ペンシルベニア州 ロードアイランド州 バーモント州 ウェストバージニア州* ウィスコンシン州 * 境界州:ケンタッキーとミズーリでは、親脱退派が南部への賛意を表明し、連合国への参加を宣言したが、北部と南部それぞれに参加を宣言した勢力が存在した。 ワシントンD.C.はアメリカ合衆国連邦政府直轄地であるため従って北軍アメリカ合衆国に留まることとなった。開戦時点では境界州の如く奴隷制度が存続していたが、戦時中の1862年4月16日に奴隷制度廃止となった。 カンザスは脱退の危機が始まった後の1861年1月29日に北部へ加わったが、サムター要塞の戦いの前であった。ウェストバージニアはバージニアから分離し、1863年6月20日に北部に加わった。ネバダも戦時中に北部に加わり、1864年10月31日に州に昇格した。現在ネバダ南部の部分はニューメキシコ準州の一部であった。
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