FBI・マッカーシズム・審問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:18 UTC 版)
「W・E・B・デュボイス」の記事における「FBI・マッカーシズム・審問」の解説
1950年代の間、デュボイスはその社会主義への傾倒によって合衆国政府の反共主義のマッカーシズム運動の標的とされた。歴史学者マニング・メラブル(英語版)は政府によるデュボイスへの処置を「冷酷な抑圧」と「政治的な殺人」として描いている。 FBIは1942年からデュボイスに関する書類を整理し始め、破壊活動を行う可能性について彼を調査した。このデュボイスの容疑に関する証拠を十分に発見できなかったため、FBIの操作は1943年に終了したものと思われる。1949年、FBIはデュボイスが「潜伏共産主義者(Concealed Communists)の一味だったという疑いで捜査を再開した。1950年代初頭、デュボイスが核兵器に反対した結果として彼に対する政府の最も積極的な攻撃が行われた。1950年にデュボイスは新たに創設された平和情報センター(英語版)(Peace Information Center、PIC)の長(chair)となった。アメリカでストックホルム・アピールの宣伝に取り組んだ。ストックホルム・アピールの主たる目的は全世界の政府に核兵器を禁止するよう求める請願書に署名を集めることであった。 合衆国司法省(The U.S. Justice Department)はPICが外国のエージェントとして活動していると主張し、それ故にPICを連邦政府に登録するように要求した。デュボイスを含むPICの指導者たちはこれを拒否した。そのため登録を怠ったとして起訴された。起訴後、デュボイスの仲間の幾人かは彼から距離を置き、NAACPはデュボイスに対する支持の声明を出すことを拒否した。しかしラングストン・ヒューズを含む多くの労働組織関係者や左翼の人物がデュボイスを支援した。 デュボイスは1951年に裁判にかけられ、公民権運動の弁護士ヴィト・マルカントニオ(英語版)が代理人を務めた。マルカントニオが裁判官に「アルベルト・アインシュタイン博士がデュボイスの人格に対する証人として出廷を申し出た」と伝えた直後、陪審が評決を与える前に裁判は棄却された。この裁判についてのデュボイスの回顧録は『In Battle for Peace(平和のための闘い)』である。デュボイスが有罪にならなかったにもかかわらず、政府はデュボイスのパスポートを没収し、8年間差し押さえ続けた。
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