北部諸侯の乱をめぐって
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 16:53 UTC 版)
「ウィリアム・セシル (初代バーリー男爵)」の記事における「北部諸侯の乱をめぐって」の解説
1568年12月、ネーデルラントで反乱鎮圧に当たるアルバ公への軍資金を乗せたスペイン船が悪天候とユグノー派海賊の追跡から逃れるためにイングランド南岸に寄港する事件があったが、これを知ったセシルは女王に進言してこの船に積んである軍資金を全て没収させた。これに対抗してアルバ公がネーデルラントにいるイングランド人を逮捕してその財産を没収すると、エリザベスもこれに対抗してスペイン人とフランドル人の財産を没収した。この一連の騒ぎでイングランドとスペインの関係は決定的に悪化したため、イングランド国内でもセシル批判が高まった。 反セシルの機運が高まる中、1569年にはセシル排除の計画が、イングランド亡命中のスコットランド前女王メアリーとノーフォーク公トマス・ハワードの結婚計画と合わせて盛り上がりを見せていた。ノーサンバランド伯トマス・パーシーやウェストモーランド伯チャールズ・ネヴィルらカトリック北部諸侯と駐英スペイン大使がこの計画の中心であり、メアリーも前向きだった。宮廷内のセシルのライバルであるレスター伯も一時この計画に協力していた。しかし反セシルだけではなく、反エリザベス色も強い計画だったため、後にレスター伯は計画から手を引いた。ノーフォーク公も手を引こうとしたが、ノーフォーク公は1569年10月にロンドン塔に幽閉された。カトリック北部諸侯は11月に反乱を起こしたが、スペインが援軍を送らなかったため、失敗に終わった。この北部諸侯の乱(英語版)によってセシルの権勢はむしろ強化された。
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