6代目三遊亭圓生襲名・満州へ
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「三遊亭圓生 (6代目)」の記事における「6代目三遊亭圓生襲名・満州へ」の解説
生活が苦しく落語家を断念し以前から稽古に通っていた舞踊家へ転身を図ろうとした矢先、継父5代目圓生が逝去し母を含めた家計を助けなければならなくなり舞踊家は断念し1941年(昭和16年)に当時所属していた落語協会の会長の6代目一龍斎貞山の勧めで6代目三遊亭圓生を襲名した。 1945年 (昭和20年)、母親が逝去した5代目古今亭今輔の代わりに満洲映画協会の傍系である満洲演芸協会の仕事で5代目古今亭志ん生や講談の国井紫香らと満州を慰問する。満洲演芸協会の仕事の他に満洲電信電話の新京放送局が主催した演芸会に5代目古今亭志ん生と呼ばれ、当時アナウンサーだった森繁久彌と出会う。終戦で帰国不能になり、現地で演芸会などを催しながら引き揚げ船の出航を待ち、生死ギリギリの生活で志ん生と共に約2年間暮らした。その後、妻子を日本に残したまま生活の便宜上現地で日本人女性と結婚生活を送り、1947年(昭和22年)、志ん生と生活を別にする。このことを先に帰国した志ん生は見捨てられたと思いかなり恨んだものの「あんな薄情な奴は殺してやろうと思ったが、寄席で謝ったから殺すのはやめちゃった」と小山觀翁に語ったという。 満洲から苦労して帰国した後は寄席に出演すると「上手くなった」と言われ、満州での苦労が芸に生きたと自己分析した。妾馬を演じたところ評判が良く、むやみに客を笑わせようとするのではなく笑いあり涙ありの噺が向いている、と自身の進む方向が見えてきたという。1953年(昭和28年)、ラジオ東京が8代目桂文楽や6代目圓生ら落語家5人と専属放送契約を締結し、人気落語家の一人になる。
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