6代目三遊亭圓生襲名・満州へとは? わかりやすく解説

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6代目三遊亭圓生襲名・満州へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 10:09 UTC 版)

三遊亭圓生 (6代目)」の記事における「6代目三遊亭圓生襲名・満州へ」の解説

生活が苦しく落語家断念し以前から稽古通っていた舞踊家転身図ろうとした矢先継父5代目圓生逝去し母を含めた家計助けなければならなくなり舞踊家断念し1941年昭和16年)に当時所属していた落語協会会長6代目一龍斎貞山勧め6代目三遊亭圓生襲名した1945年昭和20年)、母親逝去し5代目古今亭今輔代わりに満洲映画協会傍系である満洲演芸協会仕事5代目古今亭志ん生講談の国井紫香らと満州慰問する満洲演芸協会仕事の他に満洲電信電話新京放送局主催した演芸会に5代目古今亭志ん生呼ばれ当時アナウンサーだった森繁久彌出会う終戦帰国不能になり、現地演芸会などを催しながら引き揚げ船出航待ち生死ギリギリの生活で志ん生と共に2年間暮らした。その後妻子日本残したまま生活の便宜上現地日本人女性と結婚生活を送り1947年昭和22年)、志ん生と生活を別にする。このことを先に帰国した志ん生は見捨てられたと思いかなり恨んだものの「あんな薄情な奴は殺してやろうと思ったが、寄席謝ったから殺すのはやめちゃった」と小山觀翁語ったという。 満洲から苦労して帰国した後は寄席出演すると「上手くなった」と言われ満州での苦労が芸に生きた自己分析した。妾馬演じたところ評判良くむやみに客を笑わせようとするのではなく笑いあり涙ありの噺が向いている、と自身の進む方向見えてきたという。1953年昭和28年)、ラジオ東京8代目桂文楽6代目圓生落語家5人と専属放送契約締結し人気落語家一人になる。

※この「6代目三遊亭圓生襲名・満州へ」の解説は、「三遊亭圓生 (6代目)」の解説の一部です。
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