ミヨー【Darius Milhaud】
ミヨー
裕福なユダヤ人家庭に生まれ、仏プロヴァンス地方で育つ。7歳よりヴァイオリンをはじめ、まもなく作曲も始める。パリ音楽院へはヴァイオリン専攻で入学するが、次第に作曲こそが自らの天職であると感じるようになったという。第一次対戦時、彼は健康上の理由から兵役を免除され(リューマチ関節炎によって重度の身体障害者となり、のちには車椅子生活を余儀なくされた)、外交官であった友人がブラジル赴任を言い渡されると、その秘書としてミヨーも一緒にブラジルに渡る。2人は約2年間を南米で生活し、そこで触れた独特の空気や音楽のリズムがこの若い作曲家に多大な影響を与えたことは、作品に顕著に表われている。たとえばピアノ作品では、2台のための作品《スカラムーシュ》のフィナーレがそのよい例であろう。1918年11月にパリへ戻り、ミヨーは「六人組」の一人となる。その2年後の1920年、作品上演のためロンドンに滞在していたミヨーは、ビリー・アーノルド楽団による演奏でジャズを初めて耳にし、衝撃を受ける。
ダリウス・ミヨー
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ダリウス・ミヨー(Darius Milhaud [daʁjys mijo], 1892年9月4日 - 1974年6月22日)は、フランス人の作曲家。名はダリユス、ダリュスとも表記される。ピアニストや指揮者としても活躍し、自作の録音を残している。フランス6人組の一人。
- ^ “ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2018年7月15日閲覧。
- ^ ダリウス・ミヨー、別宮貞雄訳『幸福だった私の一生』音楽之友社、1993年、14ページ
- ^ ミヨー、前掲書、19-20ページ
- ^ ミヨー、前掲書、22ページ
- ^ 1919年から21年にかけて『音楽通信』で批評を担当した際に「打倒ワーグナー」を表明し、抗議が殺到した。
- ^ ミヨー、前掲書、33-34ページ
- ^ 亡命者の受け入れや援助などを行うための組織。アンドレ・ジードも関わっていた。
- ^ ミヨー、前掲書、65ページ
- ^ ミヨー、前掲書、101ページ
- ^ この後、バレエ・リュスでは1924年に『青列車』で音楽を担当する。
- ^ ミヨー、前掲書、112ページ
- ^ ただし、後にミヨーは1926年頃にはジャズへの関心を失う(ミヨー、前掲書、176ページ)。
- ^ ミヨー、前掲書、130ページ
- ^ オネゲル、デゾルミエールと合作による『愛の騎士旅行』(1939年、邦題『第三の接吻』)の映画音楽は木管五重奏曲『ルネ王の暖炉』として再編され、このジャンルの主要レパートリーの一つとなっている
- ^ ミヨー、前掲書、235ページ
- ^ 対位法の技術を教えることの難しかった当時のアメリカの教育事情を考慮して、アンドレ・ジェダルジュのフーガの教程の英語版の出版に協力し、英語版序文を書いた(訳出者はフェルディナンド・ディヴィス。米国オクラホマ大学出版社刊。現在はこの英語版は絶版)。
- ^ ミヨー、前掲書、294ページ
- ^ 1920年代に「ベートーヴェンより1曲多い18曲の弦楽四重奏を作りたい」と宣言していたため、第18番の終楽章で自らの弦楽四重奏第1番の第1楽章を回想する構成にし、このジャンルを打ち止めにした(ミヨー、前掲書、282-283ページ)。
- 1 ダリウス・ミヨーとは
- 2 ダリウス・ミヨーの概要
- 3 作品
- 4 著書
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