M&Aコンサルティング設立前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 20:19 UTC 版)
「村上世彰」の記事における「M&Aコンサルティング設立前」の解説
主に台湾との貿易を営んでいた華僑貿易商である在日台湾人の村上勇の次男として大阪・道頓堀界隈に生まれる(台湾生まれの父は日本兵として徴兵され、復員船で帰還を果たした途端、日本国から日本の国籍を取り上げられて台湾に帰され、1950年代に日本へ戻り、日本国籍を取得した)。大阪市立道仁小学校を卒業。なお、小学校3年生頃には、すでに株取引のキャリアはスタートした。これは、父親が、月々の小遣いの支払いを廃止する代わりに、大学卒業までの小遣いとして100万円の現金を渡したことに端を発するもので、この資金を元手に、株式市場で小遣いを捻出していたとされる。大学卒業時には当初の100万円は1億円を超えたという。小学校時代はとても元気で活発な性格で、所謂ガリ勉タイプではなく、近所の友達ともよく遊んでいたという。学校では教師の間違いを指摘するなどしていた。 その後、灘中学校・高等学校に進学。せんだみつおの熱烈なファンで、高校時代はのせんだの弟子になることが夢であり、「せんだの人生には偽りがない」という文章を文集に残している。また、高校時代にのちにパートナーとなる丸木強と出会っている。しかし、学校に行っても学校行事には参加せず、校内の割り当て仕事(たとえば掃除当番)も「試験や受験が近づいたら、学校に行くよりも家で勉強するほうが効率がいい」「掃除なんかやっている暇があれば、自分だけ先に帰って勉強したい」との理由で不参加を通していた。 高校では220人中200番まで成績が下がったこともあった。教科は理系科目が得意であったが、文系科目が苦手なために1年間の浪人生活を経験。1979年、東京大学文科1類(法学部進学課程)に進む。 大学生活は、父の所有する東京都港区高輪の高級マンションから、ポルシェに乗って通学するという豪華なものであった。1983年、東京大学法学部を卒業。ゼミは会社法。東大法学部同期の友人に衆議院議員で外務大臣の林芳正、伊藤芳朗弁護士(伊藤は灘高の1年後輩)などがいる。同年、通商産業省(現経済産業省)に入省。通産省時代に近未来小説「滅びゆく日本」を執筆するも、上司が反対したため出版には至らなかった。 通産省時代は在南アフリカ日本大使館一等書記官としてアパルトヘイト時代の南アに赴任。口が災いして左遷された結果だったと伝えられている。
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